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『老いとは執着を手放す事である』からはじまる五蘊盛苦、それと退屈地獄

『老いとは、執着を手放していく事』だと私は思う。


 若い頃を振り返ると、随分といろんな事に拘っていたなと感じる。特に学徒の頃なんかは顕著で、半ば『狂信的で』『潔癖症な』ものがあったな、とほろ苦い。そういう『ほろ苦さ』さえも、次第に『懐かしさ』として受容していってしまうのだから、人間とは良く出来たものだ。加齢と共に色んな事を受け入れられる様になっていくのであるから。


 歳を重ねるごとに色んな事を経験する。厳密には、種々様々(しゅしゅさまざま)な体験をし得る累計時間が増えていく。見聞を広め、この世界への自分なりの理解を深めていくことで、大体の事は『大したことではない』と言える程の、ある種の『寛容さ』が身についていくのである。


 その些事(さじ)狼狽(うろた)えない、どっしりとした姿は、なるほど確かに、謂わば『大人である』と言える様な姿であろうと思う。子供や若者が騒ぐ事に、落ち着いて対応する様になっていくのだから。


 しかしそれは、一方では、『枯れている』とも言える状態なのだと私は思う。子供や若者が、『全力で』『素直に』体験を享受するのに対して、どこか『手を抜いていて』『ニヒルに』物事に当たるのだから。それだから、子供心を失った大人が『心が弾力を失う』だとか、『同じ様な日々の繰り返しだ』などと(のたま)う様になるのは、当然の帰結だとさえ思う。


 これ即ち『執着を手放していく』ことなのだ。


『色んな事を受け入れられる様に成っていく』と言えば聞こえは良いが、それはつまり『色んな事に拘らなく成っていく』ことと同義であり、『色んな事がどうでも良く成っていく』ことでもある。


 幼児は欲しい欲しいと駄々を捏ねるのに、だんだんとその傾向は鳴りを顰めてしまう。それは一種の社会化であって、適応の一つであろうが、それこそがこの話の骨子(こっし)、というか、全体に重苦しく横たわる根本的なものの正体だ。


 若者が夢を追ったり、理想に燃えていたのに、だんだんと現実を見る様に『成ってしまう』のもそうだ。


 いま私は成って『しまう』と述べたが、『しまう』という言葉には、『不本意ながらそうなる』ひいては『望ましくない』というニュアンスが含まれているきらいがあると思う。これに対して私の中で『それって別に悪い事じゃないよね』という価値観の一派が鎌首(もた)げ、旗を揚げた。これぞまさに執着を手放した結果であろう。

 何故ならば、私がもし夢や理想という執着を手放していなければ━━或いは手放しつつあるのでなければ━━その様な一派が心の片隅に巣食う事を許す筈がないのだから。つまりそういった変化に対して、成って『しまう』とは感じなく成り、『ただ単にそう成ったのであり、そこに良し悪しはない』と感じる者は、既にそれについての執着を手放しているのである。


 それは言葉を変えれば『諦め』であり、『明らめたからこそ諦めた』のであろうから、人生経験の可能時間が子供たちよりも多い大人には、疾うにそう成っている者が多いのだ。


 さて。『諦め』ときたところで、それはもうある種の『ブディズム』にさえ通じて居るとの考えが浮かぶ。『多くの事は大した事では無く、どうでも良い事なのである』『執着を手放して自由に成る』などと言うのは、なるほど確かに仏教の一部そのものではないか。『執着』を『煩悩』という言葉に置き換えると一層わかりやすい。


『煩悩』という言葉で真っ先に思い浮かぶのは、根本的な三つの煩悩たる『三毒』である。即ち、(むさぼ)り求める心『貪欲(とんよく)』、怒りの心『瞋恚(しんに)』、無知の心『愚癡(ぐち)』である。これらについて、老いて執着を手放した者はどうか。


