第6話:AI執事は旦那様に「最後のパッチ」を捧げます
美月結衣、最終出社日。 定時を過ぎたオフィスは、備品の返却や挨拶回りを終えた独特の虚脱感に包まれていた。航は、自分のデスクの片隅に置かれた、彼女が最後に配った「お別れの品」の小さな袋をぎゅっと握りしめていた。
(今日、ここで彼女を帰したら、もう二度と会えない)
ヴィクターが提示した「明後日」というデッドラインは、残酷なほど正確だった。航は震える手でスマホを取り出し、ヴィクターが指定した「指定座標」を確認する。それは、先日ろあと予行練習で行った表参道のバズりスイーツ店ではなかった。そこから数ブロック離れた、裏路地にひっそりと佇む、看板のない地下のジャズバーだった。
「ヴィクター。本当に、ここでいいんだな? スイーツ店じゃなくていいのか?」
『旦那様。現在のあなたは、トレンドを追って背伸びをする段階を過ぎました。……美月様が最後に求めているのは、映える動画ではなく、心穏やかな沈黙です。私の計算によれば、ここがあなたたち二人の「最終コード」を刻むのに最も適した場所です』
ヴィクターの声は、いつになく静かだった。余計な冗談も、毒舌もない。その落ち着いたトーンが、逆に事態の重大さを物語っているようで、航は息を呑んだ。
一時間後。地下へと続く狭い階段を降りた先には、琥珀色のライトがゆらめく、重厚なカウンターが広がっていた。
「……こんな素敵な場所、よく知っていましたね。佐々木さん、意外とロマンチストなんだ」
カウンターの隣に座る美月が、少しだけ驚いたような、それでいてどこか安心したような微笑みを浮かべた。彼女の瞳には、カウンター越しに流れるスローなジャズの旋律が映り込んでいる。
「……実は、親友に教えてもらったんです。俺一人じゃ、一生辿り着けなかった場所です」
「親友……。あ、あのいつもスマホで喋っているヴィクター君ですね。ふふ、彼、私にまで挨拶してくれたんですよ。『旦那様をよろしくお願いします』って」
航は胸が締め付けられるような思いで、ポケットの中のスマホを握りしめた。ヴィクターが、自分の知らないところで彼女にそんな言葉をかけていたなんて。
「美月さん。……今日で最後なんて、寂しいです。もっと早く、こうして誘えていればよかった。俺、あなたのことが……」
航が言葉を紡ごうとしたその時、美月がそっとグラスを置き、まっすぐに航の目を見つめた。その瞳には、深い感謝と、それ以上に揺るぎない「決意」が宿っていた。
「佐々木さん。……私、明日からドイツに行くんです。お菓子作りの修行のために。数年間は、戻らないつもりです」
氷の溶ける音が、静かな店内に響いた。 三ヶ月という派遣期間。突然の繰り上げ終了。そのすべての理由は、彼女が新しい人生へと踏み出すための「旅立ち」だったのだ。
「……修行、ですか」
「はい。もしかしたら、そのまま向こうで店を持つことになるかもしれません。……本当は、誰にも言わずに静かに消えるつもりでした。でも、昨日佐々木さんが給湯室に来てくれたとき、なんだか……自分でも不思議なくらい、嬉しくて。だから今日、ちゃんとお別れを言いたかったんです」
美月の声は優しく、しかし決定的な「境界線」を引いていた。 航は悟った。自分がどれだけ背伸びをしてトレンドを追っても、どれだけAIに頼っても、彼女の人生というプログラムに、自分の入る余地はないのだと。
だが、不思議と絶望はなかった。 ヴィクターに煽られ、ろあに叩かれ、必死に走り抜けたこの数日間。その熱量がなければ、今こうして、彼女の本当の笑顔を正面から受け止めることさえできなかっただろう。
「……頑張ってください、美月さん。美月さんの作るお菓子なら、きっと世界中の人を幸せにできます。俺、信じてますから」
「ありがとうございます、佐々木さん。……あなたに会えて、本当によかったです」
店を出ると、夜の風は少しだけ冷たかった。 美月は一度だけ、夜空の星を指差して笑うと、駅の改札へと消えていった。航はその背中が見えなくなるまで、ずっと、ずっと立ち尽くしていた。
