第十八話 四光日目 「丘陵の上」
クラウンたちは、無償宿から湿っぽい砂道を南東に進み、途中、大股に分岐された二つの道を、寂れた道標を頼りに東へと入った。
道しるべには、西方角に“ミャーの大滝”が示され、東方角に“アルド村”が示されていた。
東のアルド村を選んだのは、村であれば飲み水が確実にあるはずだと意見が一致したからだった。
さらには、親切な人がそれこそ無償で水筒にたっぷり注いでくれるかもしれないと希望を抱いたからだ。
ミャーの大滝にも余る程の水が溢れているのだろうが、口に含んでも害をなさない水であることには確信がない。
道標から進み、既に一光時間が過ぎているはずだった。
しかしどれだけ歩いても、生い茂った草原と、緑が朽ち果てた荒野と、無味乾燥な丘陵しか現れなかった。
途中で二台の馬車とすれ違ったが、どちらも忙しなく馬車馬を働かせていたために引き止めて尋ねることは躊躇われてしまった。
クラウンたちが彷徨っている場所は神の国の中でも取り分け田舎のようで、歩いている人は勿論、乗り物といったら馬車くらいで、興隆した街で見たような空を飛ぶ船や、羽根を背中に装着して飛び交う民は存在しないようだった。
それよりも、神の国総体の地理の特徴として、集落と集落との間隔がとても離れていることが挙げられる。そしてそれは、田舎であればあるほど離れていた。
村は、どの集合体も数十世帯から成っていて、食料や生活雑貨などは村の中で揃えることができるが、薬や重油などは商店街が連なる発展した地域まで足を運ばなければ入手出来ないのが不便であった。
その他にも、理髪店や金融機関を利用する際も、遠方へ出向かなければならなかった。
クラウンは、一際大きい丘陵の頂上で見渡せる限りの範囲を一望した。が、家屋が密生した集落らしい風景を見つけることは出来なかった。
「ダメだ。まだ先のようだ。ひとまずここで休むとしよう」
切り株を見つけ、二人は腰を下ろした。
「腹減ったな……」
クラウンは腹部を摩った。既に質素な朝食以上のエネルギーを消費しているはずだ。
「食べる?」
ライトが鞄から缶詰を取り出した。
「どうしたんだよ、それ」
「こういうこともあるかと思って、持って来たんだ」
蓋が開けられると懐かしい匂いがした。
「ソーセージか。最高だな」
「こっちでは中々手に入らないから持って来て正解だったよ」
缶詰を差し出され、クラウンは手をズボンで拭いて、ソーセージを一本撮った。
チキンスープで煮詰められた缶詰は香りが良い。
あっちの世界では、当たり前に食べられている代物だ。パンに挟んで食べたり、サラダに加えられたり、スープに入れて煮込んだり、何かと重宝する食材であった。
しかしクラウンはこれといって好んで食べたいと思ったことはなかった。味に不満がある訳ではないが、やはり加工されている食材は生の食材には勝てない。それだけの理由である。
けれど今は、最高級の肉料理と匹敵するくらいの価値がある。
「いただきます!」
二人揃ってソーセージにかぶりついた。
前歯で噛みちぎると、身を包んだ皮が破け、瞬く間に肉とチキンスープの味が口の中に広がって、顎の付け根の筋肉が久しぶりの噛みごたえに驚いたかのようにキューッと痛くなった。
咀嚼するたびにハーブの効いた肉がホロホロと崩れ、一気に幸せな気持ちになった。ついつい手が頬に伸びる。
「懐かしい最高の味だ」
クラウンは一口を小さく噛んでいった。一回で食べるのが勿体無かった。
缶詰がこんなに美味しいと感じたのは初めてで、何故もっと早く気づかなかったのかとクラウンは悔やんだ。
「美味い。どうしようもなく美味い」
「本当だね。缶詰ってこんなに美味しかったんだ」
ライトは言って、缶をクラウンに差し出す。
「もう二つあるから一本ずつ食べよう」
「ありがとう」
クラウンは、二本目のソーセージも小さく齧ってゆっくりと堪能した。
最後に残ったチキンスープも二人で分けて飲み干した。
食べ終わってみると、三夜分の食事を一度に摂取したかのような満足感だった。
空腹こそ満たされてはいないけれど、不思議と物足りた感があって、何よりも、口の中に残されたソーセージやらハーブやらチキンやらの味が、また違った旨みとなって、至福の余韻に浸らせてくれた。
緩やかな風が吹いて、クラウンは靡いた拍子に目にかかった前髪を掻き分けた。
そして彼は、胸ポケットから一枚の写し画を取り出した。
家族が写っている。
二色年前の父がいなくなる直前のことだった。
新しいトロッガンを購入した記念にと、画師に頼んでガレージで写したのだ。
トロッガンを背後に、右側の父と左側の母が中央のクラウンの肩に腕を回したポーズで写っている。
隅の方にホウキバタキがいる。この時、羽根虫が大量発生したが、有能な掃除花のお陰で大きな被害に遭わなくて済んだのだ。
写し画を見ると、写る三人の笑顔は昨日のことのように思える。
「手紙、カカァ読んだかな?」
この世界に来る前、クラウンは母に伝書を送っていた。
突然いなくなればきっと心配するはずだ。手紙で報告することに後ろめたさはあったが、母を目の前にすると、どうしても異世界へ行くとは切り出せなかった。
カカァは当然反対したはずだし、泣いてすがられたりでもしたら、自分の意思を無理に押し殺してカカァの近くに居ることを選択しただろう。父を探す旅は、諦めていただろう。またいつか、もっと大人になってから探しに行こうと思い直していただろう。
それだけは避けたかったのだ。この旅は、オトンの手帳を見つけてしまってからずっと胸に秘めていた決意だ。今ここで実行しなければ、きっと後悔することになる。
――ごめん、カカァ。きっとオトンを探して無事で戻るから。待っててくれ。
オトンはこの世界にいるはずだ。死んでなんかいない。死んでなんかいないんだッ!
