第9話 二人の龍の間で
春風が、花鏡宮の回廊に桜の花びらを舞い込ませていた。
その華やかさとは裏腹に、帝の寝所である清涼殿は、暗く沈鬱な雰囲気に包まれていた。
「……朱里。頼む、目を開けてくれ」
翡翠は、寝台に横たわる朱里の細い指を、折れんばかりの力で握り締めていた。 朱里の肌は、もはや白磁を超えて、透き通るような硝子細工のようだった。言霊として魂を放出しすぎた彼女の「器」は、今や空っぽの抜け殻に近い。異世界から来た彼女の魂は、この世界の重力に耐えきれず、再びあの古鏡の向こう側へと引き摺り戻されようとしていた。
「帝……。そのように熱を注いでも、彼女は目覚めません」
背後の闇から、しなやかな影が這い出してきた。 暁である。かつての神々しい白銀の装束は泥と返り血に汚れ、その端正な貌には、深い疲労と敗北の陰が刻まれていた。瞳だけは、凍土の下で燃える燐光のように、鋭く朱里を見つめている。
「貴様……! まだ彼女を奪うつもりか」
翡翠が獣のごとき低いうなり声を上げ、暁を睨み据えた。黄金の双眸に、一触即発の殺気が宿る。
「奪えるものなら、とうに連れ去っております。……ですが、彼女をこの現世に繋ぎ止めているのは、私の執着ではなく、兄上、貴方の独占欲でもない。……彼女自身の『想い』なのです」
暁は、朱里の寝台の傍らに、音もなく跪いた。
「彼女の魂は、あちらの世界の鏡に呼ばれています。千年の時を超えて、本来あるべき場所へ帰ろうとしている。それを防ぐには、この世界の『核』を彼女の魂に植え付けるしかありません」
「核だと……? それは何だ」
「龍の血の、最深部に眠る――『逆鱗の雫』。龍が一生に一度だけ、魂の番に捧げることができる、命の欠片です」
暁の言葉に、翡翠は息を呑んだ。 龍の血を引く皇族にとって、それは文字通り命を削り出す行為。もし捧げれば、翡翠の持つ絶大な霊力は失われ、常人として、あるいはそれ以下の脆い身体となる。
「……そんなことで彼女が戻るなら、安いものだ」
翡翠が躊躇なく自らの胸元に手を掛けた。だが、暁がその手を制した。
「兄上だけでは足りない。彼女の魂はあまりに異質だ。熱すぎる龍の血だけでは、彼女の魂は焼き切れてしまう。……私の『冷たき影の血』も合わせなければ、器は安定しません」
二人の龍が、初めて正面から視線を交わした。 熱き龍と、冷たき龍。 一人は光を、一人は影を。 一人は生を、一人は死を。 朱里という一輪の花を巡って、命懸けの共闘が、今、耽美なる儀式となって幕を開ける。
暁が呪文を紡ぎ始めると、部屋全体が深い闇に包まれ、その中心で朱里の身体が淡い真珠色の光を放ち始めた。
「兄上、私の手に貴方の熱を。……さあ!」
翡翠が暁の手を握る。かつて激しく憎み合い、殺し合おうとした二人の男の血が、朱里の身体の上で一つに混ざり合った。 緋色の熱気と、銀色の冷気が螺旋を描き、朱里の胸元へと吸い込まれていく。
朱里の意識は、真っ白な空間を彷徨っていた。
(……帰らなきゃ。あの、静かな、博物館の世界に)
遠くで、何か割れるような音が聞こえる。現代の自分、大学院生としての自分、孤独に古典を愛していた自分が、彼女を呼んでいる。
なのに、それを引き止める声があった。 熱い、火傷しそうなほどに情熱的な声。 冷たい、けれどどこまでも優しく、孤独を分かち合う声。
『行かせない』
『ここにいろ、朱里』
二つの異なる「愛」の感触が、朱里の魂を強く、強く抱きしめた。一つは、彼女を支配し、守り抜こうとする王の熱。一つは、彼女に寄り添い、共に闇を歩もうとする影の冷たさ。
「……ああ、熱い。……そして、涼やか……」
朱里の唇から、かすかな溜息が漏れた。
その瞬間、彼女の胸の奥で、異世界の魂と常世の国の血が、ガチリと音を立てて噛み合った。
光が弾け、沈黙が訪れる。 翡翠と暁は、共に精根尽き果てたように床に膝をついた。翡翠の黄金の瞳からは、かつての暴力的な光が消え、穏やかな慈しみが宿っている。暁の指先からは、冷酷な魔力が失われ、人としての温もりが戻っていた。
「……翡翠、様。……暁、様」
微かな、けれど確かな声。 朱里がゆっくりと瞼を持ち上げた。その瞳には、もはや白露の虚ろな影はない。二人の龍の命を半分ずつ受け継ぎ、この異世界で生きていくことを選んだ「朱里」としての強い意志が宿っていた。
翡翠は、朱里を壊れ物を扱うように抱き上げ、その額に優しく唇を寄せた。
「おかえり、朱里」
その様子を、暁は少し離れた場所から、寂しげに、けれど満足そうに目を細めて見つめていた。
「……貴女の瞳に私が映るなら、たとえそれが『兄上の傍らにいる私』であっても、もう構わない」
二人の龍の間で、異世界の姫はついに「生」を選び取った。
しかし、後宮の最奥、暗い影の中では、寵愛を奪われた女たちの最後の呪詛が、黒い蛇となって鎌首をもたげていた。