 執着を手放しているのだから欲は浅く、細かい事に拘らないので怒らない。物理的な過処分時間の多さから、見聞を広める機会が膨大にある分、無知になりづらい。


 なるほどどうにも、煩悩の根本たる三毒を克服しつつある状態だと言えそうである。つまり煩悩を手放しているとも言えるのではないか。


 などと、『執着(にありーいこーる)煩悩」の図式に拘って、執着している自分に苦笑する。それに煩悩は三毒だけではないという考え方もある。ただまぁ、そちらに進むのは止しておこうか。


 ではどちらに進むか。深掘りすべき方向はどちらか。


 仏教で執着と言えば、直ぐに『四苦八苦』の事が思い浮かぶ。


『四苦八苦』という言葉は、苦労する事やその苦労そのもののといった常用的な意味があるが、元々は仏教の言葉であって、苦しみを分類、説明している言葉であると記憶している。それは『生』『老』『病』『死』という四つの苦しみ、即ち『四苦』を根本に、愛する者と別れる苦しみ『愛別離苦(あいべつりく)』、怨み憎む者に会う苦しみ『怨憎会苦(おんぞうえく)』、求める物が得られない苦しみ『求不得苦(ぐふとくく)』、心身が思うままにならない苦しみ『五蘊盛苦(ごうんじょうく)』の四つを合わせて『八苦』とする。


 四苦八苦の(ほとん)どは常用漢字で表記でき、字義(じぎ)と掛け離れた意味の概念も確か無かった筈なので、字面(じずら)からもすぐ理解できるのだが、『五蘊盛苦』に関してはそうはいかない。こいつを最初に知った日から今に至るまで、なんと言うか、いつも、『わかりづらいなぁ』と感じてしまう。


 しかもこいつは『五陰盛苦(ごおんじょうく)』と言ったり『五取蘊苦(ごしゅうんく)』と言ったりもしてややこしい。どの表記でも仏教の知識が無いと、文字通りにパッと理解するのが難しいのは変わらない。ムカつく。


 加えて説明についても様々で困る。先述の『心身が思うままにならない苦しみ』の他に、『心身があることで次々と生じる苦しみ全て』といった旨のものもある。『心身を持ち生きている事による苦しみ』と言えるかもしれない。だがそれだと理解が『ふわっ』としていて気持ち悪かったので、もう少し深く掘り下げて調べたのを覚えている。


 まず分解的に字義から理解していくのが分かり易かった。『五蘊(ごうん)』とは『五つの(うん)』であり、『(うん)』の意味は『集まり』『同類のものの集積』『集合体』『要素』『グループ』『コレクション』といった所である。これはサンスクリット語の『skandha(スカンダ)』の漢訳であるらしく、パーリ語では『khandha(カンダ)』と言うらしい。


 それを知って思ったのは、原語や原義を知る事の大切さである。漢字には表意文字として理解を助ける効果があるが、しかし仏教はサンスクリット語やパーリ語が元であるからして、漢字だけで理解しようとするよりも原語も当たった方が理解は促進されるように思えるのだ。因みに『五蘊』はパーリ語で『pañca(パンチャ)|-()kkhandhaカンダ』、サンスクリット語では『pañca(パンチャ)-()skandha(スカンダ)』という。『pañca(パンチャ)』は『五つの』といった意味だ。


 話を戻そう。


『五蘊』とは『なんか五つの集まりなんだなぁ』というのはわかった。恐らくこの二字自体で仏教とは関係なく『五つの何かのコレクション』を表意出来るが、そんな事はまずしないだろうし、一般的に『五蘊』と言ったら仏教の言葉であろう。


『じゃあその仏教における五つの何かって何さ』という話だが、『(しき)』『(じゅ)』『(そう)』『(ぎょう)』『(しき)』というものらしい。『色蘊(しきうん)』『受蘊(じゅうん)』『想蘊(そううん)』『行蘊(ぎょううん)』『識蘊(しきうん)』ともいう。


