五十層の厨房
結晶猪——俺が勝手にそう呼んだ——は、こちらに突進してこなかった。
それどころか、『万物調和』の光を浴びた瞬間、ゆっくりとその場に伏せたのだ。まるで「好きにしろ」と言わんばかりに。
上層では魔物に触れることすらできなかったスキルが、ここでは全く違う挙動を見せている。
俺は恐る恐る、結晶猪の体に触れた。
——流れ込んでくる。
この魔物の構成要素、肉質、脂肪の分布、結晶部分に蓄えられた魔力の味——そのすべてが、スキルを通じて頭に注ぎ込まれてくる。
「最高の素材じゃないか……」
声が震えた。料理人としての本能が、全力で叫んでいる。
——こいつを、調理しろ。
『万物調和』の真の力。それは回復でも補助でもなく、あらゆる「素材」の本質を見抜き、最高の状態で引き出すこと。上層の薄い魔力では微かな回復効果しか出せなかったが、五十層の濃密な魔力の中では——素材の解体すら可能だった。
光が結晶猪を包む。結晶の外殻が音もなく外れ、中から宝石のように輝く赤身肉が現れた。痛みは与えていない。『調和』によって、魔物と素材が自然に分離している。
結晶猪は身を軽くして、のっそりと奥へ去っていった。
「……ありがとう。大事に使わせてもらう」
手元に残った肉塊を見る。赤紫色の肉は脂がきめ細かく入り、見ただけで上質だと分かる。それに——この魔力の含有量。上層の魔物肉とは、桁が違う。
俺は背嚢から携帯調理キットを取り出した。折りたたみ式のナイフ、小さな鍋、最低限の調味料。冒険者の装備としては変わっているが、俺にとっては剣より大事な武器だ。
結晶猪の肉を薄く切り、塩と山椒草で下味をつける。脂身の部分は別にして、先に弱火で溶かす。
五十層には不思議なことに、地面から熱が湧き出している箇所があった。地熱だ。これなら火を起こす必要がない。天然のコンロが、そこら中にある。
じゅう、と肉を焼く音が、静寂のダンジョンに響いた。
焼けていく肉から、今まで嗅いだことのない香りが立ち上る。甘い。それでいて深みがある。上層の魔物肉とは次元が違う芳醇さだ。
焼き上がった一切れを、口に運ぶ。
「——っ!」
目の前に、ステータスの変動通知が飛び込んできた。
『STR(筋力)+180 VIT(体力)+210 MAG(魔力)+95 効果:永続』
「永続……?」
普通の強化料理は、効果が一時的だ。数時間で切れる。高級品でも一日が限度。なのにこの料理は——永続。食べた瞬間に、ステータスそのものが書き換わっている。
体が軽い。視界が鮮明になっている。筋力だけじゃない、体全体が別物になったような感覚。
「これが……深層素材の力か」
笑いが込み上げてきた。今まで俺が作ってきた料理——パーティの朝食や回復食——は、上層の素材で作った「まあまあ美味い飯」でしかなかった。それでも仲間の士気は上がっていたはずだが、数字として見えるバフは微々たるものだった。
だが深層素材と『万物調和』が組み合わさると——こうなるのか。
興奮を抑えつつ、周囲を探索する。五十層は広い。結晶の洞窟が複雑に入り組んでいて、奥には水晶の泉が湧いている場所もあった。水質は——舐めてみる——清澄で、微かに甘い。魔力を含んだ天然水だ。
そして見つけた。
広い空洞。天井は高く、壁面の結晶が淡い光を放っている。地熱の噴出口が三つ。水晶の泉からの流水。自然の棚のような岩の段差。
「——完璧だ」
厨房として、これ以上の環境はない。
俺は背嚢の荷物を広げた。テーブル代わりの平石を並べ、棚を作り、調理スペースを確保する。上層から持ってきた保存食の一部を棚に並べ、携帯コンロの代わりに地熱口に鉄板を載せた。
数時間かけて、最低限の「店」の形ができた。
「客なんて来るわけないけどな」
独り言を呟いて、もう一品作る。結晶猪の骨と肉片でスープを仕込む。水晶の泉の水で煮出すと、黄金色の出汁が取れた。味見——美味い。これだけで一品になる。
鼻歌交じりに調理している最中——背後で、気配が動いた。
「——人間?」
振り向くと、小柄な少女が立っていた。
銀色の髪、赤い瞳。耳が長く、尖っている。肌は白を通り越して、青みがかっている。人間ではない——魔族だ。
少女は俺を見ていない。俺の後ろ——鍋から立ち上る湯気を、食い入るように見つめていた。
「何、これ。すごく、いい匂い」
「……スープだけど。飲むか?」
警戒すべきだったかもしれない。五十層の魔族がどんな存在か、情報は皆無だ。だが少女の顔に浮かんでいるのは、敵意じゃなかった。
純粋な食欲だった。
椀にスープをよそって差し出す。少女は一瞬躊躇い、それから一口——
「——っっ!!」
目を見開いた。椀を両手で抱えて、がぶがぶと飲み干す。
「美味しい! 何これ! 今まで食べたどの魔物の肉より美味しい! 体が熱い! 力が湧いてくる!」
ステータス通知が、少女の頭上にも浮かんでいるのが見えた。
「お代わり!」
「……いいけど、名前くらい教えてくれ」
「ミラ! あなたは?」
「ソウマ」
「ソウマ、もう一杯! ううん、三杯!」
こうして——ダンジョン五十層の食堂の、最初の客が決まった。
◆
その頃。地上では——
「また失敗か!」
レーナの怒号が、ギルドの作戦室に響いていた。
三十層のボス、溶岩巨人。「白銀の槍」が何度も倒してきた相手だ。なのに今回は——三度連続で撤退を余儀なくされていた。
「フィオナ、回復が遅い! もっと早く詠唱できないのか!」
「申し訳ありません……でも、タイミングは最適化しているはずです」
A級支援術士のフィオナは、困惑した顔で答えた。
間違っていない。彼女の回復量はソウマの三倍ある。バフの効果も倍以上だ。数値上は、あらゆる面で上位互換。
なのに——何かが足りない。
ダリオが呟いた。
「なあ……ソウマがいた頃、三十層のボスでこんなに苦労したか?」
沈黙が落ちた。
誰も、答えなかった。
お読みいただきありがとうございます!
五十層の食堂はまだ始まったばかり。
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