不死の英雄様が「君の毒なら死ねる」と懐いてきたので、毎日特製スープを振る舞うことにしました
自分の腕が、うっすらと透けている。
向こう側のテーブルの木目が、指の輪郭をぼんやりと滲ませていた。
この呪いを管理するため、私は誰かから生命力を分けてもらわなければならない。
「…スープを、作らないと」
私は重い腰を上げ、厨房へと向かった。
*
宿屋の扉についた鐘が、からん、と乾いた音を立てた。
生命力に満ちた、恰幅の良い商人の一家だった。子供たちは頬を真っ赤に輝かせ、まるで熟れた果実のようだ。
「いらっしゃいませ」
「ああ、旅の途中でね。温かいものでも食べさせてくれないか」
「簡単なスープしかお出しできませんが」
「それで十分だよ!」
安堵と、罪悪感。相反する感情が胸の中で渦を巻く。
私は厨房に戻り、鍋に火をかけた。野菜を切り、水を入れる。味付けは塩と、ほんの少しの香草だけ。
(心を込めすぎてはいけない)
呪いは、私の料理に込めた「心」に比例して、食べた相手の生命力を吸い上げる。
心を込めれば込めるほど、相手の命を多く奪ってしまうのだ。
だから、私はいつもギリギリを狙う。私が死なない程度に、相手が気づかない程度に。
まるで綱渡りをする道化のように、私は毎日、他人の命の上を歩いていた。
出来上がったスープを運ぶ。一家は湯気の立つそれを、おいしそうにすすった。
「うん、なんだか元気が出る味だね!」
主人の言葉に、私の胸がちくりと痛んだ。
「ありがとうございます」
私は無感情にそう答え、カウンターの内側に戻る。
透けていた自分の手を見る。指の輪郭が、さっきより少しだけ、はっきりと見えるようになっていた。
私は、また生き延びた。
*
その男が現れたのは、嵐の夜だった。
扉が軋みながら開き、ずぶ濡れの男が入ってきた。フードを目深にかぶっている。
ゆっくりと顔を上げたその男、カイは、驚くほど整っていたが、生気が一切感じられなかった。
そして、何より奇妙なのは、私には彼の生命力が見えないことだった。彼の周りだけ、時間が止まったように色がなかった。
「一番安い部屋と、一番安い酒を」
彼の声は、ひどく掠れていた。
その夜、私は厨房で残った野菜屑で自分のためにスープを作った。ふと、あの男のことが頭をよぎり、椀によそって彼の部屋の前に置いた。
「残飯ですが、よろしければ」
扉越しに声をかけたが、返事はなかった。
翌朝、階段を降りてきたカイは私の前に立つと、昨日にはなかった光を瞳に宿していた。
「昨夜のスープを飲んだ。何を入れた?」
彼の声には、切実な響きがあった。
「ここ数十年、感じたことのない『眠気』を感じた。苦痛が一瞬和らいだんだ」
彼は不死だった。そして私の呪いは、不死の彼から「死なない」という特性…つまり「生命の強制力」を僅かに奪い、彼に人間らしい感覚を一時的に取り戻させたのだ。
「俺は死にたいんだ」
カイは、静かに、しかしはっきりと言った。
「頼む、もう一度あのスープを作ってくれ。望むならこの財宝もすべてやる」
彼は革袋をテーブルに投げ出した。ずしり、と重い音がして、金貨が数枚こぼれ落ちる。
私は震えながら、後ずさった。
「…わたくしの料理は、あなたの命を、奪うかもしれません」
それを聞いたカイは、硬く閉ざされていた唇をゆっくりと綻ばせた。
「それこそが、俺がずっと探し求めていたものだ」
*
「財宝はいりません。わたくしは、もう普通の旅人から命を奪いたくない。貴方さえよければ…わたくしは貴方のためだけに料理を作りましょう」
罪悪感なく生きるための、糧。苦痛から解放され、死に至るための、食事。
私たちの奇妙で切実な「共犯契約」が始まった。
しかし、穏やかな日々は長くは続かなかった。
ある晴れた日の午後、宿屋の前に一団の騎士たちが現れた。先頭に立つ若き副団長、レオは、燃えるような正義感をその青い瞳に宿していた。
「カイ様!お迎えに上がりました!貴方様は我々の光なのです!」
カイは迷惑そうに顔をしかめた。
「レオか…。俺は戻らん。俺のことは放っておけ」
「何を仰いますか!貴方様を堕落させる魔女でもいるのですか!」
レオの非難に満ちた視線が、私を射抜いた。
レオはカイを「英雄」として王都に連れ戻し、再び国の守護者として立たせることを望んでいた。カイの「死にたい」という願いを、彼は「一時的な弱さ」と断じた。
「カイ様は、死など望んでおられない!この女が、貴方様を惑わしているに違いない!」
レオの純粋すぎる正義が、私たちの契約の「罪」の部分を容赦なく抉り出す。
その夜、レオが半ば無理やり置いていったカイの古い荷物の中に、一冊の日記があった。
カイは「くだらんものだ」と捨てようとしたが、私はそれを引き留めた。
二人でページをめくっていると、インクが滲んだ最後のページに、震える文字でこう書かれていた。
『魔王は最後に笑って言った。「対なる呪いがお前を待つ」と…』
「対なる、呪い…?」
カイの目が、私を捉える。
命を奪う料理を作る女と、死ねない男。私たちの出会いは、本当に偶然だったのだろうか。
*
三日後、レオは騎士を率いて再び現れた。今度は交渉ではない。宿屋は完全に包囲されていた。