 個人的理解の世界では多少の語弊があっても良いだろうという事で、私はそれを『身体』『感覚』『心象』『意志』『判断』と同じく二字統一で平易に理解することにした。『色』とは物質的なもの全般なのでこと人についてはその体であろう。『受』とは肉体的知覚。『想』とは心に思い描くイメージ。『行』とは何かをしたいという心とか、心が特定の方向に向く事。『識』とはものごとを区別する心の機能。そういう理解である。


 この内、『色』だけが体に関するものであり、他の『受』『想』『行』『識』は心の機能や作用であると分ける事も出来よう。それこそこういった区別が『識』だろうか? まぁそれは兎も角として、ここでは『つまりは心身』であるとざっくり纏めることにする。


 さて。『五蘊盛苦』を字義的にこの状態で解釈すると、『心身が盛る事に依る苦しみ』となる。なるほど、確かに体がある事で苦しむ事はあるだろうし、感覚によって生じる苦しみもあるし、心象によっての苦しみもある。意志のせいで苦しむ事もあるし、判断なんてそれこそ苦しみの元であるとさえ言える。


 仏教に影響を受けた一連の思考術━━心理状態と言った方が正確かもしれないが━━及び瞑想メソッドとしての『マインドフルネス』がこの国で流行ったのは2010年代頃だったと記憶しているが、その中心概念として『今ここに集中する。評価をせず、ただそのままに受け取る』といったものがあるが、あれは『識』に依る苦しみを排するものであったのだろうか。


 などと考えてマインドフルネスを調べると、それはそれで『八正道(はっしょうどう)』という八つの実践徳目、修行システムの内の一つが元ネタらしく、これには『中道(ちゅうどう)』というまた別の概念が関わっている様子で、仏教的に正しくはない知見らしいことを知る。堪らず、『いやぁ仏教って奥が深いなぁ』という建前と『用語ばっかだなぁ』とか、『数字列挙好きだなぁ』といった本音を抱いた事は懐かしく思い起こされる。


 まぁそれはいいや。

 とりあえずここまでで、『五蘊盛苦(ごうんじょうく)』は『心身がある事に依る苦しみ』といった意味だと解釈する事が出来た。だがまだ欠けているピースがあり、それを埋めない事には早計というものである。情報の出揃っていないミステリーで推理をするようなものだ。それはそれで楽しいし、当たるかもしれないが、論理的で再現性があるとは言えない。閑話休題。


 そのピースとは『五取蘊苦(ごしゅうんく)』という別称である。『五取蘊』もまた色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の事であり、省略して五蘊とするという事なのだが、その省略された『(しゅ)』が実は大事なヤツである。『取』とは『執着』を表すパーリ語の『upādāna(ウパーダーナ)』の漢訳であり、それ自体がサンスクリット語の言葉、及び仏教の概念である。


 この『取』は煩悩の一種ともされ、苦に繋がるものであるともいう。私としては『執着』と『煩悩』は近似であるという主張を推したいが、この考えに倣えば『煩悩』が『執着』を包含しているという事になる。私としてはそっくりそのまま採用していないが、まぁいずれにせよ近しい間柄っちゅーこったね。私としてはアレだけどね。


 でその『取』を含んでいる方の呼び方である『五取蘊苦(ごしゅうんく)』という言葉、実はこっちの方が『五蘊盛苦』よりも原語に忠実なのである。『五取蘊苦(ごしゅうんく)』及び『五蘊盛苦』はパーリ語では『pañc(パンチャ•)upādānak(ウパーダーナ•)khandhā(カンダ•) dukkha(ドゥッカ)』と言うのだから。


upādānak(ウパーダーナ•)』は先述した通り『取』のこと、つまり『執着する事』である。『pañca(パンチャ)』が『五つの』といった意味であることも、『khandhā(カンダ•)』が『(うん)』の事だということも、前述の通り。『dukkha(ドゥッカ)』は『苦』とか『苦しみ』という意味であり、仏教について調べ物をする際には直ぐに現れる言葉なので意味は知っていた。


 これらを踏まえると、『pañc(パンチャ・)upādānak(ウパーダーナ・)khandhā(カンダ・) dukkha(ドゥッカ)』とはつまり、『五蘊に執着する苦しみ』だと訳す事が出来る。


