偽物令嬢ですが、何か問題でも?
「今日からあなたは、侯爵令嬢ミオリア・ヴァレンタインです」
そう告げられたとき、私はちょうど、差し出されたクッキーを飲み込むところだった。
ここは、王都の外れにあるヴァレンタイン侯爵家の客間。
ついさっきまで私は、裏通りの洗濯場で、凍るような川の水に手を突っ込んで、貴族様のシーツを洗っていた。それが、突然やってきた侯爵家の使用人に連れ去られ、髪を洗われ、爪を磨かれ、見たこともないドレスを着せられて、気がつけば、ここにいる。
「……はぁ」
気の抜けた返事をした私を、目の前の執事は、苦々しい顔で見下ろした。
「しっかりしてください。事情はもう説明したはずです」
説明は、されていた。要するに、こういうことらしい。
ヴァレンタイン侯爵家の一人娘ミオリア様には想い人がいたらしい。平民上がりの使用人頭の息子だとかなんとか、詳しくは忘れた。とにかく、ミオリア様はその男と深く想い合っていたところへ、国でも指折りの権力者であるアッシュフォード公爵との婚約話が舞い込んだ。逃げ道をなくしたお嬢様は、ある晩、書き置き一つ残して、その想い人と二人で駆け落ちしてしまったそうだ。
侯爵家は青くなった。婚約を破棄されれば、家が潰れる。しかし、ミオリア様の所在を掴み、連れ戻すには時間がかかりすぎる。
そんなとき、侯爵家のお抱え商人が、街でミオリア様に瓜二つの洗濯女を見かけた、と報告した。
それが、私──ユア。
孤児院で育ち、十二の歳から洗濯場で働いてきた、身寄りのない十八歳。行方不明になっても探す人間がいない、身代わりとしてはこれ以上ないほど都合のいい人選だ。
「もう一度言います。お嬢様を連れ戻すまで、あなたには身代わりを務めていただきたいのです」
執事は言った。
「三日後、公爵様との初対面がございます。それまでに、最低限の所作を叩き込みますので、気合を入れてください」
「バレたら、どうなるんですか」
「……バレぬよう、努めるのがあなたの仕事です」
遠回しな返事だった。
バレたらたぶん、私はひっそり消される。貴族のすることだ。
普通ならここで泣いて嫌がるのかもしれない。けれど、私は、妙に落ち着いていた。帰る場所なんて、もとから、なかったから。
洗濯場に戻っても、待っているのは凍った水と、先輩たちの嫌味と、固くなった黒パン。少しの給金は宿代と食費でほとんど消える。生きているのか、ただ死んでいないだけなのか、自分でもわからない日々だった。
それに比べれば、暖かいベッドで眠れて、白いパンが食べられる日々が少しでも続くなら、御の字。
どうせ偽物なのだ。偽物らしく、気楽にやろう。
私はそう腹を括って、もう一枚、クッキーに手を伸ばした。
§
三日後、私はアッシュフォード公爵の屋敷にいた。
屋敷、と言ったけれど、私の目にはそれは城だった。門から玄関まで馬車でさらに数分かかる。広間の天井は見上げると首が痛くなるほど高く、シャンデリアの一つで、私の一生分の稼ぎより高そうだった。
そして、広間の奥に、その人は立っていた。
黒髪に、空のように青い瞳。背が高く、表情はぴくりとも動かない。人形と言われたら信じてしまいそうな美貌だった。
噂に聞く「氷の貴公子」、フェリクス・アッシュフォード公爵。
私は、侯爵家で叩き込まれた淑女の礼をしようとして、見事に足をもつれさせ、ドレスの裾を踏んでよろけた。公爵の手がすっと伸びて、私の肘を支えた。
「……し、失礼いたしました」
消え入りそうな声で謝る私を、公爵は、じっと見下ろした。
「長旅で疲れただろう。今日はゆっくり休むといい」
一瞬、心臓が止まりそうになった。
そして、その夜の食事で、私は一度、魂が抜けた。
