プロローグ(2)
名誉会長の後継者となる約束を口にしてから3年が過ぎた。
しかし、私の役職は理事のままであり、表立って取り立てられることはなかった。あのときの会長の言葉は、単なる気まぐれだったのではないかとも考えることが何度もあったが、自分には確かな手ごたえがあった。
理事の役職でありながら、定期的に沼田会長と直接会話する機会が設けられたのである。一度であれば、他の理事でも沼田会長と会話する機会を持つ人間は何人もいるが、定期的に何度も会話する機会を持つ人間は理事長クラスでなければ、まずいない。
そして、この定期的な会話は沼田会長が病に倒れ、公式行事に姿を表さなくなってからも続いた。いつも会話をするために私は、信農町の第二別館、通称「白運寮」を訪れた。白運寮は、源田現会長などの大幹部でもめったに立ち入ることができない「聖域」であり、そこに何度も訪れることができた私は異例中の異例であった。
会話の内容は基本的に、私の健康を気遣うやり取りから始まり、現会長の未熟な点の指摘があり、最後に過去の自分の行ってきた苦労について語る事が大半であった。今後の学会の体制をどのようにしていくかなどの政治的な内容を話すことはめったに無かった。
しかし、重要な点はそこでは無いことを私は理解していた。もっとも重要であるのは、
大幹部でもめったに立ち入ることができない「聖域」で沼田会長と一対一で定期的に会話しているという事実
であり、会話の内容ではない。ただこの事実によって私は一目置かれるのである。そして、他の人間は私と沼田会長が聖域で何を話しているのかを知らない。そのため、私が発する言葉が、私自身の考えなのか、それとも沼田会長の言葉を伝聞しているのかを区別することができなかった。よって、理事という中間的な立場でありながら、私の言葉はそれを遥かに上回る影響力を生み出すことを可能にしたのである。
そのような関係が十数年続いた。
私は副理事長に昇格するとともに、創値学会を陰で操る「フィクサー」となっていた。私の発言はもはや沼田会長の発言に等しく、例え役職として上の立場の相手でも、無下にすることはできなかった。今思えば、私は権力に溺れていた。会議の必要のないところで口を出し、それによって相手が慌てふためき怯える様子を見ることで、自身の力に酔いしれていた。私に恨みを持つ人間は何人もいたに違いない。
そして、ついにその時が来てしまった。
創値学会第三代名誉会長 沼田太作先生が永眠された。それはいつか来る事態であったが、私にとって青天の霹靂であった。すぐに現会長を含む幹部が「白運寮」に集まった。幹部それぞれがお悔やみの言葉を述べる中で、山木主任副会長が切り出した。
「先生は最期に何か仰っていましたか?」
沼田会長を看取ったマル女の一人が答えた。
「先生は水が欲しいと仰っていました。なのでお水を差し上げました。」
「他に何か仰っていませんでしたか?」
「いいえ、それだけです。」
「分かりました。ありがとうございます。」
その時、そこにいた幹部たち全員の口角が上がっていることに私は気づいた。
私は重大に失態を犯したのだ。私が後継となるという言質を取らずに先生が亡くなってしまった。つまり、もはや私には何の後ろ盾も無く、裸のまま放り出されたようなものであった。しかし、そんな失態とは裏腹に沼田先生が亡くなった後の葬儀は、何の問題もなく執り行われた。
その後についても特に私自身の役職の降格などは無く、生活も今までと特に変化はなかった。そのため葬儀の時のやり取りも杞憂であったと私の中で結論付けた。
沼田先生が亡くなられてから半年が経過したとき、事態は急変した。
「沼田会長の懐に忍び込んでいた僭聖増上慢、山田伸二に仏罰を」
という見出しの記事が聖経新聞の一面を飾ったのだ。
記事の内容としては、山田伸二は自身が純真潔白である様に装って沼田会長に近づき、その実は会長の名誉を我が身のために利用しようとする醜い存在である。そして山田伸二に寄生されたために沼田会長は力を失い、失意の中亡くなった。法華経を外れた山田伸二には必ず仏罰が下るだろう。という内容になる。
この記事を目にして私の頭は真っ白になった。
とにかく、何とかしなければいけない。新聞の内容が誤解であることを示さなければいけないが、誤解であることを証明するには沼田会長に記事の内容が間違っていることを証言してもらわなければいけない。しかし、もう既に沼田会長は亡くなっていてこの世にはいない。それでも何とかしなければいけない。
私は自分を広宣部へ誘った創値班の先輩に連絡を取ることにした。とにかく助けが必要だった。連絡を取ったところ、幸い会ってくれることになったため、一週間後に新宿の喫茶店で集合することになった。
先輩と会うまでの一週間の間にも、連日聖経新聞での私への攻撃は続いた。副理事長の役職を不当に就任し、贅沢三昧をしているとか、沼田会長と会えることで他の学会員に対して威張り散らしていたという内容の記事が毎日届いた。この記事を全国の数百万の学会員が読んでいると考えると恐ろしくなった。結局、この一週間はほとんど外に出ることができなかった。
そして一週間後、創値班の先輩と会うために新宿の喫茶店に向かった。しかし、新宿の喫茶店に着いたとき、私はとても嫌な予感がした。なぜなら、喫茶店で私を待っていたのは創値班の先輩だけではなかったからである。一瞬、そのまま立ち去ろうとしたが、中で待っている先輩が私のことを見つけて声をかけてきた。
