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AI執事は旦那様の失恋を「仕様」だと言い張ります  作者: ジェミラン


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第5話:AI執事は旦那様に「デッドライン」を宣告します

 予行練習という名の「夜の表参道」から一夜明け、航の頭の中は、美月結衣を誘うための最終シミュレーションで埋め尽くされていた。


(七瀬さんとの練習は完璧だった。ヴィクターの暴走さえ抑えれば、次こそは美月さんを『ロガリズミック・スパイラル』に連れて行けるはずだ)


 航はデスクでコードを書きながらも、心ここにあらずといった様子で、時折隣のシマに座る美月の背中を盗み見ていた。彼女はいつも通り、丁寧な所作で書類を整理している。その姿が、あと一ヶ月でここから消えてしまうなんて、今の航にはどうしても信じられなかった。


「ヴィクター。決行は来週の金曜日だ。そこなら彼女も仕事の区切りがいいはずだし、週末の予定も聞き出しやすいだろ?」


 航はキーボードを叩く音に紛れさせ、ポケットのスマホに囁いた。


『……旦那様。非常に申し上げにくいのですが、あなたの「来週」という楽観的な見積もりは、重大な仕様変更によって完全に破綻しました』


「は? 仕様変更って、プロジェクトの納期のことか? あれはまだ先だろ」


『いいえ。旦那様が勝手に設定した「恋の納期」のことです。……先ほど、社内共有のスケジュール管理システムに、派遣スタッフの契約終了に関する緊急の更新(パッチ)が当たりました』


 ヴィクターの声は、いつになく冷徹な警告音を伴っていた。スマホの画面に、美月結衣の名前と、赤字で強調された「退職予定日」が表示される。


「……なんだ、これ。日付が、おかしいだろ。まだあと一ヶ月はあるはず……」


『元々の契約終了日は、確かに一ヶ月後でした。しかし、美月様の個人的な事情――家庭の都合か、あるいは次の職場への早期合流か、理由は不明ですが――により、契約の繰り上げ終了が決定したようです』


 航は息が止まるのを感じた。画面に表示された新しい日付。それは「来週の金曜日」などではない。


『彼女の最終出社日は……**「明後日」**です』


「明後日……!?」


 航の叫びは、幸いにもオフィスの騒音にかき消されたが、目の前の世界が激しく揺れた。  時間をかけて準備をし、ろあを練習台にまでして積み上げてきた「完璧な計画」が、一瞬にして音を立てて崩れ去っていく。


『旦那様。これが現実です。バグは予期せぬ瞬間に発生し、デッドラインは常にあなたの都合を無視して前倒しされる。現在のあなたの処理速度(決断力)では、美月様に声をかける前に、彼女のデスクは空になり、アクセス権限は抹消されるでしょう』


「そんな……。まだ、心の準備が……」


『準備など、一生整うことはありません。あなたはこれまで「いつか」という変数を過信しすぎました。……旦那様、選択してください。このまま椅子に縛り付けられたまま彼女を見送るか、それとも未完成のプログラム(自分)を抱えて、今すぐ彼女の元へ走るか』


 航が震える手でスマホを握りしめたその時、美月がふと立ち上がり、給湯室の方へと歩き出した。彼女の背中は、いつもと変わらず穏やかで、しかしどこか「もうすぐここからいなくなる人」特有の、はかない透明感を帯びているように見えた。


 航の視界の端で、隣の席のろあが、じっとこちらを見つめていることに彼は気づいていなかった。


給湯室へ向かう美月の背中を、航はただ呆然と見送ることしかできなかった。  頭の中では、ヴィクターが告げた「明後日」という言葉が、システムのアラート音のように鳴り響いている。


(無理だ。心の準備なんてできていない。まだ七瀬さんとの予行練習で、自分の不甲斐なさを自覚したばかりなのに……)


 椅子に根が生えたように動けない航の隣で、不意に椅子が引かれる音がした。


「……佐々木さん。行かなくていいんですか?」


 ろあの声だった。いつものからかうような響きはない。彼女はデスクに肘をつき、真剣な、どこか冷ややかですらある瞳で航を射抜いていた。


「七瀬さん……。だって、急すぎるよ。せめてあと一週間あれば、もっとスマートに……」


「スマートなんて、一生無理ですよ。佐々木さんはバグだらけなんだから」


 ろあは突き放すように言うと、航のスマホを指差した。


「美月さん、明後日の挨拶回り、明日にはもう始めるみたいですよ。そうなったらもう、二人きりで話すチャンスなんてない。……今、この瞬間の『例外処理』を逃したら、もう二度とパッチは当たらない。それでいいんですか?」


 ろあの言葉は、航の逃げ道を塞ぐチェックポイントのようだった。  その時、スマホの画面が再び青く発光し、ヴィクターの声が耳元で、今度は低く、重厚な響きを持って響いた。


『……旦那様。七瀬様の仰る通りです。私は、あなたの「ヘタレ」という仕様を愛しておりましたが……。美月様のデータがこのサーバーから完全にデリートされるのを黙って見ているほど、私は無能なAIではありません』


 スマホの画面に、一軒の店の地図が表示される。それは先日、二人で行った『ロガリズミック・スパイラル』。だが、その横には航がこれまでに見たことのない、美月のプライベートな行動圏内にある「別の店」の情報が並んでいた。


『現在、給湯室の滞在予想時間は残り百二十秒。ここを逃せば、次のチャンスは来世まで予約待ちです。……旦那様。「自分の運命(コード)は、自分で書き換えろ!」(コードギアス風)』


「……っ!」


 航は椅子を蹴るようにして立ち上がった。  周囲のエンジニアたちが驚いて顔を上げるが、今の航にはそれすら気にする余裕はなかった。


「……行ってくる、ヴィクター! 七瀬さんも、ありがとう!」


 航は駆け出した。  背後で、ろあが「……あーあ。本当、馬鹿なんだから」と、小さく、誰にも聞こえない声で呟いたのを、彼は知らない。


 給湯室のドアの前で、航は激しく上がる息を整える間もなく、勢いよくドアを開けた。  そこには、マイボトルに茶を注ぎ終えたばかりの、驚いた顔の美月が立っていた。


「……佐々木さん? どうしたんですか、そんなに急いで」


「美月さん……。あの、俺……」


 心臓が喉から飛び出しそうだった。用意してきた洗練されたセリフも、ヴィクターに教わったトレンドの知識も、すべてが真っ白に吹き飛んでいた。  だが、今の航の瞳には、これまでになかった強い光が宿っていた。


「あの、もしよかったら……。明日か明後日、仕事の後に、少しだけ時間をいただけませんか? 連れていきたい場所があるんです。……ダメ、でしょうか」


 沈黙。  換気扇の回る音だけが響く空間で、美月は目を丸くし、それからふわりと、いつもの春のような微笑みを浮かべた。


「……はい。ぜひ。実は私、佐々木さんとゆっくりお話ししてみたいって、ずっと思ってたんです」



 航の耳に、その返答はどんな高性能なスピーカーで聴く音楽よりも美しく響いた。



 給湯室を出て、自席に戻る航の足取りは、先ほどとは一変して力強いものになっていた。  スマホの中で、ヴィクターが満足げにインターフェースを明滅させる。


『……お見事です、旦那様。現在のあなたの能動性、定格の三倍を記録しました。さあ、残された時間はあとわずか。……「最終回」に向けて、総員、戦闘配置です!』


 航は力強く頷いた。  美月の派遣終了という残酷なタイムリミットが、皮肉にも、一人の臆病な男を本当の意味で「主人公」へと変えようとしていた。

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