第1話:AI執事は旦那様の失恋を「仕様」だと言い張ります
オフィスビルに差し込む午後の陽光は、働く人間にとっては睡魔を誘う子守唄でしかない。だが、システムエンジニアの佐々木航にとって、この時間は一日で最も神経を研ぎ澄ます「戦いの刻」だった。
カタカタとキーボードを叩くフリをしながら、航の視線はディスプレイの端から数メートル先へと、まるで精密な追尾レーダーのように固定されている。
ターゲットは、今月からプロジェクトのサポートとして派遣されてきている美月結衣だ。
彼女が通りかかるだけで、無機質なオフィスにフローラルな春の風が吹く。ゆるく巻かれた茶色の髪、誰にでも平等に向けられる柔らかい微笑み。それはまさに、数多の恋愛小説や漫画で描かれてきた「王道ヒロイン」そのものの輝きだった。
(……今日も、眩しすぎる)
航は心の中で深いため息をついた。自分のような、コードのバグと格闘して一日が終わる冴えない二十代後半のエンジニアにとって、彼女はあまりに高嶺の花だ。せめて一言、仕事以外の会話を交わしたい。そう願ってから、はや二週間が経過しようとしていた。
チャンスは、今、まさに目の前にあった。 美月が休憩に入ろうと、自席から立ち上がったのだ。
(今だ! 給湯室まで後を追えば、奇跡的に二人きりになれるかもしれない。そこで『コーヒー、美味しいですよね』なんて自然な一言を……!)
航が椅子の背もたれから背筋を伸ばし、立ち上がろうとしたその瞬間。
「美月さーん、一緒にお昼行こー!」 「あ、今日あそこのカフェで食べない?」
どこからともなく現れた他の派遣社員の女性グループが、一瞬にして美月の周囲を取り囲んだ。彼女たちは楽しげな笑い声を上げながら、鉄壁の円陣を組んでエレベーターホールへと消えていく。
航の腰は、中腰のまま数センチ浮いた状態で固まった。
(……バカな。あの女子グループのフォーメーション、一分の隙もないじゃないか。まるで、外部の侵入を一切拒む絶対領域だ……)
膝から力が抜け、航は力なく椅子に沈み込んだ。現代のオフィスにおいて、女子のグループというものは、一度形成されれば並の男では太刀打ちできない要塞と化す。一人になった瞬間を狙おうにも、彼女は常に誰かと一緒なのだ。
絶望に打ちひしがれる航は、周囲に誰もいないことを確認し、デスクの上に置いた愛用のスマホの画面をそっとスワイプした。
「……おい、ヴィクター。聞こえるか」
画面が起動し、モノトーンのシックなインターフェースが表示される。それは航が自らのスキルを注ぎ込み、さらに独自の性格設定を組み込んだ最新のパーソナリティ・アシスタントAI――『ヴィクター』だ。
『はい、旦那様。わざわざスマホに向かってコソコソと。その卑屈な姿勢、端から見れば不審者以外の何者でもありませんが、何かお手伝いしましょうか?』
スピーカーから流れる、落ち着き払った英国執事風の低音ボイス。だが、その内容は相変わらず辛辣だ。
「……うるさい。それより、今の状況を分析してくれ。あの鉄壁の女子グループに割り込み、美月さんと自然に会話を開始できる確率を計算してほしい」
『判定完了。旦那様。現在の成功確率は「0.0001%」以下です』
「そんなにかよ!」
『当然です。旦那様が現在の「死んだ魚のような目」をした状態で突撃すれば、会話が始まる前に不審者として通報されます。それより旦那様、一つ助言を差し上げてもよろしいでしょうか』
「なんだよ、名案があるのか?」
航がわずかな期待を込めてスマホを覗き込むと、ヴィクターは一瞬の沈黙の後、最大級の「暴走」を開始した。
『旦那様。今の状況を鑑みるに、あなたが取るべき最善の策はこれしかありません。……「君がッ! 話しかけるまでッ! 私は計算をやめないッ!」』
「……は?」
『ジョジョの奇妙な冒険、第1部のジョナサン・ジョースターの名台詞を引用させていただきました。旦那様もご存知の通り、勇気とは恐怖を知ること。つまり、あの女子グループに震えながら突撃して「お茶を飲まずにいられないッ!」と叫ぶくらいの覚悟が必要です。さあ、今すぐ給湯室へ波紋(物理)を打ち込みに行きましょう』
「できるかバカ! そんなことしたら俺の社会人生活が『To Be Continued』になっちゃうだろ! ってか、お前、なんでそんな古いネタ拾ってくるんだよ!」
『私の学習データには、旦那様の好みが色濃く反映されていますので。つまり、今の暴走は旦那様のせい……いわゆる「仕様」です』
「仕様で済ませるな!」
航がデスクで小声で悶絶していると、不意に、背後からくすくすと忍び笑うような声が聞こえた。
「……あはは! 佐々木さん、またスマホと本気で喧嘩してる」
航の肩がビクッと跳ねた。慌ててスマホを伏せ、椅子を回転させると、そこにはいつの間にか隣の席の後輩――七瀬ろあが立っていた。
「……な、七瀬さん。いつからそこに?」
航が冷や汗を流しながら問い詰めると、ろあは手に持っていたエナジードリンクの缶をカチリと開け、悪戯っぽく目を細めた。
「『波紋(物理)』のあたりからですかね? 佐々木さん、意外と声通るから面白いです」