湯気を立てる白いスープ。こんがり焼けた鶏肉。バターが溶けるふかふかの白パン。野菜のサラダ。果物のデザート。
テーブルの向かいには、無表情の公爵。
私は、ふわっと漂うバターの香りにたまらず鼻を近づけ、震える手でスプーンを握り、スープを一口すすった。
塩気がちょうどよくて、バターの香りがして、喉を通るとき、体の芯がじんと温まった。
こんなものを、毎日食べている人がいる。同じ国の同じ空の下で、私は凍った水に手を突っ込みながら、この人たちは温かいスープを飲んでいた。恨めしいとかじゃない。ただ、世界って不思議だなあ、と思った。
そんなことを考えながらも、私の手は止まらなかった。
鶏肉の皮はぱりぱりで、中はしっとり。パンはバターを塗ると溶けた。野菜がこんなに甘いなんて、知らなかった。気がつけば、出された料理をすべて平らげていた。
顔を上げたら、公爵がこちらをじっと見ていた。
「……あの、なんでしょうか。あっ、食べすぎ、でしたか!?」
令嬢は小食でないといけない、と侯爵家で言われていた。思い出した頃には遅い。私は冷や汗をかいた。
公爵は、少しの間を置いて、言った。
「いや何も問題ない。足りなければ、もっと頼むといい」
そして、ほんの少しだけ──本当に、ほんの少しだけ、口元が緩んだ気がした。
いや気のせいかもしれない。だって彼は氷の貴公子なのだから。
§
不思議なことに、日々は穏やかに過ぎていった。
一週間経っても、一ヶ月経っても、咎められることはなかった。
淑女の所作なんて、三日で叩き込まれた付け焼き刃だ。フォークの持ち方は時々怪しいし、お茶を飲むときにカップの音を立ててしまうことも、正直、しょっちゅうあった。
けれど、公爵は、一度も「作法がなっていない」とは言わなかった。
それどころか、彼は、だんだん、私の近くに来るようになった。
朝食の席で、私がパンをむしゃむしゃ食べると、「たくさん食べるのはいいことだ」と言って、執事にこっそり追加を持ってこさせる。庭を歩きたいと言えば、「私も行こう」と言って、書類の束を抱えたままついてくる。
そんなある昼下がり、私は、庭の奥のほうで、小さな白い花を見つけた。
雑草のような、本当に小さな花だった。貴族の庭に植えられた薔薇や百合に比べれば、あまりに地味で、きっと誰も気にも留めない。
けれど、私は、その花がなんとなく好きだった。
孤児院の裏庭にも、同じような花が咲いていたのだ。春になると、誰も世話をしないのに、勝手に顔を出してくれる、強い花。
しゃがんで、指先でそっと花びらに触れていると、後ろから声がした。
「何をしている」
振り返ると、フェリクス様が立っていた。また書類を片手についてきたらしい。
「あっ、いえ、その、この花がかわいいなって」
私は慌てて立ち上がった。令嬢が地面にしゃがむのは、たぶん、お行儀が悪い。
フェリクス様は、私の視線の先に目をやった。
「……この花か」
「へ、変ですよね。もっと立派な花がたくさんあるのに」
「いや」
彼は、少し考えて、言った。
「君らしい」
それだけ言って、彼は書類に目を戻した。私は、顔が熱くなるのを感じた。
褒められたのか、からかわれたのか、わからない。けれど、「君らしい」という一言が、胸の奥に、ぽとりと落ちて、じんわり広がった。
翌朝、私の部屋に、一枚の真新しいハンカチが届いていた。
上質な白い布の端に、小さな刺繍が入っている。白い、花。昨日の庭の、あの花。
添えられた短い書き付けには、不器用な字で、一言だけ。
『君に』
私は、ハンカチをぎゅっと握りしめた。
それから、ベッドに突っ伏して、しばらく、顔を上げられなかった。
宝石でも、ドレスでもなく、あの花を、覚えていてくれた。
氷の貴公子が、あの雑草のような花を、わざわざ刺繍屋に頼んだのだろうか。想像すると、おかしいやら、嬉しいやら、胸のあたりが苦しくて、息ができなかった。
