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月華の契り ー異世界の姫は二人の龍に愛されるー  作者: kiyoaki


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第1話 水底の呼び声

 その指先が、冷ややかな玻璃ガラスの向こう側にある「それ」に触れた瞬間、運命の歯車は音もなく、しかし決定的に狂い始めた。


 博物館の薄暗い展示室。

 朱里あかりの視線を釘付けにしたのは、千年の歳月を眠り続けてきたという一枚の古鏡だった。

 青銅の面には、今にも天へ昇らんとする龍の姿が、流麗かつ禍々しいまでの精緻さで彫り込まれている。

「……きれい」

  吐息が鏡を曇らせる。

 古典文学を専攻する彼女にとって、その鏡は単なる工芸品ではなかった。

 失われた時代の溜息や、秘められた恋の残り香を封じ込めた、魔性の器に見えたのだ。


 不意に、鏡の奥から銀色の光が溢れ出した。

「え……?」

 驚きに目を見開いたときには、すでに遅い。

 視界は白濁し、重力は消失した。耳元で、誰かのすすり泣くような声と、激しい水の爆ぜる音が重なり合う。

 朱里の意識は、底知れぬ深淵へと引き摺り込まれていった。


 ――それが、すべての始まりだった。


 肺を焼くような苦しさと、鼻腔を突く甘やかなこうの匂いで、朱里は意識を取り戻した。

「……姫君! 白露しらつゆ様、お気を確かに!」

  女の叫び声が聞こえる。

 朱里が重い瞼を持ち上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。


 天井を彩る極彩色の雲龍図。

 幾重にも垂らされた、透き通るような薄衣うすぎぬとばり

 そして、自分を取り囲むようにして平伏している、うちき姿の女房たち。


(ここは……どこ? 私は、博物館にいたはずじゃ……)


 身体を動かそうとして、朱里はその重さに息を呑んだ。

 身に纏っているのは、現代の衣服ではない。

 桜色、萌黄色、紅梅色――幾重にも重ねられた正絹の、目も眩むような色彩の乱舞。

 それが、濡れそぼって肌にまとわりついている。


「ああ、神仏に感謝いたします。池に身を投げられたと聞いた時は、この琥珀、生きた心地がいたしませんでした!」

 泣きじゃくりながら朱里の肩を抱くのは、琥珀と名乗った少女だ。

 池に身を投げた? 私が? 

 朱里は震える手で、近くにあった銀のたらいに映る自分の顔を覗き込んだ。


「……っ!」

 絶句した。 そこにいたのは、朱里であって、朱里ではない女だった。

 透き通るような白磁の肌は、死の淵を彷徨ったせいか病的なまでに青白く、かえってその美しさを凄絶なものにしている。

 濡れて乱れた漆黒の髪は、まるで闇を紡いだ糸のように長く、絹の寝台に広がっていた。

  その瞳は、憂いに沈んだ深い漆黒。


(これが、私……? いえ、この身体の持ち主、「白露」なの?)


 記憶の断片が、濁流のように流れ込んでくる。

 この世界は「常世の国」。

 彼女はこの後宮、花鏡宮かきょうきゅうの片隅に追いやられた、名ばかりの妃。

 帝の寵愛を受けぬまま、他の妃たちの嘲笑に耐えかね、月の夜に庭園の池へと身を投げた薄幸の姫――。


「なんて、悲しい人……」

 朱里の唇から、無意識に溜息が漏れた。

 その声さえも、以前の自分とは違う、鈴の音のように可憐な響きを帯びている。


 その時である。

「――騒がしいな。何事だ」

 低く、冷ややかな、しかし聴く者の鼓膜を甘く震わせる声が、御帳台みちょうだいの外から響いた。

 その場の空気が、一瞬にして凍りつく。

 平伏していた女房たちが、一斉に震え上がった。


「み、(みかど)……!」

 御簾が静かに跳ね上げられる。

 現れたのは、光そのものを纏ったかのような男だった。

  黄櫨染(こうろぜん)の狩衣を優雅に翻し、悠然と歩み寄ってくる姿は、人の世のものとは思えぬほどに美しい。

 切れ長の双眸は涼やかな光を湛え、奥には、常人ならぬ龍の血の激しさが秘められている。

 この世界の支配者であり、孤独なる龍。帝・翡翠ひすいである。


 翡翠の視線が、寝台に横たわる朱里を射抜いた。

 以前の「白露」であれば、視線に怯え、目を伏せていただろう。

 だが、中身が現代を生きる朱里である彼女は、知らず知らずのうちに瞳を真っ直ぐに見返していた。


「……ほう」

 翡翠の眉が、わずかに動く。

 彼は、死を目前にしたはずの姫の瞳に、見たこともないような強い知性と、異界の灯火のような輝きを見出した。


「自ら命を絶つほどの臆病風に吹かれたかと思えば……その眼差し、まるで別人のようではないか」

 翡翠が、朱里の顎を細い指先で掬い上げた。

 指先からは、驚くほどの熱が伝わってくる。呪われた「龍熱」を帯びた、熱い熱い鼓動。

 朱里の胸が、激しく高鳴った。恐怖ではない。

 それは、魂が何百年もの時を超えて、ようやく巡り会った「運命」を察知したかのような、熱烈な共鳴だった。


「お答えください、帝。……死に損なった私に、何か御用でしょうか?」

 凛とした朱里の声に、後宮の空気が微かに揺れた。

 翡翠の唇が、征服欲を孕んだ艶やかな弧を描く。

「面白い。貴様が死を忘れたというのなら、この俺が、生の地獄を教えてやろう」


 耽美な毒を含んだその言葉こそが、朱里を待ち受ける愛憎の渦への、残酷で甘美な招待状であった。

 窓の外では、不吉なまでに美しい銀の月が、静かに花鏡宮を照らし始めていた。

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