ただいまと言えなくて
ゲルドが「白銀の槍」の三人に声をかけたのは、ギルドの酒場だった。
「お前たち、五十層に行きたいんだろ」
レーナが顔を上げた。カウンターの向こうに立っていたのは、S級冒険者ゲルド・ハーゲン。この男の一言が、すべてを変えた張本人。
「……ゲルドさん」
「三十五層で止まってるって聞いたぞ。Bランク三人じゃ、魔力圧が限界だろう」
「やり方を考えてるところです」
「考えてても体は強くならん。——俺が連れてってやる」
三人が固まった。
「S級冒険者の魔力結界の中にいれば、Bランクでも五十層の魔力圧に耐えられる。片道なら——まあ、何とかなるだろう」
ダリオが聞いた。「なぜ、俺たちを?」
「あいつに飯を作ってもらった恩がある。あいつが追い出されたパーティが、どんな面でやって来るのか——ちょっと見てみたいってだけだ」
レーナは立ち上がった。
「お願いします」
「いいか、条件がある。五十層に着いたら、あいつの飯を黙って食え。食い終わるまで、余計なことを言うな。泣くのは構わんが、飯が冷める前に食え」
「……分かりました」
「明日の朝、ダンジョン入口に来い。六時だ」
ゲルドはそれだけ言って、酒場を出ていった。
◆
翌朝。ダンジョン入口。
レーナ、ダリオ、エルザの三人は、完全装備で立っていた。だが表情は固い。
ゲルドが来た。巨大な戦斧を背負い、寝起きのような顔で。
「行くぞ。ついてこい」
転移門で三十層まで飛び、そこから歩く。ゲルドが先頭。S級の魔力が結界となって三人を包み、深層の圧が嘘のように軽くなる。
三十五層——前回、三人が膝をついた場所だ。
今回は、立って歩けた。ゲルドの結界の中にいる限り、魔力圧は風のように体を通り抜けていく。
「すげぇ……」ダリオが呟いた。「S級って、こういうことか」
「黙って歩け」
四十層。四十五層。景色が変わっていく。結晶の色が深くなり、空気が青白く光り始める。見たことのない植物。聞いたことのない魔物の鳴き声。別世界だった。
五十層の入口が、目の前に現れた。
「ここだ」
ゲルドが結界を緩めた。三人の体に、五十層の魔力がじわりと染み込む。濃い。だがゲルドの結界がまだ薄く残っていて、辛うじて耐えられる。
「この先に食堂がある。——準備はいいか」
レーナは唾を飲み込んだ。ダリオとエルザが、黙って頷いた。
歩く。青白い結晶に囲まれた通路。美しかった。そして——匂いがした。
料理の匂い。
温かくて、深くて、どこか懐かしい匂い。二年前、毎朝起きるとパーティの宿に漂っていた——あの匂いと、どこか似ている。
洞窟が開けた。そこに——食堂があった。
石のカウンター。結晶の照明。地熱のコンロ。簡素だが清潔な空間。壁際には棚が並び、見たことのない食材が整理されている。
カウンターの奥で、一人の青年がエプロン姿で鍋をかき混ぜていた。
ソウマ。
「お、ゲルド。今日は連れがいるのか。珍しい——」
振り返って、止まった。
鍋を持つ手が、一瞬だけ固まった。
「…………」
「…………」
五十層の静寂の中で、二つの視線がぶつかった。
ソウマが——レーナの顔を、見ている。ダリオを。エルザを。ボロボロの装備。張り詰めた表情。
三秒。五秒。十秒。
「——三人か。座れ」
声は穏やかだった。怒りも、皮肉も、何もなかった。ただ——「客が来た」という、それだけの声。
「今日のメニューは結晶猪のソテーと月光茸のスープだ。両方出す」
「ソウマ——」
「飯が先だ。話は食ってからにしろ」
レーナは何かを言いかけて、口をつぐんだ。ゲルドの言葉を思い出す。「飯が冷める前に食え」。
三人はカウンターに座った。ミラが横から顔を出す。
「この人たちだれ? ソウマの知り合い?」
「……昔のパーティメンバーだ」
「ふうん。じゃあお水出すね」
ミラが三人の前に水を並べた。深層の水晶水。澄み切った味がする。
ソウマが料理を始めた。結晶猪の肉を切り、塩を振り、地熱のコンロに載せる。『万物調和』の光が手から溢れる——。
レーナは、その手を見ていた。
二年前と同じ手つき。包丁の握り方。塩の振り方。火加減の見極め。何一つ変わっていない。だが——纏っている光が、桁違いだった。
五分。肉が焼き上がり、スープが温められ、三つの皿がカウンターに並んだ。
「食え」
レーナが箸を取った。結晶猪のソテーを一切れ、口に運ぶ。
——泣いた。
一口目で泣いた。涙がぼろぼろと皿の上に落ちた。
美味い。美味いなんてものじゃない。体の隅々にまで力が行き渡る感覚。ステータス通知が視界の端で弾けている。STR+280、VIT+320、AGI+150。永続。
でも泣いているのは、バフのせいじゃない。
「……この味」
知っている味だった。
二年間、毎朝食べていた朝食。あの時は気づかなかった。「普通の飯」だと思っていた。でも違う。この深層の料理と、あの朝食は——根っこが同じだ。
素材の力を最大限に引き出す料理。上層では微かなバフにしかならなかったけれど、ソウマの手から生まれる料理は——ずっと、自分たちを支えていたのだ。
「あのさ——」
「食ってからだって言っただろ」
「無理。食べながら言う」
箸を握ったまま、レーナは俯いた。涙が止まらない。声が震える。