「山田君、わざわざ連絡してくれてありがとう。こっちに座ってるから来て。」
4人掛けのテーブルで先輩と見知らぬ男と向かい合うように私は座った。
「こちら、男子部長の染島さん。山田君の事が心配で来てくれたみたでさ。」
「染島です。よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしくお願いします。」
「山田君、今新聞で大変な事になってるけど、大丈夫?」
「まぁ、何とか大丈夫です。」
「そのことについて、染島さんが山田君のことを本当に心配しているみたいで、」
「山田さん。私は今あなたを本当に心配しています。確かに、新聞では山田さんについてちょっと過激に書いていて、言いたいこととかもあるとは思うのですが、今はどうか堪えてください。学会に対して誠意をもって対応すれば、そのうち収まりますから。」
「そうですか。」
「山田さん。最近、ちゃんと財務はされていますか?学会に誠意を見せるのでしたら財務が一番です。」
要するに金の要求であった。
聖経新聞の記事で相手を孤立させ、次に金を要求することによって、さらに反抗する力を失わせる。皮肉なことに、かつて私が昇進することになった元議員に対して行った工作と全く同じ手法によって、今私は苦しめられているのである。
その後、寄付を行うという口約束をして二人と別れた。もちろん寄付を行うつもりはない。仮に寄付を行ったとしても、学会は私への攻撃をやめるつもりはないだろう。かつての元議員のように死ぬまで精神的なサンドバッグにされるだけである。もはや、創値学会は私の「敵」である。組織人数が数百万にも上る敵である。普通の人間では到底太刀打ちできないであろう。しかし、私は違う。私は元議員とは違うのである。私には創値学会を破滅に導く切り札があるのである。
その切り札とは何か?それは私がかつて創値学会の広宣部で仏敵に対して行ってきた行為を世の中に公表することである。もし、それらの犯罪行為が公表されれば、私の身は滅ぶが、創値学会もただでは済まない。もはやここまで来たなら、死なばもろともである。
私は、私がかつて創価学会の広宣部に所属していたこと、その広宣部で様々な手法で人々を死に追いやったこと等を書いた書類をテレビ局6社、週刊誌10社に送付した。これで私の身は滅びるであろうが、創値学会も道連れにできる。そう考えると不思議と安堵の感情が芽生えてきた。
しかし、1週間待ってみてもテレビ局・週刊誌各社から返答はなかった。半月後に週刊誌1社から返答があったが、以下のようなものであった。
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拝啓 山田様
この度は弊社に情報を提供いただきましてありがとうございました。
いただいた情報につきまして検討いたしました結果、
誠に残念ではございますが、本誌への掲載を見送らせていただく結果となりました。
また、いただいた情報を拝見し、ご本人もお気づきかもしれませんが、少しお疲れがたまっているのではないかと感じております。
つきましては、念のため、専門の医療機関(精神科・心療内科など)で一度ご相談されてみてはいかがでしょうか。恐縮ですが、山田様の症状に適している医療機関をご紹介させていただきます。
どうぞご無理をなさらず、お身体を第一にお過ごしください。
今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
敬具
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つまりは相手にされていないのである。
それだけであったならば良かったが、恐ろしいことが判明した。この手紙には推薦している精神科が添付されていたのだが、その全てが学会系の医療機関であったのだ。もし仮に推薦された医療機関に行って事実を語ったとしても、学会にとってこの情報は不都合であるため、統合失調症の妄言として処理されるだろう。
第一に、なぜこの週刊誌は学会系の精神科だけを推薦したのか?理由は明白である。この週刊誌と創値学会が裏でつながっているのだ。この週刊誌は送られた情報が事実であると分かっていながら、学会に不利益が生じないようにこの情報を握りつぶした。そして、返答がなかったテレビ局や週刊誌についても同様なのだろう。
つまり、私の万策は尽きたのである。
では、私はかつての元議員のように学会員達のサンドバッグになり続けるのか?いや、それがどれほど無意味で、苦痛に満ちたものであるかを私は知っている。
私は本来、老後数十年を過ごすために貯めていた財産を湯水のように使い、1週間過ごした。
その結果、手元に残ったのはわずか十数万円であった。私はその残った金でフェンタニルを10mg購入した。致死量の5倍相当である。どうせ死ぬのであれば、苦しんでではなく、気持ちよく死にたい。
私は椅子に座るとフェンタニル10mgを手に取りだした。手が震えている。しかし、今回のチャンスを逃すともう後はない。私は震える手を掴み、フェンタニルを口に放り込んだ。
しばらくすると、光景から色が消え、白と黒の線画調になっていくのが分かった。そして心地よさとともに、急激な脱力を感じた。その脱力とともに意識が遠のいていく。
こうして私は死んだのである。