 これを知って私は『そうか! そうかそうか!』と唸った。今は昔の芸人の如くテンポで。などという話はさておき、『五取蘊苦(ごしゅうんく)』の方やその原語である『pañc(パンチャ・)upādānak(ウパーダーナ・)khandhā(カンダ・) dukkha(ドゥッカ)』に着目すれば、その意味は『五蘊に執着する苦しみ』だと言えるという事がこれでわかったのだ。


 では『五陰盛苦(ごおんじょうく)』は? これは訳の違いであって、『五陰(ごおん)』とは『五蘊(ごうん)』の事であるという。『五陰(ごおん)』は旧い訳、『五蘊(ごうん)』は新しい訳で、同じ概念を指してはいるものの、しかして漢字文化圏の経典に於いては『五陰(ごおん)』の方しか出てこないという情報があった。


 しかしあの時はもう調べ物に疲れていて、そこについて深掘りする気にはなれなかった。他にも別称が幾つかあるという話もあったものの、調べても出てこず余り一般的ではないのだなと結論付け、記憶から消した。


 あと『ごおん』だの『ごうん』だの思考音声を脳内再生しすぎて、鐘につかれた体のように頭がぐわんぐわんとしてくる様な錯覚を覚えたので、『この話はこれくらいにしておこう』という提案が私の中で成された事を何故か鮮明に覚えている。何故だろう? まぁいいか・


 ただ、最後にもう二、三くらい何か調べてから眠ろうと、あの時は思って、その通りにそのまま調べものを続けていたら、一つ重要な視座の情報に行き当たって嬉しかった事も覚えている。


 私はずっと疑問だった。『五蘊盛苦(ごうんじょうく)』の様々な説明を読む度に、どうにも、『それって他の四苦八苦の苦しみと内容重複してねぇ?』という風に思えてならなかったのだ。『でもそんな筈ないしな』という謎の先入観によって、その所感に不協和を感じていたのだが、遂にそれが晴れる時が来たのだ。


 それは『四苦八苦の前七つも含めて五蘊盛苦なんだよ』『五蘊盛苦とは全ての苦しみのことなんだよ』といった旨の情報である。これには痺れた。今までの疑問、違和感、不協和が全てダントツに爽快に晴れるかのように感じられるところであった。


 とはいえ待て待て、と自分を抑止する。『これはネットの検索チョットの情報でしかない。果たして信じられるのか?』『経典の根拠が示された所で、それが釈迦の考えとは限らないしなぁ。特に大乗仏教の経典は』という風に。


 同じくインターネットに経典がアップロードされていたりもするが、それが本物であると担保する信用など何処にも無いのだ。ネットは嘘ばかり。何故ならリアルが嘘ばかりだから。かといって門外漢の素人が経典の全文を正当で権威ある筋から入手するのはハードルが高い様に思われた。知らないだけかもしれないけれど。


 なにより、釈迦は自ら文献を遺しておらず、仏典というものは全て釈迦以外の人間が記したものである。今日において仏典は数千巻もの膨大な数にのぼるというが、釈迦の書いた言葉はそこには一つも無いのである。各経典の成立年代や釈迦が生きていた時代を照らし合わせると、千年近い開きがあるものもすぐに見つける事が出来る。


 別に初期仏教しか認めないという過激派ではない。大乗非仏説を唱える様な気はなく、大乗仏教も素晴らしいものであることには違いない。ただどうにもそこには、今も昔も、宗教団体の利権的なものが横たわっている様に感じずにはいられない。


 実際に兄の葬儀で生臭坊主に当たってからというもの、その不審感は増すばかりだ。あ、そういえば私の葬儀はちゃんと行われたのだろうか? ……まぁもう関係ないか。産まれ直しちゃったし。そもそもここはパラレルワールドなのか、タイムリープなのか、そこからして不明だ。どういう理屈で、何故私は産まれ直されたのだろうか。


