第3話 月夜の再会、幼馴染の疑惑
銀色の月光が、夜の帳を冷ややかに透かし、花鏡宮を沈黙の砦へと変えていた。
御影を映し出す池の面は、鏡のように平らかで、その静寂が返って不気味なほどの美しさを醸し出している。
朱里は、昼間の騒乱――帝・翡翠との衝撃的な邂逅の余韻を振り払うように、一振りの扇を手に縁側へと歩み出た。
「……信じられない」
煤に塗れた手を洗い清めても、翡翠に触れられた指先の熱だけが、刻印されたかのように消えない。
龍の熱。それは魂を焦がすような、暴力的なまでの生命の奔流だった。
(あの人の瞳……あんなに孤独で、けれど燃えるような光を宿しているなんて)
朱里は、白露という少女がなぜ命を絶とうとしたのか、その一端を理解したような気がした。あんなにも熾烈な光に当てられれば、繊細な魂は影となって消えてしまう。
その時、一陣の風が庭のしだれ桜を揺らした。
花びらさえ舞わぬ、不可思議なほどに鋭い風。朱里が身を固くした瞬間、闇を裂いて現れたのは、淡い朽葉色の狩衣を優雅に纏った若者だった。
「……夜風に当たっては、身体に毒ですよ。白露様」
その声は、翡翠の冷徹な重厚さとは対照的に、春の陽だまりのような温かさと、秋の暮れ方のような寂寥を同時に孕んでいた。
朱里は息を呑んだ。
「暁……様?」
脳裏を過る記憶の断片。白露の幼馴染であり、この禁裏を護る若き陰陽師。
白露が唯一、その心の拠り所としていた存在。
暁は音もなく縁側に歩み寄ると、朱里の前に跪いた。
月光を浴びたその貌は、彫刻のように整い、どこか憂いを帯びている。
彼の指先が、朱里の着物の裾にそっと触れた。その仕草はあまりに恭しく、過剰なほどに献身的だった。
「池に身を投げられたと聞いた時、私の魂もまた、黄泉の国へ引き摺り込まれる心地がいたしました。なぜ、あのようなことを……。帝への想いが、それほど貴女を苦しめていたのですか?」
暁の瞳が、切なげに朱里を見上げる。
「……ごめんなさい。でも、もう大丈夫よ。私は、死ぬつもりなんてないわ」
朱里は、記憶にある「白露」の口調を真似て、穏やかに微笑もうとした。
その微笑みが、暁の表情を凍りつかせた。
彼は朱里の手を、逃がさぬよう強く握り締めた。
陰陽師としての修行で鍛えられたその手は、翡翠のような熱はないものの、鉄のような硬質な意志を感じさせた。
「嘘だ」
「え……?」
「貴女は、白露様ではない。……いいえ、身体は白露様のものだ。だが、その内側にいるのは、一体どこの何者なのですか?」
暁の瞳に、鋭い霊力が宿る。彼は朱里の瞳を覗き込み、その魂の「色彩」を視ようとしていた。
朱里は背筋に冷たいものが走るのを感じた。現代の知識で誤魔化せても、本物の霊能者である彼の目は欺けない。
「何を……おっしゃるの。私は、白露よ。少し、考え方が変わっただけ……」
「白露様は、私を見る時、いつも怯えた仔鹿のように目を伏せていらした。私の独占欲も、歪んだ執着も、すべてを受け入れて震えていた……。今の貴女は違う」
暁の指が、朱里の頬を、そして首筋を、愛撫するように這い上がる。
その指先は氷のように冷たく、朱里は思わず身を震わせた。
「今の貴女の瞳は、まるで見たこともない異国の星のように、強く、眩しく輝いている。……白露様をどこへやった? 私の、愛しい、壊れそうだったあの人を、貴女が殺したのか……!」
暁の声が、狂気を帯びて低く響く。
彼は朱里を突き飛ばすようにして押し倒し、その上に覆い被さった。重なり合う絹の衣の擦れる音が、夜のしじまに生々しく響く。
「答えてください。……貴女の中にいるのは、誰なのですか?」
暁の顔が、唇が触れんばかりに近づく。
彼の放つ、沈香と墨の混じったような硬質な香りが朱里を包み込む。
翡翠の「熱」とはまた違う、理性を狂わせる「冷気」の毒だった。
朱里は、彼を突き放そうとしたが、力が及ばないことに戦慄した。
この男もまた、翡翠と同じく「龍」の血を引く一族。常人ならぬ怪力を秘めているのだ。
「私は……!」
朱里が叫ぼうとしたその瞬間、庭の奥から、威圧感を伴った気配が近づいてきた。
「――そこまでにせよ、暁」
闇の中から現れたのは、金糸の刺繍が施された黒の直衣を纏った帝・翡翠であった。
彼は手に持った扇で、暁の喉元を鋭く指した。
「俺の妃に、随分と無礼な振る舞いではないか。いくら幼馴染とはいえ、許される範疇を超えているぞ」
翡翠の瞳は、夜の闇の中でも黄金色に発光しているように見えた。
その背後には、巨大な龍の幻影が揺らめいているかのような錯覚さえ覚える。
暁は、朱里を抱きすくめたまま、帝を睨みつけた。
「兄上……。この御方は、以前の白露様ではありません。中身が入れ替わっているのです。これこそが、不吉な予兆。今すぐ処刑し、魂を浄化すべきです」
「黙れ。それが何者であろうとかまわん。今この身体を支配している魂は俺を驚かせ、俺の龍熱を鎮めた。……この女は、俺のものだ」
翡翠が、暁の手を乱暴に振り払い、朱里を自分の腕の中へと引き寄せた。
強引に抱き寄せられた朱里の背中に、翡翠の猛烈な熱が伝わる。
一方で、目の前には、自分を奪い返そうとする暁の殺気が渦巻いている。
「朱里……と言ったか。貴様の真実は、俺がこの手で暴いてやる。それまで、他の男に指一本触れさせるな」
翡翠が朱里の耳元に囁いた。
月下に並び立つ、熱き龍と冷たい龍。
その狭間で、朱里は翻弄される花弁のように、激しすぎる運命の奔流に身を投じることとなった。