その日、私は、そのハンカチをドレスのポケットに忍ばせたまま、一日中、にやにやしてしまって、アンナという侍女に不思議がられた。
§
それから、数日後のことだった。
午後、庭を散歩しているときに、ぽつり、ぽつり、と雨が落ちてきた。
「あ」
見上げる間もなく、雨脚は急に強くなった。私は咄嗟に屋敷のほうへ走ろうとしたけれど、フェリクス様が私の腕を引いて、近くの東屋に連れ込んだ。
東屋の屋根の下に入ると、ざあっ、と音が強くなった。庭が、一気に白く霞んでいく。
「……すごい雨」
「通り雨だ。じきに止む」
フェリクス様は、冷静にそう言って、自分の上着をさっと脱いだ。
え、と思う間もなく、その上着が、私の肩にふわりとかけられた。
「フェ、フェリクス様?」
「身体を冷やすとまずい」
それは、そうかもしれないけれど。
上着は、彼の体温がまだ残っていて、あたたかかった。男の人の、微かな香りがして、私はどうしたらいいかわからず、上着の襟を、ぎゅっと握りしめた。
東屋の石のベンチに、並んで座った。
雨音だけが、世界を満たしていた。
フェリクス様は、何も喋らなかった。私も、喋らなかった。ただ、雨が庭の葉を叩く音を、二人で聞いていた。
隣にいる人の体温が、すぐそばにある。肩と肩が、触れそうで触れない。触れそうで、時々、触れる。
「……フェリクス様」
私は、ぽつりと呟いた。
「こういう時間、私、好きです」
言ってから、しまった、と思った。令嬢らしくない。何を言っているんだろう、私は。
けれど、フェリクス様は、少しの間を置いて、静かに言った。
「……私もだ」
横目で見たら、彼の耳が、ほんの少し赤かった。
氷の貴公子の耳が、赤い。
私はたまらず、顔を俯けた。上着の襟に、顔を半分埋めるようにして、にやけるのをこらえた。でも、こらえきれないから、上着の中で、勝手に口角が上がった。
雨は、しばらく降り続いた。二人とも、止んでほしいのか、止んでほしくないのか、わからない顔をしていた。
§
公爵邸に来て二ヶ月が過ぎた頃、私は、熱を出した。
前日、少し肌寒い日に庭を長く歩いたせいかもしれない。夜中に寒気で目が覚めて、朝には起き上がれなくなっていた。
侍女のアンナが慌てて医者を呼び、私は布団に押し込まれた。風邪だった。大したことはない、と医者は言ったけれど、熱は思ったより高くて、頭がぼんやりした。
フェリクス様は、その知らせを受けて、執務室から走ってきたらしい。
うっすら目を開けた私の枕元に、彼が座っていた。珍しく、髪が少し乱れている。
「……フェリクス、様」
「起きなくていい」
彼は、大きな手を、私の額にそっと当てた。冷たくて、気持ちがよかった。
「熱いな」
「お、お仕事は」
「今日はもう終わりだ」
「でも、まだお昼前ですよ」
「……もう終わったと言っただろう」
この人は、こういう嘘をつくのが、下手だ。
私は、熱でぼんやりした頭のまま、小さく笑った。
その日、フェリクス様は私の枕元から動かなかった。本を一冊持ってきて、静かに読んでいた。時々、私の額に当てた布を、冷たい水で絞り直してくれた。
貴族の公爵様が、侍女にもできることを、自分でやっている。なぜ、と訊く気力はなかった。ただ、嬉しかった。
夕方、熱が少し上がったとき、私は、朦朧とした意識の中で、言ってしまった。
「フェリクス様」
「ん」
「私、ごめんなさい」
「何が」
「本当は、私」
──偽物なんです。
その言葉を、言いかけた、そのとき。
フェリクス様の指が、そっと私の唇に触れた。
「言わなくていい」
低い、優しい声だった。
「今は、何も」
私は、熱い目を見開いた。フェリクス様の青い瞳が、じっと私を見下ろしていた。