 …………今はいいか。


 いずれにせよ仏教は様々な考え方やら解釈があり、それは宗派やさらにその分派があることからも明らかである。一筋縄で行く様な単純なものではなく、教えをただ守っていればいいというものでもないのではないかと思う。


 ちゃんと自分で考えて、研鑽、探究、追求すべきだ。


 大乗仏教の一切衆生を救うというのは素敵なことだが現実的ではない。まぁ今まさに現実的でない状況に置かれている私が言っても説得力がないが、別に誰かを説得したい訳では無いので困らない。


 現実的でない繋がりで言えば、もし今ここにお偉い歴史上の御高名な坊さんが現れたとしても、私はその話は聞けども盲信することは努めてしないだろう。その坊さんに私の仏教観について間違っているだとか言われても、『じゃあ全ての宗派やら派閥を統一してください』と返すだろう。私は私の考えを持っており、私の仏教観は私の仏教観であり、私の考察は私だけのものだ。言うなれば、私は私の宗派を持っているのだし、実はそれは全ての仏教徒がそうであるのでないかと思う。


 感覚器官や脳構造が一人一人違う以上、クオリアという主観的事実が皆微妙に異なっている筈であり、同じ波長の可視光線、音波、同じ言葉でも『どのように感じるか・受け取るか』というのは人それぞれである。考え方や価値観というものも人それぞれ違う筈だ。


『多様性』とか『ダイバーシティ』という言葉を、人々がバズワードや自分を守る盾としてだけで無く真に信奉しているならば、それを受け入れられる筈だが、現実にそうはなっていないし、そうなることも恐らくあり得ないだろう。


 人が人である以上、人は争い、人の邪魔をする。利己を追求し、愉悦の為に非道な事をする。これは変えられない。誰にも。その実変えようともされていない。


 だがそんなことはどうでもいい。


『だって執着を捨てたから』


 ……何の話をしていたっけ?


 仏教の前のことだ。何だっけ?


 ……まぁ思い出せないので、思い出すまでは仏教の話の続きでもしようか。


 といってももうエピローグみたいなものだ。クオリアの話を思考している時にちょうど五蘊についてその関連性から想起していたのだが、科学の発展していないどころではない時代に、よくもまぁこれほどの事を考えたものである。


 仏教は素晴らしい。

 他の宗教も素晴らしい。


 そして執着を手放した私にとって。


 仏教はどうでもいい。

 他の宗教もどうでもいい。


 これらは両立している。矛盾した考えを持つなという論理学か何かのルールに縛られるつもりはない。人間は矛盾しているものだと思うし、『矛盾していて何が悪い』とも思う。この『何が悪い論法』を私は好んで使っているし、自分の発明だと思っている節があるけれど、絶対ずっと昔に誰かが疾うにやっているし、今も多くの人が採用しているんじゃないかな? 知らんけど。


 この『知らんけど』も私は子供の時分から使っており自分の発明だと思ってる節があるが、絶対ずっと昔に誰かの口癖だったろうし、今や多くの人が使う定型文みたいになっちまって私は悔しい。どうでもいいけど。


 この『どうでもいい』が口癖の人間は周囲を苛立たせがちだが、とあるゲームの主人公の口癖であって、彼が使っている分にはカッコよく見えるのは、神目線のフィクションを見ているからなのであって、実際にその『彼』が現実にいたらやっぱり『ウザい』のだろうか。


 この『ウザい』という言葉も最早古いと感じる向きがあり、今時は『ダルい』だよねという話が方々(ほうぼう)でなされていたりするのだけれども、そう感じない人もまだ多数存在する訳で、そんなしょうもない事に拘ってるのって如何にも若者だなぁというカンジ。


 この『カンジ』というのとか、『如何にも若者だなぁ』とか、『しょうもない』とか……ああ、キリがない。これくらいにしておこう。


 連想ゲームみたいなこのお遊びをしている程に私が暇なのは、私が赤ちゃんだからだ。


 どうやら産まれ直したらしいとわかったのは、私を生んだ瞬間の母と、その後やってきた父や兄を『産まれてはじめて』見たからだ。厳密には前に一度だけ、同じ光景を見たのかもしれないが、幼児期記憶は消えるのが一般的なので、この表現をしても差し支えなかろう。


