第4話 香合わせ
陽光が薄縹色の空から降り注ぎ、花鏡宮の広大な寝殿を、黄金の塵が舞う夢幻の空間へと変えていた。
今日は、后妃たちがその教養と感性を競い合う「薫物合わせ(たきものあわせ)」の日である。広間には、最高級の沈香や白檀の重厚な香りが幾重にも層をなし、立ち込める煙が女たちの執念と欲望を象徴するように、ゆらゆらと虚空に輪を描いていた。
朱里の前に置かれたのは、紫苑の君の差し金による、無惨なまでに質の劣る香木と、湿気て異臭を放つ練香の種であった。
「あら、白露様。あのような煤けた香炉を磨き上げる知恵をお持ちなら、腐った沈香からも、さぞや素晴らしい芳香を導き出せますことでしょうね」
紫苑の君は、贅を尽くした金泥の扇で口元を隠し、冷ややかな嘲笑を投げかける。
周囲の后たちからも、くすくすと忍びやかな笑い声が漏れた。
(……陰湿な嫌がらせ。けれど、香りの本質を知らないのは貴女たちの方だわ)
朱里は、伏せ目がちに長い睫毛を震わせながら、目の前の「材料」を静かに見つめた。
現代でアロマセラピーの知識をかじっていた彼女にとって、香りは単なる誇示のための道具ではない。脳に直接働きかけ、魂を癒やし、時には昂ぶった神経を鎮める「薬」なのだ。
朱里は、あえて高価な香木には目もくれず、庭の片隅に自生していたクロモジの枝や、干した橘の皮、そして秘かに琥珀に集めさせた数種類の薬草を取り出した。
「白露様、そのような雑草を混ぜては、帝に対して失礼に当たります!」
琥珀が青ざめながら囁くが、朱里の指先は迷いなく動く。
(翡翠様は、常に龍の熱に浮かされ、その強すぎる力ゆえに苦しんでいる……。今の彼に必要なのは、権威を象徴する重苦しい香りじゃない。たぶん雨上がりの森を吹き抜ける風のような清涼感)
朱里は、すり鉢で薬草と柑橘の皮を丁寧に調合し、微量の龍脳を加えて香りを引き締めた。それは伝統的な「六種の薫物」の処方からは大きく外れた、異世界の、そして未来の知恵が融合した「癒やしの香」であった。
「――帝のお出ましにございます」
式部官の声が響き、広間に緊張が走った。
翡翠が、白銀の糸で龍を織り出した漆黒の直衣を纏い、悠然と入廷してくる。
圧倒的な存在感、冷徹な美貌。一歩歩むごとに、彼の周囲の空気が熱を帯びて歪むのを朱里は感じた。
后たちが次々と、自慢の香を香炉に投じていく。
紫苑の君が差し出したのは、伽羅をふんだんに使った、むせ返るほどに甘く、権力的な香りだった。
「……悪くない。だが、少々鼻につく」
翡翠の感想は短く、その表情には隠しきれない倦怠が滲んでいた。
龍の血がもたらす過敏な嗅覚にとって、人工的な濃い香りは、時に毒に等しいものとなるのだ。
いよいよ朱里の番が来た。
彼女は、煤一つない銀の香炉を差し出し、自ら調合した粉末を静かに火の上に乗せた。
刹那、広間の空気が一変した。
立ちのぼったのは、甘美な官能を削ぎ落とした、凛烈なまでに清らかな香り。
深い霧に包まれた太古の森、あるいは雪解けの水を湛えた清流を彷彿とさせた。
橘の微かな苦味が、龍脳の清涼感と共に鼻腔を突き抜け、熱を帯びた脳を優しく慰撫していく。
翡翠の双眸が、大きく見開かれた。
彼は吸い寄せられるように朱里の前まで歩み寄り、香炉から立ち上る一筋の煙を、慈しむように手繰り寄せた。
「……これは、何だ。荒れ狂う俺の血が、静まっていく……」
翡翠の声は、これまでになく艶を帯びて震えていた。 彼は朱里の前に片膝をつき、数多の后たちの前であることも忘れ、彼女の細い指先を掴んだ。
「貴様……この俺を、眠りに誘うつもりか。この香りは、まるで俺の魂に直接触れるような」
「帝……。私はあなた様のお疲れを、癒やしたかったのです」
朱里が真っ直ぐに翡翠を見つめ返すと、彼の黄金の瞳に、激しい情炎と深い「渇望」が宿るのが見えた。
「この香りの中に、一生閉じ込められていたいほどだ。……今日の勝者は、白露。他は、すべて退がれ」
翡翠の宣言に、広間は蜂の巣をつついたような騒ぎとなったが、誰も異を唱えることはできなかった。紫苑の君は、屈辱に顔を歪めながら退出していく。
静まり返った広間で、朱里は翡翠に強く引き寄せられた。
「貴様は、一体俺に何を仕掛けた。この香りを嗅ぐたびに、俺は貴様という毒に深く侵されていく気がする」
「毒ではありませんわ。いうなれば……忠節という名の薬です」
「忠節、とな?」
朱里の不敵な微笑みに、翡翠は獣のような低いうなり声を上げながら顔を近づける。
しかし、その時――。
「――お熱いことで。兄上、少しばかり『浄化』が必要なようですね」
冷ややかな声と共に、広間の御簾が風もないのに激しく揺れた。
そこには、狩衣の袖を優雅に翻した暁が立っていた。彼の周囲には、目に見えるほどの冷たい霊気が渦巻いている。
「暁……貴様、何をしに来た」
翡翠が忌々しげに顔を上げる。
「兄上が龍の熱に浮かされ、この不実な『偽物の姫』に魂を売らぬよう、見張りに来たのですよ」
暁の瞳は、朱里を射抜くような鋭さを湛えながらも、その奥には狂おしいまでの独占欲が燻っていた。
「白露様。……貴女のその香りは、私にとっては地獄の業火よりも恐ろしい。兄上ばかりに安らぎを与えないでいただきたいものだ」
香煙が揺らめく中、熱き龍と冷たき龍が、一人の女を巡って再び火花を散らす。
華やかな「薫物合わせ」の結末は、さらなる激動の三角関係の幕開けに過ぎなかった。