フェリクス様の指は、離れる前に、私の頬を、ほんの少しだけ、撫でた。
眠りに落ちる直前、彼の声が聞こえた。独り言みたいに、小さな声だった。
「……早く、元気になってくれ」
私は、夢うつつで、ぎゅっと、掛け布団の端を握った。
この人のそばにいたい、と、初めて、はっきり思った。
温かいご飯のためじゃない。柔らかいベッドのためじゃない。
ただ、この人のそばに。
§
冬の始まりに、アッシュフォード公爵家主催の夜会が、開かれることになった。
公爵夫人候補として、私が社交界にお披露目される、最初の大きな席だった。
前の晩、私は緊張で眠れなかった。
貴族の令嬢たちに、注目される。じろじろと見られる。小声で品定めされる。そのうちの誰かが、「あら、ヴァレンタイン侯爵家のお嬢様って、こんな方だったかしら?」と気づくかもしれない。
バレたら、どうしよう。
夜中、私はどうしても眠れなくて、ガウンを羽織って部屋を出た。
温かいミルクでも一杯もらおう、と思っただけだった。けれど、廊下の途中で、私は、足を止めた。
書斎の扉の下から、明かりが漏れていた。
フェリクス様が、まだ起きている。
私は、少し迷ってから、扉を小さく叩いた。
「入れ」
低い声がした。
扉を開けると、フェリクス様は、書類の山の真ん中に座っていた。目元に、うっすらと疲れが浮かんでいる。
「……眠れないのか」
一目で、見抜かれた。
「は、はい。ちょっと、明日のことを考えたら」
私は、もじもじしながら言った。言ってから、なんだか情けなくて、俯いた。
すると、フェリクス様は、羽根ペンを置いた。椅子から立ち上がって、私のそばまで来た。
そして、私の手を、そっと取った。
「明日、私から離れなければいい」
はっきりと、彼は言った。
「ずっと、隣にいる」
私は、顔を上げた。
フェリクス様の青い瞳が、穏やかに私を見ていた。
「作法を間違えても、私が流す。誰かが君に失礼を働いたら、私が黙らせる。君は、ただ、いつも通り、私の隣でパンを食べて、スープを飲んでいればいい」
「……そ、それじゃ、作法もなにも」
「十分だ」
彼は、私の手の甲を、親指で、ゆっくりと撫でた。
「私が、そばにいる」
私は、もう、完全に、やられてしまった。
翌日の夜会のことを、私は、あまりよく覚えていない。
たくさんのドレス、たくさんの視線、たくさんの挨拶。本当なら、足がすくんで動けなくなりそうな場所だった。
けれど、私の左手は、ずっと、フェリクス様の右手に握られていた。
一度も、離れなかった。
誰かに紹介されるときも。ダンスを踊るときも。食事の席でも。
普通、こんなに露骨に手を握り続けるのは、貴族のマナーからすれば、きっと、はしたない。けれど、フェリクス様は、全く、離さなかった。
「婚約者に触れるのを、咎められる筋合いはない」
誰かが眉をひそめた気配がすると、フェリクス様はそう言って、むしろ私の腰に手を回したりもした。
「氷の貴公子が、あんなに……」
「噂とはずいぶん違いますのね」
そんな声が、遠くから聞こえた。
フェリクス様には、絶対、聞こえているはずだった。けれど、彼は一度も表情を変えなかった。ただ、私の手を強く握り直した。
夜会の終わり頃、楽団が静かな曲を奏で始めた。最後のダンスの時間だった。
フェリクス様は、私の手を引いて、広間の中央に出た。
人々の視線の中、彼は、静かに私の腰を抱き寄せた。
「フェリクス様、みんな、見てますよ」
「見せるために出てきた」
ぶっきらぼうな返事だった。
「今夜、君が私の隣に立つ人だと、全員に、見せる」
くるり、と彼が私を回した。
シャンデリアの光の中で、彼の青い瞳が、優しく私を見ていた。