 私がずっと仏教やらに哲学めいた思索に耽っているのも、私が赤ちゃんだからだ。


 十数年前頃から流行り出し、今や定着した『転生もののネット小説』のように、転生したりはしなかった。どうにも同じ人生やり直しらしいとわかったのは、『産まれて直ぐのことである。』


 うん、この赤ちゃんジョーク、気に入った。これからも使っていこう。まぁまだ、自分の心の中でしか喋れないので、オーディエンスは自分だけなのだが。


 困った事に、手も足も出ない。赤ん坊とは斯くも退屈なものか。それに無防備であって、排泄物を『このトシで』人に処理されるというのは、非常に遣る瀬ない気持ちになるのだが、共感して貰えるアテは絶望的だろう。


 骨折とかして動けずに、入院している人とかはわかってくれるかもしれないが、如何せん喋れもしなければ当然ネットも出来ない。気持ちを伝える事が出来ないというのはもどかしい。自分はこれほどまでに強く共感を求めるタイプだったか? そう思うくらいには、なんというか、『寂しい』のであると思う。


 知らんけど。


 しっかし、目もよく見えないし、ほんとうに、考えることぐらいしかやることがない。かといって理系の方はからっきしなので、生前から若干興味のあった哲学とか、宗教とか、そういうものぐらいしか今は思いつかない。


 勿論何か思い出せば、連想すればその限りではないが、両眼視野闘争などが大人の自分と異なっているからなのか、単純に脳の発達がまだ未熟なのか、思い出せることや気付ける事に限りがある様に感じる。


 一体どういう理屈でこの赤ん坊の体に、年寄りの自分の知識や意識が存在しているのか、皆目見当も付かないし、不思議で仕方ないのだが、現に今ここでそういう事が起きているのだから受け入れる他ない。


 赤ん坊の見える世界が白黒なのだという事など全く知らなかったが、これは果たして正常なのだろうか。産まれたての頃は余り遠くも見えなかったのが、最近は少しずつ視界良好になってきているが、これは成長をしているのだろうか。だとすればその内に色彩感覚を獲得するのだろうか。それともこの奇妙な状況に置かれている自分にだけ起きている、矢張り奇妙な現象として世界は白黒なのだろうか。


 また、何もわからなかった。


 わからない事を考えても仕方がないので━━仮説を立てることは立てるが━━とりあえず成長を待つ事にした。というか、それ以外にやり様もない。それで暇なので、すぐに連想ゲームめいた思索に耽けってしまうのだ。


 今だって、また五蘊の事が気になっている。五蘊。五蘊ねぇ。赤ん坊の身からすれば、五蘊そのものも、色も受も想も行も識も含めて、より一層興味深い話だ。


 五蘊は人間の肉体と精神の話だが、肉体と精神とは即ち自分というものの全てではないだろうか。この世界を観測し認知出来るから自分があるという方向性に哲学出来そうだし、自分にとっては観測し認知する自分という存在が消えれば、それはこの世界が無くなるのと主観的に同義だとか、そんな思考に耽る事も出来る。


 最初はやけに取っ付きづらい概念に感じたが、ちょっと調べて知ってみれば実に楽しい概念である。そこから色んな話に考えを発展していく事が出来るのだから。


『生前は』日常の中で忙殺されてそんな十分な時間もなかったけれど、今ならば赤ん坊。時間はこれでもかという程ある。それに他に出来る事もないし、考え放題だ。やったね。


 ……いや、暇なんだけどね。


 ……はぁ。


 ……やめよう、暇について考えるのは。


 うん、別のことを考えよう。そうだな、例えばさっきの話で、五蘊こそが、心身こそが自分の全てでないか、という話についてもう一度少し考えてみよう。


『そうである』と言い切れない理由としては、真っ先に思いつくのが『他の要素があるかも』という指摘であり、その第一案は『魂があるのでは?』という考えだ。魂などというものがもしあるのだとすれば、どうだろうか。そもそも魂とは?


