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月華の契り ー異世界の姫は二人の龍に愛されるー  作者: kiyoaki


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第8話 花鏡宮の異変

 世界は、音を立てて凍りついていた。


 花鏡宮かきょうきゅうを襲ったのは、天の慈悲を忘れたかのような「銀世界の監獄」であった。空からは花びらではなく、生命の熱を奪い去る結晶――霊力の枯渇が生んだ異形の雪が降り積もる。

「……寒い」

 朱里あかりは、白銀に染まった回廊を、自らの肩を抱きながら歩んでいた。吐息は白く、その肌は雪嶺に咲く一輪の白梅のように、痛々しいまでの透明感を帯びている。


 内裏の門前には、行き場を失った民たちが群れをなし、呪詛じゅその声を上げていた。

「異界の女を差し出せ!」

「あの女が、龍の霊脈を汚したのだ!」

 怨嗟の声は吹雪に乗って、朱里の胸を容赦なく抉る。紫苑しおんの君をはじめとする后妃たちは、ここぞとばかりに朱里を「冬を呼ぶ魔女」として人柱に捧げるべきだと声を揃えていた。


「朱里、外へ出るなと言ったはずだ」

 背後から、凍てつく大気を裂くような熱量が押し寄せた。 翡翠ひすいだ。

 彼は、燃え盛るような紅緋べにひの直衣を翻し、朱里を背後から力強く抱き寄せた。彼の腕の熱さは、今の朱里にとって唯一の、この現世うつしよに繋ぎ止める錨であった。

「……帝、私は行かなければなりません。民の声が、悲鳴となって聞こえるのです。このままでは、貴方の愛するこの国が、すべて氷に閉ざされてしまう」

「黙れ! 民などどうなってもいい。貴様を失うくらいなら、俺はこの国ごと氷の底に沈んでやる」

 翡翠の声は、猛る獣の咆哮に似ていた。彼の黄金の瞳には、愛する者を奪われまいとする、狂気にも似た執念が宿っている。龍の血が、絶望に呼応して、彼の肌を内側から焼き焦がさんばかりに波打っていた。


 朱里は知っていた。 この異常な冬を終わらせる方法を。

 かつて彼女が愛した「古の言葉」――和歌に秘められた言霊ことだまの力。

 この常世の国において、言葉は魂を震わせ、霊力を活性化させる最強の術となる。

(現代の私が持っていた知識……それは、この時のためにあったのかもしれない)

 朱里は翡翠の腕から離れ、彼を見上げた。

「翡翠様。私を、信じてください。私は異界の魔女ではありません。貴方の国を、常春へと導くための……貴方の伴侶です」


 朱里は、祭壇である「月華台」へと向かった。

 そこには、雪の精霊と契約を交わし、この凍てつく世界を冷徹に支配しようとする男が待ち構えていた。

 あかつき。 彼は、透き通るような白銀の狩衣を纏い、もはや人間離れした神々しささえ漂わせている。その周囲では、氷の結晶が蝶のように舞い、触れるものすべてを瞬時に凍結させていた。

「白露様……いいえ、朱里。ここへ来ると信じていましたよ。あのような熱苦しい龍の元を去り、私の用意した、永遠に朽ちぬ静寂の園へお越しなさい」

 暁は、氷のように冷たい微笑を浮かべた。

「この雪は、貴女を守るための障壁。人間どもの醜い声も、兄上の暴力的な熱も、ここには届きません」

「暁様、貴方は間違っています。……静寂は、死と同じです。私は、熱くても苦しくても、生ある世界を選びます」


 朱里は、暁の差し出した白い手を拒絶し、祭壇の端に立った。

  彼女は、幾重にも重なった十二単を脱ぎ捨て、薄い白衣一枚となった。

 極寒の風が、華奢な身体を容赦なく打ちのめすが、彼女の瞳には、かつてないほどの烈火が灯っていた。


 朱里は、深く息を吸い込み、天に向かって声を放った。


『ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ』


 彼女がかつて愛した紀友則の歌。 異世界から来た魂が、命を削るようにして紡いだその言葉は、もはや単なる歌ではなかった。

 朱里の身体から、眩いばかりの桜色の光が溢れ出し、重く垂れ込めた雪雲を貫いた。

 言霊が霊力と混ざり合い、大気を震わせる「春の旋律」となって広がっていく。


「なっ……! 魂を、言葉に変えて放り出すというのか。止めるんだ。そんなことをすれば、貴女の魂は……!」

 暁が、叫びながら駆け寄ろうとする。


 それよりも早く、翡翠が朱里の元へ飛び込んだ。

 彼は、朱里から溢れ出す光を逃がさぬよう、その身体を背後から包み込む。

「逝かせはせん。貴様が言葉を紡ぐなら、俺はこの命のすべてを、貴様の声に捧げる燃料としてやろう!」

 翡翠の龍の熱と、朱里の言霊の光。

「陽」と「陰」の極致が、二人の抱擁の中で一つに溶け合う。

 圧倒的なエネルギーは、暁の作り出した氷の檻を粉々に砕いた。


 パキパキと、氷の割れる音が響く。

  雪の下から、萌黄色の若草が顔を出し、枯れていた梅の木が一斉に蕾を綻ばせた。

 氷の沈黙に支配されていた花鏡宮に、鳥の囀りと、春の薫りが戻ってくる。


「……ああ」

 朱里は、力尽き、翡翠の腕の中に崩れ落ちた。

 視界の端で、暁が、消えゆく氷の破片と共に、絶望とも、納得ともつかぬ表情をしているのが見えた。

「春が、戻って来ましたね……帝……」

「ああ、貴様が連れてきた、眩しすぎる春だ。朱里」

 翡翠は、朱里の冷え切った指先を、自らの唇で温め続けた。

 霊力を使い果たした朱里の瞳は、次第に光を失い、深い眠りの淵へと沈んでいく――。

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