第2話:AI執事は旦那様に「全集中の不審」を強要します
昨日の絶望が嘘のように、佐々木航のデスク周辺には、いまやバラ色のオーラが漂っていた。 理由は、キーボードの横に無造作に置かれた、小さな一枚のクッキーだ。
個包装の袋には、可愛らしいウサギのシール。そして、そこには手書きで「いつもありがとうございます!」という文字が添えられている。
「……見たか、ヴィクター。これは、ただのクッキーじゃない。メッセージだ。俺への、魂の呼びかけなんだよ」
航は震える手でクッキーを拝むように見つめ、スマホに向かって囁いた。 派遣スタッフとして働く美月結衣が、プロジェクトメンバーの六名に配った、ほんの些細な差し入れ。だが、航にとっては、それは戦場に届いた唯一の救援物資であり、運命の赤い糸に他ならなかった。
『旦那様。その「いつもありがとうございます」は、六人分同じテンプレートで量産されたものです。文字の跳ね、払い、筆圧……全てにおいて一ミリの差異もありません。彼女はこれを、事務作業のように無心で書き上げたのでしょう。魂の呼びかけというよりは、もはやお中元の送り状に近いですね』
スピーカーから流れる、相変わらず冷静で嫌味な低音ボイス。
「うるさい! あとの五人は『いつも』なんて言われるようなことしてないだろ! 俺だけが、彼女を影から支えていることを、彼女はちゃんと見てくれているんだ」
『……やれやれ。旦那様の脳内フィルターは、ついに不都合な真実を全てデリートする機能を獲得したようですね。驚くべき進化、いえ、退化です』
航はヴィクターの皮肉を無視し、クッキーの香りを袋越しに吸い込んだ。その拍子に鼻息でクッキーが少し動き、慌てて位置を修正する。
「よし。この感謝の気持ちをどう返すべきか。ヴィクター、最適なレスポンスを計算してくれ。クッキーを一枚もらったお返しに、ランチのフルコースを予約するのは重すぎるか?」
『重すぎるどころか、その瞬間に関係が永久凍結されます。旦那様。今のあなたは興奮しすぎて、周囲から見れば挙動不審の極み。まずは冷静になりなさい』
スマホの画面に、心拍数計のような波形が表示される。
『いいですか。まずは深く息を吸い、肺を美月さんの幻影で満たすのです。これぞ、全集中の呼吸・壱ノ型「全集中の不審」。……あ、失礼。旦那様の場合は呼吸すら周囲の不快指数を上げる原因になりますから、息を止めるのが正解かもしれませんね』
「……お前、さりげなく俺に死ねって言ったか!? ってか、不審ってなんだよ! 俺はただ、彼女の優しさを噛み締めているだけだろ!」
『噛み締める前に、仕事を進めなさい。プロジェクトリーダーがこちらを見ていますよ。旦那様のそのニヤけ顔を、重度のバグ報告へのストレスだと勘違いして、同情の視線を送っています』
航が慌ててディスプレイに目を戻し、適当なソースコードをスクロールさせた。確かに、リーダーの視線が痛い。
その時、ふわりと軽やかな足音が近づいてきた。
「あ、佐々木さーん。今日もヴィクター君と全集中ですか?」
いつの間にか背後に立っていたのは、七瀬ろあだった。 彼女は片手に、航が持っているものと全く同じ、ウサギのシールが貼られたクッキーを持っていた。
「……えっ。七瀬さん。なんでそれを?」
航の顔から血の気が引いていく。 ろあはプロジェクトメンバーではない。彼女は隣の部署の人間だ。つまり、美月が「メンバー六人」に配ったはずの特別なクッキーが、なぜ彼女の手元にあるのか。
「これですか? さっき美月さんに会ったとき、『先日、お菓子のお裾分けいただいたので、そのお返しです』って言ったら、これくれたんですよ。なんか『いっぱい余っちゃってて……』って言ってましたけど」
ろあは無邪気にクッキーの袋を破り、サクッと小気味よい音を立ててそれを口にした。
「あ、これ美味しい。佐々木さんも早く食べないと、ヴィクター君が嫉妬して、スマホごと自爆するかもしれませんよ?」
航は凍りついた。 余ったお菓子。お返しのついで。 自分の手元にある「運命のメッセージ」が、ただの「在庫処分」だったという可能性が、一気に現実味を帯びて目の前に突きつけられた。