 色んな価値観やアイディアがあると思うが、魂と精神は同義であると考えることもできると思う。別と考える事も出来るが、斯くも不思議な体験をすると、同義だと思えるもので、今の私は同義派に一票といったところである。そういえば宗教は、物質界と精神界を分けていたっけ? うろ覚えだけど。


 しかし魂といえばキリスト教ではないか? と、キリスト教的な事も考えたいが、キリスト教について何故か今日はよく思い出せない。まるで頭に(もや)がかかったように覚えていたことを思い出せないのだ。ダンテの神曲(しんきょく)とか、読んだことは覚えているのに、一節どころか一要素も思い出せないのはどうしたことか。辛うじて浮かぶイメージは氷……悪魔……煮えたぎる鉄……? それは別の本だったっけ?


 ああもどかしい! 思い出せないことを思い出そうとうするのは今はやめよう! 魂については色々とオリジナルな持論があるけれど、それも敢えて再び俎上に上げるだけの魅力を今は感じない。つまるところ、今日の私はどうも、魂についてはそれほど考えたくないらしい。今の私の状況的に、そいつも大いに(そそ)るトピックである筈なのにね。


 まぁそんな日もあるさ。そうだ! 五蘊について考えよう。色は物質的なもののことだが、色と言われると今の私にはどうしても『カラー』の方の色が色濃く連想されてしまう! 色々と考えたいのだけれど、色については連想していくと色んな怖い想像が浮かんで私内の全私が色めき立つので、色については止めよう!


 そうだ、受についてはどうだろう? それも感覚器官やんけ! こんちくしょう!


 想については?


 ……。


 …………。


 …………何も浮かばない……。


 …。


 辛うじて浮かぶのは……。


 氷……天使……吹き荒ぶ光…………?

 なんだろうこの心象風景は。

 なんかのゲームかな? それともライトノベル? ネット小説かも。わからないな。


 …。


 ……わからないけど何故だろう。


 ……。


 ………………すごく悲しい気がする……。


 …。


 ……。


 …………。


 やめよう!!!!!!

 想はナシだナシ!


 じゃあ識はどうだ!? 識は!?

 判断、判断ねえ。

 おそいなぁ、母さん。

 父さんも兄さんも。

 これじゃネグレクトだよぅ。

 欧米だったら犯罪やで?


 ああやめよう! 碌な事思いつかない! もう今日はダメだ! 考えるな! 感じろ!


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 何を????????


 うわあああああああああ退屈だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!あああああああああああああああああああああああああああああめあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 早く大人になりたいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいリいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


 うわあん、これじゃまさに『生きて心身があることによる苦しみ』だよぉ!!!!!

『心身が活動をしているだけで、次から次へと湧き上がる苦しみ』だよぉ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


 まさに五蘊盛苦。






 まぁいいか。


 退屈に対する執着を捨てる。


 こうして私は、またひとつ大人になった。赤ちゃんだけど。












 と、創作物のようにオチがついて終わればいいのだけれどね。

 現実は続き、眠くなるまではこの膨大すぎる時間と、『手も足も出ない現状』を持て余すんだよね。

 はぁ。


 …………そういえば、『老い』と『執着』と『四苦八苦』について考えていたんだったっけ。


 心の中で暴れ回った結果、何の話をしていたか思い出した。あれも無駄じゃなかったんだね。人生全部、意味があるね。二界目だけど。二回目で。


 さて。


『四苦八苦』について、『生前』の私はどうだったろうか。


 生まれた事を受け入れ、老いる事を受け入れ、病む事を受け入れ、果ては死ぬ事を受け入れていたとおもう。


 私は思春期から今日にかけて、生まれる事による苦しみを受け入れたし、最近になって老いる事や、同時に病む事を受け入れた。死ぬのも怖かったが、きっと加齢と共に受け入れていけるのだろうという予感がある。そしてこの道程は決して、私個人だけが辿るものではないのだろうと察している。