「カイ様、ご決断を。おとなしくお戻りになるか、力づくでお連れするか」
「どちらも断る」
カイの静かな拒絶に、レオは剣の柄に手をかけた。
「ならば、やむを得ません!」
騎士たちが宿屋になだれ込もうとした、その時。
私が、鍋を手に彼らの前に立ちはだかった。湯気の立つ鍋の中には、濃厚な香りを放つシチューが入っている。
「お待ちになって」
私の声に、騎士たちが足を止める。
「これは、わたくしが『本気で』心を込めて作ったお料理ですの」
私はにこりと微笑んだ。それは聖女のようにも、魔女のようにも見えただろう。
「このシチューを一口でも食べれば、貴方たちは一年分の生命力を失い、老人のように立ち枯れることになりますわ…それでも、通りますか?」
レオが息を呑む。彼の知らない、超常の力がそこにはあった。
「やめろ、エララ!」
カイが私を制し、私の前に立った。彼は錆びついたままだった長剣を抜き放つ。
「彼女にそんな罪を犯させるわけにはいかない。それに…俺の死に場所は、俺が決める」
カイとレオ。二人の英雄が、宿屋の前で対峙した。
*
カイは不死だったが、無敵ではなかった。レオの剣が彼の肩を深く切り裂く。血が噴き出し、カイは苦痛に顔を歪める。傷はすぐに再生を始めるが、その瞬間の痛みは消えない。
「なぜです、カイ様!なぜ死にこだわるのです!」
「お前にはわかるまい…永劫を生きる苦みが」
戦いの末、カイは深手を負い、膝をついた。しかし、その瞳の光は少しも衰えていなかった。
レオは、剣を構えたまま動けなくなった。目の前の男の覚悟が、彼の正義を揺るがしていた。
「…わかりました」
レオはゆっくりと剣を収めた。
「今日は、お引きします。ですが、必ず、貴方様の呪いを解く方法を見つけてみせます…生きて、その呪いを!」
彼はそう言い残し、騎士団と共に去っていった。
嵐が過ぎ去り、静寂が戻る。
私は傷ついたカイに駆け寄った。彼の身体からは、まだ血が流れている。
「カイさん…!」
彼は血を吐きながらも、顔を上げ、穏やかに笑った。
それは、私が今まで見た中で、最も人間らしい彼の笑顔だった。
「…腹が、減ったな」
私は涙をこらえ、力強く頷いた。
「ええ、今、とびきりの一皿をお作りしますわ」
*
厨房に立ち、深呼吸をする。
今日作る料理は、いつもとは違う。
戸棚の奥から、とっておきの食材を取り出す。干し肉、乾燥豆、香り高いハーブ。旅人には決して出さない、私が自分のために少しずつ蓄えていたものだ。
私は、自分の持てる力のすべてを、この一皿に注ぐ。
生まれて初めて、誰かのために、心を込めて料理を作る。
それは、彼の魂を安らかに終わらせるための、優しい毒薬でもあった。
コトコトと、シチューが煮える音だけが響く。
出来上がったシチューを、深皿によそう。湯気と共に、豊かな香りが立ち上った。
ホールへ運ぶと、カイはいつもの席で静かに待っていた。
私は彼の前に、そっとシチューの皿を置いた。
「…準備は、よろしいですか」
カイは、皿の中のシチューをじっと見つめていた。それから顔を上げ、私を見て、静かに頷いた。
「ああ。人生で最高の食事になりそうだ」
彼はゆっくりとスプーンを手に取った。
その銀のスプーンがシチューに沈む瞬間、私の心臓が大きく鳴った。
*
カイは、スプーンでシチューをすくい、静かに口へと運んだ。
一口、それを飲み込んだ瞬間、彼は驚いたように、大きく目を見開いた。
何十年も表情を変えることのなかった彼の顔に、動揺が走る。
そして、ゆっくりと、彼の顔から力が抜けていった。
険しさが消え、苦痛の影が薄れ、まるで長い旅を終えた旅人のような、穏やかな表情に変わっていく。
彼は、忘れていた何かを思い出すように、一言だけ呟いた。
「……温かい」
その言葉を聞いた瞬間、私の目から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
カイの身体が、ゆっくりと光の粒子となって崩れ始める。彼の魂が、ようやく永劫の苦しみから解放されようとしていた。
「ありがとう、エララ…」
彼の声が、風に溶けて消えていく。
これで、すべてが終わった。
私はカイを看取り、そして私の呪われた役目も終わったのだ。
涙を拭い、立ち上がったその時だった。
カイの身体が消えた床の上に、黒い鍵が一つ、残されていた。
それは、カイが持っていた日記の表紙に描かれていた紋様と、全く同じ形をしていた。
私がその鍵に触れた瞬間、脳内に直接、声が響いた。
『対なる呪いの片割れよ。鍵は手に入れたな』
それは、カイを呪った魔王の声だった。
『我が主を復活させるため、残る六つの「不死者の魂」を集めよ。さもなくば、お前の呪いは反転し、今度は触れた者すべての命を無差別に吸い尽くすだろう』
手の中の鍵が、禍々しい熱を帯びる。
私の腕が、再び透け始めていた。さっきよりも、ずっと早く。
窓の外で、カラスが一斉に飛び立った。まるで、新たな狩りの始まりを告げるかのように。
私の呪いは終わっていなかった。
カイの死は、終わりではなく、もっと大きな物語の始まりに過ぎなかったのだ。
私は熱い鍵を握りしめ、決意を込めて呟いた。
「…望むところですわ」