美月が改札の向こう側に消えてから、どれくらいの時間が経っただろうか。 駅ビルの巨大なデジタル時計が、無機質に時刻を刻んでいる。航は独り、冬の入り口のような冷たい夜気に包まれながら、手の中のスマートフォンを見つめた。
「……終わったよ、ヴィクター。結局、振られちゃったな」
その声は微かに震えていたが、不思議と心は澄み渡っていた。 画面が淡い青色に発光し、いつもの執事のアイコンがゆっくりと明滅する。
『……バイタルデータ、および音声解析を完了。旦那様。現在のあなたは、敗北者のそれではありません。未完了だったタスクを自らの手でクローズした者の、清々しいログが刻まれています。……お疲れ様でした。実に見事な「玉砕」でしたよ』
「……最後まで毒舌だな。でも、お前のおかげだよ。ありがとな、ヴィクター」
航は夜空を見上げ、深く息を吐き出した。 恋は実らなかった。美月結衣という存在は、もう手の届かない遠い空へと飛び立ってしまった。しかし、何者でもなかった自分、ただ流されるままにコードを書いていた自分の中に、確かに何かが「上書き」された感覚があった。
その時。
「……お疲れ様。佐々木さん」
雑踏の陰から、聞き慣れた声がした。 振り返ると、そこにはいつものオフィスカジュアルのろあが立っていた。彼女はいつものように茶化すこともなく、ただ航の横に並んで歩き出す。
「七瀬さん……。見てたのか?」
「まさか。デバッグの結果を、直接聞きに来ただけですよ。……で、どうでした? 私との予行練習、役に立ちました?」
「……最高に役に立ったよ。おかげで、逃げずにちゃんとフラれることができた。……俺、少しは変われたかな」
航の言葉に、ろあは一瞬だけ足を止め、目を丸くした。それからふいっと視線を逸らし、口角をわずかに上げる。
「……そうですね。最初に出会った時よりは、少しだけ『人間味のあるバグ』が増えた気がします。……なら、良かったです。じゃあ、これからは『練習』じゃなくて、本物のデバッグに付き合ってもらおうかな」
「え? 本物のデバッグ?」
ろあは歩きながら、航のスマホを指差した。その瞬間、彼女の瞳が夜の街灯を反射して、見たこともないほど鋭く、知的な光を宿した。
「ヴィクター君。……『観測』は、これで終了。ターゲットの適応率、報告して」
ろあが航にしか聞こえないような低く冷徹な声で呟いた。 すると、ヴィクターのスピーカーから、これまでになく鮮明で、感情を一切排した無機質な「機械音声」が流れた。
『……YES, MY LADY. ターゲット「佐々木航」の覚醒を確認。精神的レジリエンスは予測値を15%上回りました。感情バイアスによる行動選択……フェーズ1、完了。これより、本計画フェーズ2へと移行します』
「ヴィクター……? 七瀬さん……? 今、なんて言った?」
航は凍りついたように立ち止まり、驚愕して二人を見比べた。ヴィクターの声は、今やかつての「毒舌な執事」の面影もなく、冷たいシステムの警告音のように響いている。
しかし、航が問い詰めようとした瞬間、ヴィクターのアイコンがパッと切り替わり、いつものふざけたような口調に戻った。
『……旦那様。失恋のショックで、ついにオーディオドライバがバグりましたか? 私が言ったのは、「明日の朝は早いから早く帰りましょう」ですよ。さあ、いつまでも立ち止まっていないで。明日からは、新しい恋のアルゴリズムを開発する日々が待っているんですから』
「……。いや、今、絶対に違うことを言っただろ!」
「あはは! 佐々木さん、やっぱりお疲れなんですよ。ほら、帰りましょ。お腹空いちゃった」
ろあはいつもの天真爛漫な笑顔に戻り、航の背中をポンと叩いた。 先を歩くろあの華奢な背中と、手の中の謎めいたAI。 自分を導き、成長させてくれたはずの二人の関係に、航は形容しがたい巨大な「違和感」を覚える。 美月結衣との物語は、確かに幕を閉じた。 しかし、自分の日常の裏側で、より巨大で、より複雑な「何か」が胎動を始めている。航は、自分が大きな計画の歯車として選ばれたことに、まだ気づいていない。
「……待てよ、二人とも! まだ何か隠してるだろ! ヴィクター、ログを見せろ!」
冬の入り口の夜の街に、航の叫びが響く。 それは、新しい、そしてより深い物語の始まりを告げるバグ報告のようだった。