私は、もう、口では何も言えなかった。ただ、自分の心臓が、彼に聞こえないようにと、それだけを祈りながら、彼の腕の中で、くるくる回った。
もし、このまま、ずっと、この人の隣にいられたら。
バレないまま、本物の令嬢が見つからないまま、ずっと、ずっと。
そんなことを、願ってしまう自分が、怖かった。
偽物のくせに。身分違いのくせに。いつか必ず、終わるくせに。
けれど、それでも、願わずには、いられなかった。
フェリクス様のそばに。
ずっと、ずっと、ずっと。
──その願いが、無残に折られる日が、もうすぐそこまで来ているとは、まだ、知らないまま。
§
その日は、朝から、冷たい雨が降っていた。
朝食の席で、フェリクス様はいつもと少し違った。食事にほとんど手をつけず、何か考え込むような顔で、窓の外の雨を見ていた。
「今日から数日、隣国との会合で屋敷を空ける」
ようやく口を開いて、彼はそう言った。
「戻ったら、話したいことがある」
「話したいこと、ですか」
「ああ。……大事な話だ」
それ以上は、言わなかった。
フェリクス様は私の頭をぎこちなく撫でて、それから、馬車に乗って出ていった。
その日の午後。
私の部屋に、見覚えのある顔が訪ねてきた。ヴァレンタイン侯爵家の、あの執事だった。
「お嬢様が、見つかりました」
開口一番、執事はそう言った。
私は持っていたカップを落とした。
「今夜、お嬢様をこちらへお連れします。入れ替わりに、あなたには侯爵家の馬車で屋敷を出ていただきます。公爵様がお戻りになる前に、すべて済ませる必要があります」
「……ちょっと、待ってください」
私の声は、掠れていた。
「フェリクス様に、最後に一言だけでも」
「なりません」
執事はきっぱりと遮った。
「この機を逃すわけにはいきません。それに、そういう契約です」
契約。そうだった。私は、雇われた偽物に過ぎない。
「ご苦労でございました。約束の報酬は、お支払いします」
執事は小さな革袋をテーブルに置いた。ずしり、と重い音がした。
「これで、しばらくは暮らしていけるでしょう。王都の外に移り住めば、公爵様の目に触れる心配もありません。……きちんと仕事を果たしてくださり、大変助かりました」
その夜、私は、着てきたときと同じ粗末な服に着替えて、裏口から馬車に乗せられた。ドレスも宝石も、一つも持ち出さなかった。ただ一つ、執事に頼んで、厨房から白パンを一つだけ、紙に包んでもらった。
「これくらい、いいでしょう」
執事は渋い顔をしたけれど、最後には頷いた。
馬車の窓から、遠ざかっていくお屋敷を見た。
雨に濡れた広い庭。高い塔。あの広間のシャンデリア。フェリクス様が仕事を持ち出して座っていた、庭のベンチ。
短い、夢だった。
フェリクス様は、戻ってきて私がいないことに気づいたとき、どんな顔をするだろう。
膝の上の白パンを、私はぎゅっと抱きしめた。泣かなかった。泣く権利なんて、偽物にはないよね。
§
王都の外れの、小さな宿屋の屋根裏部屋。それが、私の新しい住まいだった。
執事からもらった革袋の中身は、思ったより少なかった。数ヶ月分の宿代と、細々とした食費が払える程度。貴族の「報酬」というには、あまりに慎ましい額だった。けれど、文句を言う権利はない。そもそも、私には元から、何もなかったのだから。
私は、すぐに新しい洗濯場の仕事を見つけた。王都の中心ではなく、場末の、もっと条件の悪いところ。凍った川の水ではなく、井戸水だったけれど、水の冷たさはどこも同じだった。
指の節はまた腫れ、爪の間はすぐに荒れた。
せっかくきれいになった手は、二週間もしないうちに、元通りだった。
固くなった黒パンを齧りながら、私は、時々、あの夕食を思い出した。
湯気を立てる白いスープ。バターの溶ける白パン。皮がぱりぱりの鶏肉。
涙が出た。
