第2話 冷徹なる帝の視線
銀灰色の朝霧が、花鏡宮の甍を濡らす夜明け。
朱里は、白露としての二度目の朝を迎えていた。
御帳台の内に漂うのは、昨夜焚き染められた名香「落葉」の、どこか寂寥感を誘う残り香。
鏡に映る己の姿は、やはり見紛うことなき絶世の美女であった。
だが、その瞳に宿る光は、もはや自害を試みた時の虚ろなものではない。
「泣いてばかりでは、この過酷な場所では生き残れないわ……」
朱里は、白磁の肌に紅を差し、自らを鼓舞するように唇を噛んだ。
彼女が学んできた古典の知識によれば、後宮とは美しき花々が互いの根を食らい合う伏魔殿。
そしてこの「常世の国」の後宮は、霊力という目に見えぬ力によって、その毒気がさらに研ぎ澄まされている。
不意に、部屋の御簾が乱暴に跳ね上げられた。
「おやおや、死に損なったと聞いて見舞いに来てみれば……随分と艶やかなお顔色ですこと」
入ってきたのは、紫の濃淡が見事な袿を翻した女――この後宮で権勢を誇る、右大臣の娘・紫苑の君であった。
彼女の背後には、冷笑を浮かべた女房たちが控えている。
朱里は静かに立ち上がった。この国の礼法に則り、優雅に、かつ毅然と。
「紫苑の君。朝のご挨拶としては、少々騒がしゅうございますね」
「おや、口の減らぬこと。……まあいいわ。白露、そなたに大任を与えましょうぞ」
紫苑が顎で合図をすると、女房の一人が、煤けた銀の香炉を差し出した。
「それは、明日の御祓の儀で帝が直々にお使いになる『双龍香炉』。だが、見ての通り長年の煤と汚れで無惨な姿。これを日の入りまでに、龍の鱗の一枚一枚を鏡のように磨き上げなさい」
朱里は香炉を凝視した。それは単なる煤ではない。霊力が暴走して焦げ付いたような、禍々しいまでの黒ずみに覆われている。
「もし果たせなければ、帝の『双龍香炉』を汚した罪で、今度こそこの宮を追い出されると思いなさい」
高笑いと共に去っていく紫苑。
後に残されたのは、汚れた香炉と、震える女房の琥珀だけだった。
「姫様、無理です……。これは並の方法では落ちません。以前、高名な磨き職人でも匙を投げたとか……」
琥珀の嘆きを、朱里は冷静に聞き流した。
彼女の頭脳は、現代で培った知識を高速で検索していた。
(煤と、霊力の焦げ付き……。酸と研磨、還元反応。この時代の『灰』と、アロマに使っていた『あれ』があれば……)
「琥珀、泣いている暇はないわ。厨から、梅の実の塩漬けと、細かく砕いた木炭、それから重曹の代わりになる『灰』を持ってきて。急いで!」
「え……? は、はいっ!」
朱里は袖を襷で結び、優雅な姫君とは思えぬ手際で作業を始めた。
梅の酸が煤を浮かせ、炭の粒子が微細な彫り込みの奥まで入り込む。
さらに、現代の化学知識を応用し、灰汁のアルカリ性を利用して頑固な脂汚れを分解していく。
周囲の女房たちが「気でも狂ったか」と遠巻きに見守る中、朱里の指先は休むことなく動き続けた。
爪の間に煤が入り、額に汗が滲む。その瞳はかつてないほどに、凛烈な輝きを放っていた。
そして、太陽が西の山並みに沈もうとしたその時。
「できたわ……」
朱里の手の中にあったのは、もはや煤けた鉄塊ではなかった。
夕映えの光を浴びて、銀色の龍が今にも飛び立たんばかりに、白銀の輝きを取り戻していた。
鱗の一枚一枚が、まるで生きているかのように怪しく、凄艶な光を放っている。
「……見事なものだ」
不意に、背後から氷柱を砕くような、澄んだ声が響いた。 朱里が驚いて振り返ると、そこには昨夜の、あの男が立っていた。
帝・翡翠。
今日は、火のように赤い紅緋の直衣を纏っている。その姿は、夕闇の中で燃え盛る劫火のようで、見る者の呼吸を奪う。
「帝……!」
女房たちが一斉に平伏する中、朱里だけが香炉を捧げ持ったまま、その漆黒の双眸を見つめた。
翡翠は静かな足取りで歩み寄り、朱里の指先――煤で汚れ、赤く擦れたその手を、躊躇うことなく取った。
「貴様という女は、底が知れぬな。池に身を投げた分際で、今度は灰に塗れて龍を蘇らせるとは」
「……生きていくためには、知恵が必要でございます」
「知恵、か。この国で、俺にそんな言葉を吐いた妃は貴様が初めてだ」
翡翠の顔が、朱里の耳元まで近づく。
彼の体温は、やはり異常なまでに高い。肌を焼くような熱気と共に、沈香と血の混じったような、甘く危険な香りが鼻腔を突く。
「その瞳……。以前の白露は、俺を見るたびに震える小鳥のようだった。今の貴様は、まるで獲物を狙う鷹のように鋭い」
翡翠の長い指が、朱里の頬を滑り、唇の端を愛おしげになぞる。
仕草は優雅でありながら、逆らうことを許さぬ絶対者の威圧感に満ちていた。
「面白い。貴様のその知恵と瞳、もう少し俺の側で愛でてやろう。……明日、御祓の儀には俺の隣に控えよ」
「えっ、それは……紫苑の君の立場は……」
「黙れ。この国で、俺の望み以上に優先されることはない」
翡翠は朱里を強く引き寄せ、ひしと抱きしめた。 彼の胸板から伝わる、激しい龍の鼓動。
朱里は、自分が抜き差しならぬ運命の渦に、完全に飲み込まれたことを悟った。
その様子を、影から見つめる者がいた。
庭園の垂れ桜の陰、陰陽師の狩衣を纏った青年・暁である。
彼は、愛用する扇を指が白くなるほどに握り締め、朱里を、呪わしいほどの情念を湛えた瞳で見つめていた。
「白露様……。貴女を、あんな冷酷な龍に渡しはしない」
夜の帳が降りる中、二人の龍の想いが、朱里という一輪の花を巡って、静かに、そして激しく交錯し始めた。




