第3話:AI執事は旦那様に「最新のトレンド(毒)」を注入します
オフィスを包む夕闇が、窓ガラスに疲れた顔のサラリーマンたちを映し出していた。 システムエンジニアの佐々木航も、その一人だ。だが、今の彼の疲れは、積み上がったバグ修正によるものではない。もっと根源的で、解決策の見えない人生の「仕様」に対するものだった。
「三ヶ月……。あと一ヶ月ちょっとしかないのか」
航はキーボードを叩く手を止め、自室のカレンダーを脳内で再生した。 隣の席のろあがポロッと漏らした「派遣期間」の噂。それを独自に(主に給湯室での会話を盗み聞きして)調査した結果、美月結衣がこの職場を去る日が刻一刻と近づいていることが判明したのだ。
このままでは、ただの「同じフロアにいた、地味で印象の薄いエンジニア」のままで終わってしまう。自分のような、どこにでもいる平均的な男が、彼女の記憶に一秒でも長く残るためには、今のままでは圧倒的に「フック」が足りない。
「ヴィクター。俺は決めた。誘う。美月さんを、会社帰りに誘い出すぞ」
航は周囲を気にしながら、デスクの上に置いたスマホに向かって低く決然とした声で囁いた。画面が青く光り、聞き慣れた執事の声がスピーカーから漏れる。
『……正気ですか、旦那様。現在のあなたの「誘い成功率」は、コンパイルが一発で通る確率よりも低いですよ。しかも、誘い文句のボキャブラリーも貧困極まりない。このままでは、ただの迷惑な勧誘メールと同じ扱いで、心のスパムフォルダに直行です』
「成功率なんてのは、ここから上げるもんだろ! そこでだ、今のトレンドを教えてくれ。美月さんが思わず『えっ、行きたい!』って身を乗り出すような、最新のバズりスポットだ。彼女と共通の話題を作るには、流行を知るのが一番だろう?」
『ふむ。珍しく前向きな思考ですね。……学習を開始します。SNS、最新のグルメサイト、位置情報……。判定完了。旦那様、今の流行は「体験型・没入型スイーツ」です。単に食べるだけでなく、目の前で完成するプロセスを楽しむ。例えば、賞味期限わずか一分の「生絞りモンブラン」などが、女子に絶大な人気を誇っています』
画面に、溢れんばかりのクリームが山のように盛られたモンブランの画像が表示される。スマホを構えた女性たちが、細いクリームが機械から絞り出される瞬間を必死に動画に収めている様子が映し出されていた。
「なるほど……これなら『最近話題の、面白いモンブランの店があるんですけど、動画のネタに見に行きませんか?』って誘えば自然じゃないか! 美月さんもSNSをやってるみたいだし、喜んでくれるはずだ」
『その誘い文句、一昔前の怪しいスカウトマンみたいで非常に気持ち悪いですが……。まあ、いいでしょう。旦那様。その「誘いの瞬間」に向けた、メンタルとポージングの最終調整を行いましょう』
ヴィクターのインターフェースが、警告色のような赤色に明滅した。
『いいですか。トレンドとはすなわち「濁流」です。中途半端な気持ちで近づけば、その熱量に焼き尽くされるのみ。……旦那様。今のあなたに必要なのは、圧倒的な覚悟。そして、自分を追い込むための呪文です。――復唱してください。「逃げちゃダメだ……逃げちゃダメだ……逃げちゃダメだ!」』
「……。シンジくんかよ! それ、勇気を出す言葉じゃなくて、極限まで追い詰められてる時のやつだろ!」
『今の旦那様こそ、まさにサードインパクト直前の絶望感に満ちています。トレンドという使徒を倒し、美月さんという補完計画を完遂するには、そのくらいの気概が必要です。さあ、叫んでください! 「僕が、最新のモンブランに乗ります!」と!』
「乗るのかよ! モンブランに! ベチャベチャになるわ! ってか、美月さんの前で叫べるか!」
航が小声でスマホに全力のツッコミを入れていると、不意に、背後からふわりと甘い、焼きたてのお菓子のような香りが漂ってきた。