クラウンは写し画をギュッと握って、その拳を額に付けた。
ライトがクラウンの肩に優しく触れる。
「きっと届いたさ。クラウンの気持ちは十分に伝わっているはずだよ」
拳を下ろし、クラウンは首を捻ってライトを見た。
「――あの時、海でオイラたちが見たのは、目の錯覚じゃないよな?」
するとライトはゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。
「錯覚なんかじゃない。僕らは間違ってなどいない」
「だよな……」
クラウンは、生まれたばかりのような、高層ビルなどない自然に覆われた平地を眺めた。
「あの黒い渦は、見間違いなんかじゃない」
二色年前、クラウンとライトは、遊びに行った海岸で、不思議な光景を目撃していた。
陽が沈み、太陽が海に飲み込まれて行くような幻想的な景色を眺めていた。黄金色に染まる空と水面が、眩しいほど綺麗で、見とれてしまっていた。
風もなく穏やかな日で、波も静かだった。
三羽のカモメがゆっくり旋回して森へと帰る景色や、釣り人が長い影を落として家路を急ぐ風景や、色んな絵がその空間にはあった。
そんな時だった。突然、海水が炭を溶かしたように真っ黒に変色し、中央に大きな渦が現れた。
その渦はとても大きくて、中心の軸が海の底まで続いているかのようだった。
ゴーゴーと音をたてて毒々しく回転する渦巻きは、飛んでいた三羽のカモメを吸い込んでしまった。
それから、岸に生える多くの幹と、大きい岩を引きずり、丸ごと飲み込んだ。
突如として現れた巨大渦巻きは、少年二人の思考を麻痺させ呆然とさせた。しばらくは何が起こっているのか理解が出来なくて、ただ放心して立ち尽くすしか出来なかった。
渦の中に人の姿が見えたのは一瞬のことだった。
暗闇で光る獣の目が開いては閉じられての繰り返しのように、幾人の顔面が断続的に浮かび上がっては、消えた。
しかしそれは本当に一瞬のことで、アッと思って踵を浮かせるや否や、小さな蝋燭の炎のようにフッと消えてしまうのだった。
消えた後には人型の残像へと変わり、無抵抗の人形のような黒い影が巨大渦に弄ばれていた。
クラウンは、父の顔がその中にあった事実をはっきりと記憶している。ライトの母の顔も確認していた。
多くの影を飲み込んだ渦は、範囲を狭めながら徐々にその力を縮小していった。最後には水面に大きな波紋だけが残され、クラウンが我に返ると、空には月と星が戻っていた。
人形のような黒い影は、どことなくアレに似ているとクラウンは思う——影狩の影法師。
一度だけ授業で見たことがある。
国館から招いた魔法使いが、特別授業を披露してくれた時だ。
魔法使いは、ある生徒の姿を影狩したのだが、判然としない境界線が形成する影法師は、まるで炎が黒くなって人の形を真似ているかのような不気味な有様だった。
幽体のようにも見え、蜃気楼のようにも見えた。とにかく奇妙な影だった。
渦が吸い込んだ黒い物体化とした影も、その影法師と様子が極めて近かった。
しかしそんな風にクラウンが思えたのは、父の行方が分からなくなって程なくしてからのことだった。高院のテストに影狩の問題が出題されたのだ。
まさかとは思ったが、そう思うようになったらそれしか考えられなくなっていた。
ライトの母の行方も知れず、クラウンの予覚は急速に確信に迫っていった。
さらに、あの怪奇な有様を目撃していたのは、クラウンたちだけではなかった。
渦の怪事は村中に周知され、それ以来消息が分からなくなった民は、あの巨大渦に飲み込まれて死んでしまったのだと解釈された。
行方不明者は偶然にも皆、過去に神の国へ趣いた経歴を持っていて、それを良く思っていないテリオン星の人々の中には、無礼にも武骨者たちが神の国へ行った天罰が下ったのだと蔑む意見も多かった。
クラウンは心無い言葉は一切受け付けず、自分の存意をひっそりと貫き、ライトだけに告白していた。
神が天罰を下すようなことをして人間を殺めるなんてこと……ある訳がない。きっと他に理由があるはずだ。何か、悪辣で無慈悲な理由が……。
渦に飲まれた人々は、肉体と影法師に分離されながら別世界に引きずり込まれたに違いない。そこで考えられる異世界は神の国意外になく、そこでしかないのだ、と。




