アンカリング
3カ月後、グリニフェス卿への集団ストーカー作戦が開始された。
まず初めに、手始めとしてアンカリングが実行された。
アンカリングとは、元々心理学の用語であり、最初に提示された情報が基準になって、その後の意思決定が影響される効果を示している。アンカリングの語源は錨であり、最初に得られた先入観が”錨”になり、根を下ろすことによって、その後の判断に大きな影響を及ぼすことを意味している。
集団ストーカーでは、ターゲットの周囲に工作員が終始付きまとい、特定の行為を異常な頻度で見せつけ記憶に刷り込ませる行動をアンカリングと呼んでいる。
集団ストーカーにおけるアンカリングでは、ターゲット本人に特定の行為における“法則”を自発的に認識・学習してもらう必要がある。重要なのは、こちらから言葉によって仄めかすのではなく、ターゲット自らが”法則”に気が付くことが大切である。その方がこちら側の発覚するリスクが小さく、今後与える”打撃”の質も向上する。
今回行われるアンカリングは、ターゲットのグリニフェス卿が居住している集合住宅前に、松明を灯した馬車を3台ほど停車させ、ターゲットが馬車を通過すると同時に、3台の馬車を一斉に発車させるというものであった。
集団ストーカー初日、帰宅したグリニフェス卿が、集合住宅前に松明の灯った馬車が3台停まっていることを視認する。グリニフェス卿が馬車を通過すると、3台の馬車が一斉に発車する。グリニフェス卿に特に反応はない。初日の作戦はこれで終了。
集団ストーカー二日目、帰宅したグリニフェス卿が、集合住宅前に松明の灯った馬車が3台停まっていることを視認する。グリニフェス卿が馬車を通過すると、3台の馬車が一斉に発車する。グリニフェス卿に特に反応はない。二日目の作戦はこれで終了。
その後、反応があるまで毎日同様の行動を繰り返した。
集団ストーカー十三日目、帰宅したグリニフェス卿が、集合住宅前に松明の灯った馬車が3台停まっていることを視認する。視認したグリニフェス卿は近くにいた衛兵に馬車の持ち主を確認するように指示した。衛兵が近づいてきたため、3台の馬車を移動させる。この行動より、ターゲットは松明を灯した馬車に対して認識を持ったと推察される。したがって、今回の作戦をもってアンカリング第一段階の作戦を完了とする。
集団ストーカー十四日目、松明を灯した馬車を1台、グリニフェス卿の集合住宅から20m離れた通りに停車させる。帰宅したグリニフェス卿は松明を灯した馬車を凝視している。ターゲットが松明を灯した馬車に意識を集中させていることが容易に推察される。グリニフェス卿が集合住宅に入ると同時に馬車を発車させる。
今後、同様の動作を帰宅時に毎日繰り返す。
集団ストーカー十八日目、ターゲットは停車している馬車を何度も確認し、馬車に対して不信感を抱くようになっていることが確認された。馬車に乗っている人間が自分を監視しているという疑念を植え付けることに成功したと予想される。
ここで新しいアンカリングが実行される。
集団ストーカー実行部隊にターゲットとすれ違う際に特定の行動をさせるというものである。今回はターゲットに分かりやすいように、スタンダードな咳払いが採用された。
一日10回を実行部隊にノルマとして課すことで実行に移した。
集団ストーカー二十日目、ターゲットは停車している馬車に対して注意を払っているが、咳払いのアンカリングにはまだ気が付いていない様子であった。しかし、徐々にではあるが、集団ストーカーがターゲットの精神を蝕んでいることが、外からも確認できた。
集団ストーカー二十五日目、ターゲットが初めて咳払いのアンカリングを認識した。
すれ違い様に咳払いした下級魔物の方を振り返ったのである。
情報部隊は反応を確認すると、ターゲットの死角に待機している実行部隊に大きな笑い声を上げるように命令した。
グリニフェス卿が咳払いに気付いて振り返った3秒後、
「ギャハハハハハハハハハハハ」
死角から大きな笑い声が一帯に響いた。
それは、魔都にいる一般魔物にとっては、日常において、たまに発生する多少のノイズ程度の認識であった。しかし、グリニフェス卿にとっては、その笑い声に明確な”メッセージ”を受け取っていた。
(私は知らない奴に確実に笑われた。)
(しかし、私の何が面白かったのだろう?)
(私が振り返った後に、彼らは笑っていた。なぜ、私は振り返ったのだ?)
(それは咳払いだ。最近、通り過ぎ様に咳払いをする奴が多い。)
(つまり、咳払いをする奴に気が付いたから笑っていたのか?)
(ということは、咳払いをしていた奴らもグルということか?)
グリニフェス卿は今まで受けたことがない方法の攻撃に戸惑い、不快感を感じるとともに、その規模の大きさに少しばかり恐怖を感じていた。
しかし、グリニフェス卿は、アンカリングが集団ストーカーのほんの序章に過ぎないことをまだ知らなかった。