第7話 異世界の秘密
空を覆う雲は、不吉なまでに濃密な蘇芳色に染まっていた。
花鏡宮の全土に、見たこともない異形の風が吹き荒れる。それは、暁が鏡迷宮の禁忌を冒したことで生じた、世界と世界の間隙から漏れ出す「歪み」であった。
「――この女は、国を滅ぼす魔性でございます!」
内裏の最高会議が置かれる紫宸殿。
静謐な空気を切り裂いたのは、右大臣の愛娘・紫苑の君の、凄絶なまでの叫びであった。
彼女の背後には、異変を恐れる公卿たちが、群れなす鴉のように黒い影を落として控えている。
「ご覧ください。この女が来て以来、霊力は乱れ、池の水は枯れ、不吉な赤い月が沈まぬ。これは白露姫の抜け殻に憑りついた、異界の化生に他なりませぬ!」
糾弾の矢面に立たされた朱里は、白銀の御簾越しに、その言葉を静かに受け止めていた。
彼女の隣には、燃え盛る火焔のような威圧感を放つ帝・翡翠が座している。
「黙れ、紫苑」
翡翠の声が、雷鳴のように響いた。
「白露が何者であろうと、俺が傍らに置くと決めた。俺の龍熱を鎮め、この国に新たなる知恵をもたらした功績を忘れ、言いがかりをつけようというのか」
「言いがかりではございません! 白露様がかつて詠まれた歌、今のこの女の筆跡……あまりにも違いすぎます。これは別人でございましょう」
紫苑が差し出したのは、かつての白露が書き残した、弱々しく消え入りそうな筆跡の歌。そして、朱里が翡翠に贈った、凛然たる意志を感じさせる力強い筆跡の書。
比較するまでもない。魂の質が、根本から入れ替わっていることは、誰の目にも明らかだった。
公卿たちがざわめき、殺気立った空気が広間に渦巻く。
(……もう、誤魔化しきれない)
朱里は観念した。
翡翠を騙し続けることは、彼の「龍」としての誇りを汚すことではないのか。
朱里は、翡翠の制止を振り切るように、一歩前へと歩み出た。 重厚な十二単の擦れる音が、沈黙の殿内に響き渡る。
「帝。……そして皆様。紫苑の君の仰る通りです。私は、皆様が知る『白露』ではありません」
「朱里……!」
翡翠が、黄金の瞳を見開いた。
「私は、千年の時を隔てた、遥か彼方の世界から参りました。そこには龍も、魔法も、後宮のしがらみもありません。私は、博物館の鏡に触れ、気づけばこの身体の中にいた……。ただの、異邦人でございます」
告白と共に、朱里の周囲に眩いばかりの銀色の光が溢れ出した。
この世界の「霊力」とは明らかに異質な、純粋で、剥き出しの「個」の輝き。
現代という、神話が消え去った世界から来た魂の、孤独で凛烈な光であった。
公卿たちが「やはり化け物だ!」と騒ぎ立てる中、翡翠だけは、その光に射抜かれたように立ち尽くしていた。
「千年の、時……。貴様は、あの冷たい玻璃の向こう側から、俺に会いに来たというのか」
「……会いに来たわけではありません。けれど、貴方に触れて、私はこの世界が……貴方の孤独が、他人事とは思えなくなったのです」
朱里の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。真珠のように光り輝き、床に落ちる前に霧となって消えた。
「――ならば、その魂、今すぐ元の場所へ返して差し上げましょう」
冷徹な声が、殿の天井から降ってきた。 いつの間にか、大屋根の上に暁が立っていた。彼は、禁忌の術「魂還」の印を結び、朱里を異世界へ強制送還しようとしていた。
「暁、何をする!」
翡翠が叫ぶ。
「兄上、お分かりですか。彼女はこの世界の理を乱す異物。彼女がいれば、貴方の龍の血はさらに暴走し、この国は崩壊する。……彼女を救う唯一の道は、彼女を『無』に帰すことなのです!」
暁の瞳には、慈愛と狂気が同居していた。
彼は、朱里が処刑されるくらいなら、自分の手で彼女を消し去り、その記憶だけを己の魂に刻み込もうとしていた。
「いいえ、暁様。……私は、帰りません」
朱里が叫んだ。
「私は、自分の意志でここにいます。翡翠様の側で生きることを選んだのです!」
次の瞬間、朱里の背後に、巨大な月華の翼が広がった。
異世界から来た魂と、常世の国の霊力が、彼女の「決意」という触媒を経て、かつてない奇跡の力を生み出したのである。
翡翠は、迷うことなく朱里を抱き寄せ、彼女の唇に熱い誓いを刻んだ。
「神が貴様を否定しようと、俺が許す。朱里、お前はこの国の光だ。俺の魂の、唯一の番いだ!」
帝の宣言に、紫宸殿全体が金色の光に包まれる。
その光の裏側で、暁は絶望に顔を歪ませ、自らの影に呑み込まれていった。
「……ならば、私は影として、貴女を地の果てまで追い続けましょう。たとえ、この魂が千々に裂けようとも」
真実は、白日のもとに晒された。
それは安寧の訪れではなく、より苛烈な「運命の歯車」の回転を意味していた。
外では、霊力の枯渇が極限に達していた。
不気味な「冬の嵐」が、花鏡宮を白銀の監獄へと変えようとしていた。




