プロローグ
推しが尊い。それ以外の感情が、俺にはもう必要ない。
朝起きて最初にするのは、結月ほのかのSNSチェック。
昼休みに見るのも、夜寝る前に聴くのも、彼女の歌、彼女の声、彼女の姿。
「お前、マジでそれで幸せなの?」
大学の同期が言ったそんな言葉は、今でも記憶に残っている。
答えは簡単だ。「幸せ」だ。幸せすぎて死ねる、とはこのことだった──いや、実際、俺は死んだ。
その日も、いつも通りだった。
ブラック企業の中でも特にブラックな部類に入る会社で、終電ギリギリまで働き、帰り道にコンビニで新発売の“結月ほのかコラボドリンク”を2本買って、上機嫌で歩いていた。
深夜の道を鼻歌混じりに進んでいた俺の足は、いつの間にか、交差点の真ん中へ。
「は?」
横から突っ込んでくる光。
ブレーキ音。
飛び散る推しのドリンク。
そして──俺の人生。
気がつくと、真っ白な空間に立っていた。
まるでスクリーンが張り詰めたような、どこまでも続く白。
地面があるのかもわからないほど滑らかな床。
何もかもが静かで、無機質で、なのにどこか“見られている”ような感覚があった。
「……ここが、あの世か」
案外、清潔感があるじゃないか──などとくだらないことを考えていた時だった。
「あなた、ちょっと来てくれる?」
声が降ってきた。
それはまるで、耳元に直接吹き込まれるような甘い、けれど背筋に冷たい風が吹くような、不思議な響きだった。
顔を上げると、そこにいたのは一人の女性。
いや、“女神”という表現がふさわしいだろう。
透き通る銀の髪、宝石のような紫の瞳、そして空気すらも彩るような美しい衣装。
人間ではない。ひと目でそう分かった。
「あなた、相馬ユウトくんよね?」
「あ、はい……そうです」
「うん、間違いないわ。推しに人生のすべてを捧げ、感情も財産も、健康すらも惜しみなく注ぎ込んだ“信仰者”」
「……ん? 推し? 信仰?」
「そう、“推し活”。地球の言葉ではそう呼ばれていたわね。でも、こっちの世界では違うの。“神への献身”と同等、あるいはそれ以上の“愛の形式”として分類されているのよ」
言っている意味が、全然わからなかった。
でも女神は淡々と続ける。
「あなたのような存在は、珍しいの。だから特例として、異世界への転生を許可するわ」
「ちょ、ちょっと待ってください! それってつまり……俺、死んだんですか?」
「うん、完璧にね。コンビニ帰りにね。大往生ではないけど、魂の輝き方は尋常じゃなかったわ。推しのグッズと一緒に弾け飛んでた」
「うわあああああ……!」
俺は頭を抱えた。
死んだ。マジか。推しのドリンクと一緒に?
「でも、ここからが大事。あなたのように“何かを心から信じ、愛し、捧げた者”は、この世界にとって特別な存在になるの」
女神は俺の胸元に手をかざした。
すると──
ドクン、と心臓が鳴った。
「あなたの魂は、完全に“推し”と融合している。これは信仰と同等、あるいは神域そのもの。“神霊位:愛神”とでも呼ぶべき存在ね」
「え、俺、神様?」
「まだその“芽”だけどね。あなたの愛は本物。だから異世界でも特別な力を得られる。その代わり……覚悟して」
「な、何を……」
女神が指を鳴らした。
瞬間、視界が反転した。
体が引き裂かれるような感覚。骨が軋む。光が奔る。
そして──重力が戻ってきた。
俺は、大地に叩きつけられた。
草の匂い。
澄んだ空気。
青すぎる空。
そして、どこかファンタジーRPGめいた木造の家々。
「……本当に、異世界に来ちまった……」
呆然と立ち上がると、俺のポケットに、1枚のカードが差し込まれていた。
見ると、そこにはこう書かれていた。
【転生者:相馬ユウト】
称号:《神格候補:愛神》
スキル:
・《絶対共鳴》
・《祈願転写》
備考:あなたの“推し愛”は世界の理を超えました。思う存分、暴れてください。
──は?
いや、意味わかんねぇ。
なんだこの中二病みたいなスキル名は。
しかも“推し愛”が“世界の理”超えてんの?
そんなの、RPGでも聞いたことねぇよ。
だが、俺はすぐに知ることになる。
この“愛”は本当に、なんでもできる最強の力だったことを──。