一ヶ月経ち、二ヶ月経ち、冬がやってきた。
王都の外れの冬は、中心よりもずっと寒い。風が壁の隙間から吹き込んで、屋根裏部屋の床は凍るようだった。掛け布団は一枚しかなく、私は洗濯場の作業着を全部重ねて、それにくるまって眠った。
ある夜、熱が出た。仕事を休めば、すぐに給金が止まる。けれど、体はどうしようもなく重く、翌朝、私は起き上がることができなかった。
宿屋の女主人は、舌打ちをして、薄い粥を一杯だけ運んでくれた。優しさではなく、部屋の中で死なれては困る、という計算だった。
熱に浮かされながら、私は、夢を見た。広い広間。磨かれた床。温かいスープ。向かいに座っている、無表情の、青い瞳の男の人。
「足りなければ、もっと頼むといい」
穏やかな声。
私は夢の中で、ぼろぼろ泣いた。目が覚めて、自分の頬が濡れているのに気づいた。
情けない、と思った。もう、全部終わったことなのに。
§
その日は、朝から、雪が降っていた。
熱は下がっていたけれど、体の芯は、まだ重かった。それでも休むわけにはいかず、私は井戸端で、かじかむ手でシーツを洗っていた。
指先の感覚は、とっくになくなっていた。
ぽた、ぽた、と水が落ちる。雪は音もなく積もっていく。
ふと、雪を踏む足音が、近づいてきた。
何気なく顔を上げて、私は、手を止めた。
雪の中に、一人、立っていた。
黒い長い外套。雪の落ちた黒髪。
空のように青い瞳。
息が、できなくなった。
フェリクス様は、何も言わなかった。
ただ、じっと私を見ていた。その頬は、雪の中を長く歩いてきたように、白く冷えていた。外套の裾は濡れ、ブーツには泥と雪が混ざって固まっている。こんなに薄汚れたフェリクス様を私は初めて見た。
「……な」
声が、震えた。
「なんで」
フェリクス様は、ゆっくりと歩み寄ってきた。そして、私の目の前に立った。
冷えた息が、二人の間で、白く混ざり合った。
彼は、私の手を、ぎゅっと握った。
私は、反射的に手を引こうとした。
けれど、フェリクス様は、離さなかった。
逆に、もう片方の手を添えて、両手で、私の手をそっと包んだ。
「……冷たいな」
ぽつり、と言った。
私の目から、涙がぼろぼろ零れた。
フェリクス様は、私の冷え切った手を、自分の頬に押し当てた。
彼の頬も、冷たかった。
「すまない、遅くなった」
「ち、違うんです」
私は、しゃくり上げながら、言った。
「あの、フェリクス様! えっと、私、偽物で、ミオリア様にただ似ているだけで、その……」
「知っている」
彼は、静かに言った。
「え?」
「君を探してたんだ」
フェリクス様は、言った。
ただただ当惑する私の頭を、フェリクス様はぐっと自分の胸に引き寄せた。
外套は雪で湿っていて、冷たかったはずなのに、奥はあたたかかった。あのお屋敷の、焚き付けの匂いがした。
私は、もう、我慢するのをやめた。声を上げて、泣いた。
フェリクス様は、一言も、喋らなかった。ただ、私の背中を、大きな手で、ぎこちなく、撫で続けていた。
§
その年の春、私はフェリクス・アッシュフォード公爵夫人になった。
孤児院育ちの洗濯女が公爵夫人に、なんて、普通なら大騒ぎだったはずだ。けれど、フェリクス様の根回しは完璧で、反対の声はほとんど上がらなかった。
ヴァレンタイン侯爵家は、身代わりの一件と、私を放り出した件の責任を問われ、大幅な爵位の降格と賠償を命じられたらしい。詳しいことは、フェリクス様は話してくれなかった。「君が気にすることではない」と言うだけだった。
本物のミオリア様のその後は、私は知らない。想い人のその後も、知らない。知りたいとも、思わなかった。それぞれに、それぞれの事情がある。私は、私の居場所で、精一杯生きるしかない。