 では四苦八苦の残りの『八苦』はどうであろう。親しい人と別れる事を受け入れ、恨み憎む人と出会う事を受け入れ、求めるものが手に入らない事を受け入れ、心身が思うまま生じる苦しみや痛みを受け入れてゆくのは、これも矢張り『老人』が経るであろうものと思われる。


 現状では人間誰しも親があって生まれるが、多くの者は親を看取る事になる。親と不仲な者も居ようが、そうであっても親友との別れなど、親しい者との別れは人生を生きれば生きるほどに避けられないところだ。人生を経るほどにと言えば、恨み憎む者と出会う事は避けられないであろうし、求めるものが手に入らないという体験も沢山するだろう。そして五蘊盛苦。


 五蘊盛苦をどう解釈するかによって話は全く変わってくるのだが、いずれにせよ、私はそのどれをも受けれいてきているように思う。


 こういうと、『偉そうに。自慢か?』と、自分の中の、アメリカンダイナーで朝食を摂っていたら襲撃してくる世紀末めいた、パンクロックファッションの、顔を白塗りにして、どこぞの美少女戦士の如く両お団子なヘアースタイルにした、くすんだブロンドの、アメリカンなガール(それこそ某有名アメコミブランドのヴィランでそういう娘いたなって感じなのだけれども)が、僕を睨みながら吐き捨てるのだった。退屈すぎて、めちゃくちゃ長いセリフ(というかモノローグになるのか?)を、頭の中で誦じた。そして頭の中で括弧付きで思考する。退屈すぎて。話を戻して?


 ええと、つまりだね、ワトソンくん。わたしゃもう疲れたということだよ。この肉体の牢獄から我を解き放っておくれ! ええい、いつまでこんな退屈地獄を味わにゃならんのだ! こんな所に居られるか! ワシは部屋に帰らせても貰うからな! ってここが部屋じゃったわい。どうして俺っちがこんな目に遭わない行けないんだYO! アタイ早く大人になりたいの。ミーはもう限界でやんす。さっさとこのつまらない状況を脱したい。フィクションだったらシーンチェンジしたり次の話に切り替われば脱せられるだろうに、ワテはリアルを生きとるさかい、そうは問屋が卸しませんがな。ガハハ! 自分は! この様な状況に於いても、冷静に! 任務を果たすであります! ボクチンあたまおかしくなりそう。もうおかしいのかも。おかしくて何が悪い。出たな何が悪い論法。えいや! えいや! どうだ! 参ったか! 観念しろ! (それがし)に楯突いて、五体満足で帰れると思ったか! このたわけめ! おおうつけもののお主には斯様な憂き目がよくお似合いじゃあ! ハッハッハッハ! 拙者マジで辛いでござる! ボキのご飯といえば粉ミルク、あとは母乳だけ。何が悲しくてこのトシで母親の以下略。思い出したら気持ち悪くなってきた。おえ。


 ああ! 窓に! 窓に!


 猫ちゃん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

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 猫ちゃんを眺めて、退屈を凌ぐか。


 うちも猫飼ってくんねぇかなぁ。無理だろうなぁ。だって昔飼ってなかったもんなぁ。てかそういやスマホもないよな、ここ。インターネットも? ヤバ。生きてけない。生きていけるんだろうか。


 (ようや)く眠たくなってきた。

 やったね。これでもう今日とはおさらばだぜ。もしまた今日起きたら泣いちゃうかも。


 ……ああ、だから赤ん坊って、泣くのかな。


 ……………。


 アレ?


『もしかして:人類全員自分の人生やり直してる?』


 幼少期の記憶はないのが殆ど……。輪廻転生……。生という牢獄……。終わらないサイクル……。


 ま、まさかね??????


 そんな訳ないよね????????


 うう、俄に怖くなってきたぞお!!!!!!


 さっさと眠ってしまおう!


 俺はこんなところに居られるか! だからやり直しなんてしたくないのに!!!!!!!!!!!


 もう五蘊盛苦なんて、こりごりだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!

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