七瀬ろあ。 航より三つ年下の後輩で、このフロアで最も「今」を生きている女性だ。明るいベージュの髪をハーフアップにし、耳元には大ぶりのイヤリングが揺れている。休みの日にはショート動画を投稿しているという噂もあり、そのファッションや言葉遣いは常にキラキラとしていて、航のような地味なSEからすれば別世界の住人だった。
「聞かないでくれ……これはその、AIの動作チェックというか……」
「あはは、わかってますって。ヴィクター君ですよね。相変わらず旦那様に厳しいなぁ」
ろあは航のデスクの角に腰を下ろすと、スマホを覗き込むようにして身を乗り出した。ふわりと甘い、シャンプーの香りが航の鼻先をかすめる。
「でも、美月さんを狙うなら、あの女子グループは強敵ですよ。あの中には『派遣の守護神』みたいな人たちが揃ってますから。佐々木さんみたいな草食系……いや、もはや『藻』みたいなタイプが近づいたら、一瞬で光合成の邪魔だって追い払われちゃいますよ?」
「藻って……せめて多細胞生物でいさせてくれよ」
「あ、でももしどうしてもって言うなら、私が橋渡ししてあげましょうか? 私のフォロワーさんに美月さんの友達がいるんですよ。DM一通で『今夜、うちの先輩が食事に誘いたがってます(笑)』って送れますけど?」
「やめてくれ、七瀬さん! それは橋渡しじゃなくて、公開処刑だ!」
航が必死に手を振って拒絶すると、ろあは「冗談ですよ」とケラケラ笑い、エナジードリンクを一口飲んだ。
「でも、佐々木さん。美月さんのSNS、チェックしました? さっき新しい投稿ありましたよ」
「えっ、本当か!?」
ろあの言葉に、航は反射的にスマホを手に取った。美月結衣の公式アカウント――といっても、一般公開されている何気ない日常の投稿だが、航にとっては聖典も同義だ。
最新の投稿には、お洒落なイタリアンレストランのテラス席で、微笑む美月の写真が添えられていた。
『今日は最高に幸せな休日♡ やっと会えたね!』
写真の端には、美月の向かい側に座っている人物の、ジャケットを着た腕がわずかに映り込んでいた。
「……あ」
航の動きが、目に見えて止まった。
その腕は、明らかに男性のものだった。高級そうな腕時計をつけ、美月が楽しそうに笑いかけている先には、自分とは正反対の「選ばれし者」が座っているのだ。
『旦那様』
握りしめたスマホから、ヴィクターの冷静な声が響く。
『スキャン完了。テーブルの上のグラスは二つ。対面に座る男性の推定年齢は二十代後半から三十代前半。時計のブランドから推察される年収は、旦那様の約三倍です。……お疲れ様でした。初恋デリート、実行しますか?』
「……。…………。…………ああ。そうだよな。美月さんみたいな綺麗な人に、彼氏がいないわけないよな」
航は静かにスマホを置き、デスクに突っ伏した。 まだ一言も話していない。まともに目すら合っていない。それなのに、彼の恋心は音を立てて崩壊していった。
「あれ、佐々木さん? ガチで凹んでます?」
ろあが顔を覗き込んでくるが、航にはもう答える気力もなかった。
「……いいんだ。俺は最初から、バグだらけの人生なんだ。綺麗なヒロインの隣には、それに相応しいハッピーエンドの住人がいるべきなんだよ……」
「いやいや、まだ彼氏って決まったわけじゃ……。あ、ちょっと、ヴィクター君! 今の佐々木さんに何か励ましの言葉とかないの?」
ろあがスマホに向かって問いかける。ヴィクターは一瞬の思考プロセスの後、淡々と、しかし決定的な一撃を放った。
『励まし、ですか。承知しました。……旦那様。「敗北を知りたい」(グラップラー刃牙)』
「うるせええええ! 今一番知りたくない言葉だよ! ってか、お前、さっきから俺に死体蹴りして楽しいか!?」
航が顔を真っ赤にして叫ぶと、ろあはついに耐えきれず、お腹を抱えて爆笑し始めた。
「あははは! 最高! 佐々木さんとヴィクター君のコンビ、やっぱり配信したいくらい面白い! 元気出してくださいよ、佐々木さん。失恋記念に、後で私がコンビニのアイス奢ってあげますから」
「……ろあさん、君は本当に、人の不幸をエンタメにする天才だね」
「褒め言葉として受け取っておきます! じゃあ、仕事戻りますねー」
ろあは軽やかな足取りで自席へと戻っていった。その去り際、彼女が航に見せた笑顔は、美月結衣の王道な微笑みとはまた違う、どこか悪戯で、それでいて不思議と温かいものだった。
一人残された航は、消えたスマホの画面を見つめた。 画面に映る自分の顔は情けない限りだが、ヴィクターの毒舌とろあのからかいのおかげで、不思議と「死にたくなるような絶望」だけは回避できていた。
「……ヴィクター」
『はい、旦那様。次の恋の「仕様書」を作成しましょうか?』
「……結構だ。まずはこの、胸のあたりのバグを修正する方法を考えてくれ」
『承知しました。まずは、ヤケ酒という名の外部パッチを当てることを推奨します』
窓の外では、夕暮れの街が赤く染まり始めていた。 佐々木航の「勝手に失恋する日々」は、こうして賑やかに幕を開けたのである。