「……あ。佐々木さん、またヴィクター君とシンクロしてるんですか? 今日、なんか必死ですね」
ひょっこりと顔を出したのは、七瀬ろあだった。
「な、七瀬さん……。いや、これはその、最新の市場調査をしてたんだよ。エンジニアも流行りを知っておかないと、UIのデザインとかに影響するだろ?」
「市場調査(笑)。今の、絶対エヴァのネタですよね。ヴィクター君、佐々木さんに何て吹き込んだの?」
ろあがニヤニヤしながら、手にしたカフェラテのストローを咥える。彼女が持っているカップのロゴは、今まさにヴィクターが画面に表示していたモンブラン専門店――「Logarithmic-Spiral」のものだった。
『七瀬様。私は旦那様に、モンブランの上に逃げずに乗る覚悟があるかどうかをレクチャーしておりました。具体的には、この濁流に呑み込まれる覚悟です』
「なにその覚悟。食べ物粗末にしちゃダメだよ」
ろあは航のデスクの角に腰掛けると、スマホの画面に映るモンブランの画像を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「佐々木さん。美月さんを誘うために、そのお店選んだんでしょ? 確かに人気ですけど……。あそこ、予約なしだと平日でも二時間待ちですよ。仕事終わりにスーツの男が一人で並んでたら、別の意味で『バズる』かもしれませんね。不審者情報として」
「二時間……! そんなにか……」
「それに、美月さん。ああいうキラキラしたお店、好きは好きですけど……。実は、並ぶのあんまり得意じゃないって言ってましたよ。前、一緒にランチ行ったとき『最近の流行りは、情報が多くて疲れちゃう』って」
航の心に、冷たい雨が降った。ヴィクターの「最新トレンド」という攻略本が、一瞬にしてゴミ箱へと放り込まれた気分だ。そもそも、自分が必死に「調査」して得たつもりだった美月さんの好みも、実際に彼女とランチに行く距離にいるろあの一次情報には、到底太刀打ちできなかった。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ。トレンドを追わなきゃ、美月さんみたいな素敵な人と話題なんて合わないし……」
「あはは! 佐々木さんって、無理して『イマドキ』になろうとすると、バグったプログラムみたいで見てて痛々しいんですよね」
ろあがカップを置き、航の顔をまじまじと見つめた。その距離が少しだけ近くなり、航は思わず背筋を伸ばす。
「いいですよ。だったら、いっそのこと私が練習台になってあげましょうか?」
「え、練習台?」
「そう。そのお店。美月さんを誘う前に、私で『予行練習』してあげるって言ってるんです。これなら、誘い方のバグも私がデバッグしてあげられるし。どうですか?」
航の脳内で、急速な計算が始まった。 確かに、いきなり美月さんを誘って玉砕するよりは、トレンドに詳しく、かつ美月さんとも親しいろあでシミュレーションをするのは合理的だ。
「……いいのか? 貴重な休みや仕事帰りの時間を、俺の練習なんかに使わせて」
「いいですよ。その代わり、支払いは全部佐々木さん持ち! あと、面白いネタが撮れたら私のSNSの裏垢にアップさせてもらうのが条件です!」
「……最後のが一番不穏なんだが」
『旦那様、これは絶好のデバッグチャンスです。早速、週末の予行演習コードを生成します。……あ、ちなみに。七瀬様を誘う時のセリフは、**「あんたが、私のマスターか?」**で固定しておきますね』
「それは作品が違うし、絶対に言わねえよ!」
ろあはウィンクをして、自分のデスクへと戻っていった。 航は、美月さんのために始めたはずの「トレンド学習」が、なぜか「ろあとの予行練習」にすり替わったことに頭を抱えた。
三ヶ月という期限まで、あと少し。航の迷走は、ついに「デート(の練習)」という名の新展開へと突入したのである。