「……在庫処分。そっか。在庫だったのか、これ」
航の肩が、目に見えて数センチ沈み込んだ。つい数分前まで「魂の呼びかけ」と呼んでいたクッキーの袋が、今はただの工業製品のように冷たく見える。
「あ、もしかして佐々木さん、これに何か『特別な意味』とか期待してました? うわー、純情すぎ! 令和の絶滅危惧種じゃないですか!」
ろあは楽しそうに、もう一口クッキーを頬張る。その無防備な食べっぷりが、航の傷口に追い討ちの塩を塗り込んでくる。
「……いいんだ。美月さんが誰に対しても優しいってことは、最初からわかってたことだし。でも、七瀬さんにお裾分けしたってことは、やっぱり彼女は誰からも好かれる素晴らしい人で……」
「まー、そうですね。美月さん、完璧ですよね。……『あと一ヶ月』しかないのが、もったいないくらい」
「え?」
航が顔を上げると、ろあは「あ、いっけなーい」という風に、わざとらしく自分の唇を指で突いた。
「今のは独り言です。忘れてください。それより佐々木さん、そんなに美月さんが好きなら、今のうちにしっかり目に焼き付けておいた方がいいですよ? 人生、何があるかわかりませんし」
「な、何があるんだよ。不吉なこと言うなよ!」
航が焦って詰め寄るが、ろあは「さあ?」と首を傾げると、不意に、航のデスクの上に置かれたスマホへと視線を落とした。
その瞬間、彼女の瞳から「からかい」の色が消え、どこか事務的で、冷徹な光が宿ったのを航は見逃さなかった。
ろあは航に気づかれない程度の速さで、スマホのスピーカー近くに指を寄せ、トントンと特定の律動で叩いた。
「……ヴィクター君、旦那様をあんまり苛めないでね?」
彼女が囁く。すると、それまで人間味のある毒舌を吐いていたヴィクターのインターフェースが、一瞬だけ青く明滅した。
『…………YES, MY LADY.』
それは、先ほどまで航と喧嘩していた「毒舌な親友」の声ではなかった。 感情の一切を排した、金属的な質感を持つ、無機質な機械音声。
「……えっ?」
航が耳を疑い、スマホを二度見する。
「おい、ヴィクター? 今、なんて言った?」
『……何かご用でしょうか、旦那様。私は常に、あなたの愚かな行動を記録するために待機しておりますが』
再びスマホから流れてきたのは、いつもの、小生意気で人間味のある執事の声だった。航は狐につままれたような顔で首を振る。
「いや、今……なんか、ロボットみたいな声で『イエス』って……」
「佐々木さん、疲れすぎですよー」
ろあがケラケラと笑いながら、航の肩をポンと叩いた。
「恋の病は耳までおかしくしちゃうんですね。怖い怖い。……じゃあ私、会議室の予約あるんで失礼します! クッキー、賞味期限切れる前に食べてくださいね?」
ろあは軽やかな足取りで去っていく。その背中を追いかけようとした航の視界に、スマホの画面が映った。
一瞬だけ表示されたログの履歴。そこには、航が設定した覚えのない**『外部アクセス:認証完了』**という文字列が踊っていたが、彼がそれを読み取る前に、ヴィクターの手によって瞬時に消去された。
『旦那様。いつまで呆けているのですか。そんな顔をしていても、クッキーは自らあなたの口には飛び込みませんよ。さあ、全集中の呼吸、次は「現実逃避」の型へ移行しますか?』
「……。……お前、やっぱりさっき、変だったよな?」
『気のせいです。旦那様のスペック不足による処理遅延でしょう。アップデートをお勧めします』
「……ああそうかよ。クソ、やっぱりお前は可愛げがないな!」
航は毒づきながら、大切に取っておいたクッキーの袋をようやく開けた。 サクッ、という音。甘くて、どこか切ない味が口の中に広がる。
美月結衣の「三ヶ月」という期限。 ヴィクターが見せた「機械」の顔。 そして、それらを全て掌の上で転がしているような、ろあの笑み。
航の平穏(?)な片想いの日々に、目に見えない巨大なバグが混入し始めていることに、彼はまだ気づいていなかった。