「——ごめん」
「…………」
「お前は、要らなくなんかなかった。わたしがバカだった。数字しか見てなかった。お前がどれだけパーティを支えてたか、失ってからじゃないと分からなかった」
ダリオが黙って肉を食べている。涙は流していないが、箸を持つ手が震えていた。
エルザは——泣いていた。スープを飲みながら、静かに泣いていた。
「追いかけてきたの。ここまで来たかった。お前の顔を見て、ちゃんと言いたかった」
レーナが顔を上げた。目が真っ赤だった。
「ソウマ。——ごめん。本当に、ごめん」
五十層に沈黙が落ちた。
ソウマは——エプロンの端で手を拭いて、カウンターに両手をついた。
「怒ってない」
「え?」
「最初から、怒ってない。レーナの判断は、数字だけ見れば正しかった。俺の回復は弱いし、バフも微々たるものだった。お前が悪いんじゃない。俺のスキルが、上層じゃ使い物にならなかっただけだ」
「でも——!」
「でも、追放されたおかげでここに来れた。五十層で、本当にやりたかったことが見つかった。料理人として、最高の環境で料理ができてる。だから——」
ソウマが笑った。穏やかな、いつもの笑顔。
「恨んでない。感謝してるくらいだ」
レーナが崩れた。カウンターに突っ伏して、声を上げて泣いた。ダリオがそっと背中に手を置いた。
ミラがそれを見て、不思議そうに首を傾げた。
「ソウマ、この人たちどうしたの? ご飯美味しくて泣いてるの?」
「……まあ、そんなところだ」
「ソウマのご飯は泣くほど美味しいもんね。分かるよ」
「そうだな」
ゲルドがカウンターの端で腕を組んで、黙ってその光景を眺めていた。やがて、ぼそりと呟いた。
「いい店だな。相変わらず」
「ありがとよ。——おかわりいるか」
「もらう」
◆
泣き止んだレーナが、目を擦りながら言った。
「……全部食べた」
「おう」
「美味しかった」
「そりゃよかった」
「で——あの、これからどうすれば——」
「どうもこうも。お前たちの好きにしろ」
ソウマがカウンターを拭きながら、さらりと言った。
「俺はここで食堂をやる。お前たちはパーティを続ける。それぞれ、やりたいことをやればいい」
「……戻ってきてとは、言えないよね」
「戻る場所がない。ここが俺の場所だ」
レーナが頷いた。分かっていた。分かっていたけど——確認したかった。
「でも」ソウマが続けた。「客としてなら、いつでも来い」
「……いいの?」
「この食堂は誰でも歓迎する。元パーティメンバーでも」
レーナが、ほんの少しだけ笑った。泣いた後の、くしゃっとした笑顔。
「——また来る」
「ああ。来い」
「今度は、自力で来る。三十五層で止まったままじゃ、情けなさすぎるから」
「そうだな。自力で来れたら、特別メニューを出してやる」
「約束だよ」
「約束だ」
◆
帰路。ゲルドの結界の中で、三人は黙って歩いていた。
レーナは歩きながら、さっきの食堂を思い返していた。カウンターに座り、ソウマの手さばきを見ていたこと。泣きながら食べた一皿。「また来い」という声。あの食堂は——ソウマが自分の手で作った場所だった。
三十層まで戻ったところで、レーナが足を止めた。
「ダリオ。エルザ」
「ん?」
「これからのことなんだけど——パーティ名、変えないか」
「名前?」
「『白銀の槍』は、ソウマがいた頃のパーティだ。あいつを追い出しておいて、同じ名前を名乗り続けるのは——違う気がする」
ダリオが少し考えて、頷いた。「賛成だ」
エルザも。「うん。新しく始めよう」
「名前は——まだ決めてない。でも、次に五十層に行く時までには決める」
ゲルドが前を歩きながら、背中越しに言った。
「次は自力で行くんだろ。ならS級の護衛はなしだ」
「分かってます」
「ソウマの料理を食ったな。ステータスが上がってるはずだ。三十五層の魔力圧にも、前より耐えられるようになってる」
レーナは自分の手を見た。確かに——体が違う。軽い。強い。ソウマの一皿が、自分たちの体を変えている。
「……ソウマに支えられてるな。また」
「今度は——ちゃんと分かってる」
ダンジョンの入口から、夕暮れの光が差し込んできた。
レーナは振り返って、深層の闇を見つめた。五十層の、あの青白い光。あの温かい食堂。あの穏やかな笑顔。
——また行く。今度は、自分の足で。
ゲルドが先に外に出て、大きく伸びをした。
「いい一日だった。——腹が減ったな」
「さっき食べたでしょうに」
「あいつの飯は別腹だ」
三人が笑った。
今日、一つだけ言えなかった言葉がある。
ただいま——とは、言えなかった。もうそこは、自分たちの場所じゃないから。
でも。
「また来る」と言えた。「約束だ」と返してもらえた。
それで、十分だった。
第9話までお読みいただきありがとうございます!
レーナたちがついに食堂に辿り着きました。
追放から始まったこの物語の「和解」がここにあります。
明日の第10話「それぞれの道」で、彼女たちの選択が明らかになります。
そして——意外な人物が再登場します。
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毎日19時ごろ更新予定です。




