第10話 月華の契り
満開の桜が、花鏡宮を薄紅色の溜息で包み込んでいた。
常世の国はかつてないほど、鮮やかな春爛漫である。
その平和の裏側で、最後の毒牙が密かに磨かれていた。龍の力を分け与え、人としての脆さを得た帝・翡翠を狙い、右大臣の娘・紫苑の君が反乱の火の手を上げたのだ。
「――力なき帝など、もはやこの国の守護者ではないわ! その異界の魔女と共に、灰に帰すがいい!」
紫宸殿の前庭に、紫苑が差し向けた私兵たちが溢れる。彼女の手には、禁忌の魔力を宿した「呪詛の古鏡」が握られ、そこから溢れ出す黒い霧が、瑞々しい桜の木々を無惨に枯らし始めていた。
翡翠は、かつてのような圧倒的な威圧感こそ失っていたが、その背筋は一本の研ぎ澄まされた太刀のように真っ直ぐに伸びていた。
「……紫苑。貴様の瞳に、この春の美しさは映らぬか」
「笑止、ですわ。私は、貴方の隣に立つためにすべてを捧げてきた。それを、あのような素性も知れぬ女に……!」
紫苑が鏡を掲げ、死を呼ぶ光を放とうとした、その瞬間――。
「そこまでよ、紫苑の君」
風を裂いて現れたのは、朱里であった。 彼女の纏う袿は、翡翠の「熱」を象徴する紅緋色と、暁の「冷気」を象徴する銀色が複雑に織り混ざり、歩くたびに真珠のような光彩を放っている。
朱里は、恐れることなく紫苑の前へと歩み出た。
「その鏡に宿っているのは、貴女自身の孤独という名の毒よ。……でも、そんなものでこの国は壊せない」
朱里が、自らの胸元――二人の龍から授かった「命の欠片」が眠る場所に手を置くと、彼女の指先から、清冽な黄金の光が溢れ出した。現代の知恵という「理性」と、異世界の霊力という「神秘」が融合した、この世で最も強靭な言霊の光であった。
『願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ』
西行の歌を、朱里は魂を込めて紡いだ。 死を謳いながらも、その奥底に生への強烈な未練と美学を秘めた調べ。その言霊は、紫苑の鏡が放つ醜い呪詛を、優しく、しかし圧倒的な力で包み込み、浄化していく。
「あ、ああ……鏡が……私の心が、溶けていく……」
紫苑の君は、膝から崩れ落ちた。黒い霧は霧散し、枯れかけた桜が、再び瑞々しい蕾を綻ばせる。
朱里は、泣き崩れる紫苑の肩にそっと手を置いた。
「貴女も、この国の美しさを愛していたはず。……やり直しましょう」
反乱は、一滴の血も流れることなく、一輪の花が散るほどの静けさの中で終結した。
それから数日後。月華が青白く宮を照らす夜。
朱里は、一人庭園の奥にある「約束の池」のほとりに立っていた。
「……もう、行ってしまうのですか、暁様」
背後の闇から、気配が揺れた。 暁は、かつての冷徹な陰陽師の衣を脱ぎ、旅人としての簡素な装束を身に包んでいた。龍の力を失った彼の瞳は、今はただの、恋に破れた一人の青年だった。
「兄上にすべてを捧げた貴女の側で、ただの家臣として仕えるほど、私は物分かりのいい男ではありませんよ」
暁は苦笑し、朱里の髪に、一輪の桜の枝を挿した。
「私は世界を巡り、貴女が言っていた『未来の知恵』が他にもないか探してみるつもりです。……いつか、貴女を驚かせるような土産を持って帰るまで、どうかご健勝で」
暁は朱里の額に、別れの接吻を一度だけ落とした。氷のように冷たく、けれど春の陽だまりのように温かな、魂の友としての誓いだった。
「……さようなら、私の愛した、異界の姫君」
暁の姿が、夜の帳の中に溶けるように消えていく。
朱里は、その背中が見えなくなるまで、何度も深く頭を下げた。
「――いつまでも、あ奴の名残を惜しむな。妬けるではないか」
不意に、背後から力強い腕が朱里を包み込んだ。 翡翠だ。
彼は、帝としての重責から一時解き放たれた、一人の「男」としての顔で朱里を見つめていた。 龍の熱は以前ほど猛々しくはないが、朱里を抱きしめるその腕の強さは、何物にも代えがたい安心感を与えてくれる。
「翡翠様……。私、本当にこの世界で生きていけるでしょうか」
「案ずるな。貴様の知恵が道を照らし、俺の意地が貴様を守る。……それに」
翡翠は朱里の顎を掬い上げ、その真珠色の瞳に、情熱的な独占欲を湛えた視線をぶつけた。
「貴様の魂は、すでに俺の血と溶け合っているのだ。千年の時を超えて、ようやく巡り会った。……二度と、あちらの世界へ帰る隙など与えぬ」
翡翠の唇が、朱里の言葉を塞ぐように重なった。
昨日までの苦難を忘れさせ、明日への希望を刻み込む、永遠の契りであった。
池の面には、銀色の月と、二人の重なり合う影が揺れている。
異世界から来た孤独な少女は、二人の龍の愛を受け、この常世の国で、誰よりも輝かしい「白露后」としての伝説を紡ぎ始めるのだった。
花鏡宮に、再び柔らかな風が吹く。
それは、終わることのない、幸福な春の訪れを告げていた。