一年後、私は少しずつ字が読めるようになり、お茶の作法も、ダンスも、ぎこちないけれど形になってきた。料理長とも仲良くなって、厨房に出入りしては、スープの作り方を教わっている。
相変わらず、フェリクス様は無表情で、無口だ。でも、私の前でだけは、時々、不器用に笑う。
ある夜、食後のお茶を飲みながら、私は、ずっと訊けずにいたことを、ようやく訊いた。
「フェリクス様、いつから、知ってたんですか。私が、偽物だって」
彼は、カップを置いて、少し視線を泳がせた。
「さあな」
「ごまかさないでください」
「……最初の夕食で、確信した」
「最初!?」
「君はスープの匂いを嗅いでから、飲んだ。貴族の令嬢は、あれをやらない」
「そ、そんな小さなことで」
フェリクス様は、カップの縁を指でなぞりながら、ふっと息を吐いた。
「君は、広間の豪華なシャンデリアよりも、庭の隅に咲く名もなき花を愛しそうに見つめていた。私が与えるどんな宝石よりも雨音を聞く時間を『好きだ』と言って笑った」
私は、言葉に詰まった。
「地位や財産……。これまでに会った人間は皆、私の持つ飾りにしか興味を示さなかった。だが、君は違った」
彼の青い瞳が、静かに、けれどひどく熱を帯びて私を捕らえた。
「ただの日常を、私と過ごす時間を心から喜んでくれる。……その飾らないあたたかさに触れるたび、私の中の凍っていたものが溶けていくのが分かった」
フェリクス様はテーブル越しに手を伸ばし、私の指先をそっと包み込んだ。
「いつしか私は、君とずっと一緒にいたいと思うようになった」
真っ直ぐな言葉に、私は胸の奥が甘く痺れて、たまらず俯いた。
「だから屋敷を空けたあの数日、私は君を正式に迎え入れるための準備を進めていた。身分を整え、侯爵家が二度と君に手出しできないよう牽制するためにな。だが、私が戻るより先に、向こうが動いてしまった」
彼の青い瞳が、静かに私を捕らえた。
「雪の降る井戸端で、君を見つけたとき……本当に良かったと思ったよ」
低く落とされた声の微かな震えに、私は胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
氷の貴公子なんて呼ばれているけれど、この人はただ、ひどく不器用で、誰よりも優しいだけなのだ。
「……私、まだ字もろくに読めませんよ」
「私が教えよう」
「ダンスだって、いつもフェリクス様の足を踏んでばかりです」
「私の靴は頑丈にできている」
「それに、朝からパンを三つも食べます」
「四つ目を食べてくれて構わない」
淡々と、けれど迷いなく返される言葉に、私はとうとう堪えきれず、小さく吹き出してしまった。フェリクス様も、つられたようにほんの少しだけ目を細める。
§
窓の外からは、穏やかな春の風が木々を揺らす音が聞こえる。
もう、隙間風に凍える屋根裏部屋にはいない。肌を刺すような冷たい水も、喉に引っかかる黒パンもない。
「ユア」
不意に名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
『ミオリア』という偽物の名前ではなく、孤児院でつけられた、私の名前。彼がそれを呼ぶ声は、いつだってひどく穏やかで、心地いい。
「お茶冷めるぞ。飲まないのか」
「あっ、飲みます!」
私は慌ててカップを両手で包み込んだ。
ひとくち飲むと、ふわりと花の香りが鼻を抜け、温かさがじんわりと体の芯まで染み渡っていく。
偽物から始まった私の日々は、今、ここにある。
掌から伝わるティーカップの熱も、向かいに座る不器用な人の存在も、もういつ消えるか分からない夢じゃない。紛れもない、私の本当の人生だ。
私はゆっくりと息を吐いて、目の前の優しい旦那様に向かって、もう一度、ふわりと笑った。




