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女神の国という場所では基本的に誰もが自由な生活を送っている。
最低限の身の回りの作業と当番制の仕事はあるものの、それに必要とする時間を除いても日中の半分以上は自由時間である。
そこで何をするかは人によってまるで異なり、書物を読んでいる者、散歩をしている者、自室で静かに過ごす者、その他趣味にふける者など様々だった。
例えば小春は読書家なので、共用の書庫から書物を取り出してきては部屋でゆっくりと読んでいることが多い。
雪音に関しては家事全般が好みなのか、食事処の当番の巫女たちの手伝いをしていたり、どこからか食料を調達してきておやつを振舞ったりと、遊ぶというよりは何かの仕事をしていることが多い。
蓮華はその元気いっぱいな性格通り外に出ていることが多く、他の巫女たちと何やら一緒にはしゃいでいたり、広い土地を走り回ったりしている様子を頻繁に目撃する。
そして茜はといえば、この辺り一帯を散歩するのが日課になっていた。
女神の国という名の里は周辺を山に囲まれた立地、つまるところ谷の底部に出来た生活共同体である。
普段生活している寝殿の周りだけでも十分な広さがあるが、その更に周縁部も山肌に向かって広がっていて、木々と花々が豊かに生育している自然豊かな場所である。
喧騒から離れた静かな土地で、他に人もなく、季節の花や高くそびえる木々の中にひっそりと佇む。
そんな場所をひとりで散歩してゆっくりと時間を過ごせることは茜にとって理想的な余暇の過ごし方だった。
お昼の穏やかな日差しの下で寝殿を出れば、里の中心部から外れていき、整備されていない土の道を焦らずに歩いていく。そうしていれば緑に囲まれた遊歩道のような道に入り、そこまでいけばもう茜の静かな世界を邪魔する者はいなかった。
五感をすべて解放して、ひとりと自然だけの世界に思いっ切り浸る。
夏の光を受けた木々のきらめき、風に葉がそよぐ音、真っ赤な実をつけた花の甘い香り、まだ咲き始めたばかりの蕾の柔らかさ。あいにく味覚を感じるものはないのだが、それでも十分だった。
日長そうやっていても陽が傾いてくれば里に帰る時間なのだとわかる。
そうしたら太陽の方角を見てどっちに向かえばいいのかわかって、帰り着く頃には食事処で夕餉の準備が進んでいる、といった具合だ。
それを繰り返していても飽きないし、長時間歩いていてもそこまでの疲労はない。
だから毎日のように里の外へ出て行っていたのだけれど―
「そういえば茜さん、いつもどこへ外出されているのですか?」
ある日の夜、不意に小春が尋ねてきた。
それぞれに布団を敷いて眠る準備をしていた時だった。
敷き終わった布団の上にちょこんと座って、至って真剣な眼差しで問うていた。
「えっと、山のふもとの方に散歩に行ってます」
「そうなのですね。けっこう長い時間ですけど、ずっとおひとりで?」
「はい。わたしは……一人でも割と大丈夫なので」
そう答えると、小春が突然その場でうーんと唸り出して、何かを決めあぐねているような仕草をする。
今の回答に何か考えるところでもあったのだろうか。
茜にはよくわからなくて、その反応を待つしかなかった。
そして不意に顔を上げて、茜に向かってこう頼んできたのだった。
「茜さん、明日のお散歩にわたくしも同行してよろしいでしょうか?」
その姿とその表情が記憶の中の幼馴染と重なる。
茜の一人で過ごす旅へ付いていきたいと言ったあの日の彼女が。
「茜さんがどんな風に世界を見ているのか、どんなものを感じているのか、わたくしも知りたいのです。だめ、でしょうか……」
どう答えればいいのか、茜の思考はぱたりと止まった。
穂香が相手だったら申し訳なく思ってしまう自分がいた。
付いてきてもそんなに良いことはないよ、と。
でもその思考の裏には、一人の時間を邪魔されたくないという気持ちがどこかにあったのだと思う。
信頼している相手だからこそ軽い態度を取ってしまってもいいという甘える気持ちも。
そんな自分のままだったら、このお願いも断ってしまえばよかった。
だけど今の茜はそうしなかった。
理想郷のような場所で暮らして、苦しみも痛みもなく過ごして、少しだけ心の余裕ができたのかもしれない。
目の前の少女のどこか不安げな表情も、茜の心を揺さぶるには十分だった。
そして、今のままの自分でいいのかと、少しでも変わらないといけないと思う自分がいた。
だから、茜はそのお願いを受けることにした。
「いいですよ。それじゃあ明日、ですね」
「本当ですかっ……ありがとうございます、一緒に行きましょう」
そう言ってひときわ可憐に微笑むから、茜もつられて嬉しくなって。
その晩の小春はなかなか寝付けなかったようで、翌朝は寝坊して茜が起こすことになったりと珍しい行動が続いた。
そんなにも楽しみにしていたのかと茜はだいぶ驚いた。
でも、自分との時間をそんなにも楽しみだと思ってくれるのは自分が思うよりも嬉しいことだった。
そんな小春は結局出発するその時になっても落ち着きを抑えられないようで。
「茜さん、今日はおむすびを作ってもらったので一緒に食べましょうね」
「は、はい。じゃあそろそろ行きましょう」
二人して里を離れて、山の方へと歩みを進めていく。
小春は茜の後ろについてきて、時々振り返ってみると嬉しそうに笑っているその様子はご主人様にお仕えする子犬のようで。
その道中で二人は言葉を交わす。
今の暮らしはどんな感じなのか、小春は普段どんな書物を読んでいるのか、茜はどんなことを考えながらこうして散歩しているのか、その他色々なこと。
他に誰もいなくなった森の中は文字通り二人きりの世界で、お互いの言葉が大きく強く響く。
今まで一人きりで過ごしていた世界の中に、小春の言葉と存在が現れる。
それは茜にとって新鮮で、思っていたよりも悪くない体験だった。
小春が語るその言葉にしんと耳を傾け、それを自分の心の中で咀嚼して、言葉にして返す。
ゆっくりと時間が流れるこの世界は、そんなふうに茜の気持ちに余裕を与えてくれていた。
そして、その言葉を通して見る光景は、自分一人で見ていた光景とはまた違うものを見せる。
小春がその目を通して見たものを茜に語れば、茜の瞳もそこに焦点が合う。
今まで意識していなかったようなものに視線が行く。それを感じ取るのが楽しい。
「茜さん、この花の花弁は不思議な形をしていますね」
「そうですね。色は薄紫で淑やかな感じだけど、形は美しいというよりは特徴的です」
「どうしてこんな形になったんでしょうか……気になります」
こういう時間の過ごし方も決して悪くないのかも、と思ったりした。
もちろん相手が小春というそれこそ淑やかな少女だから、という理由もあるが。
その後も小春の言葉に導かれるように森の中を歩いた。
椅子代わりに出来る倒木を見つけては二人でそこに座り、小春が持ってきたおむすびを食べたり。
陽が傾いてきたらどんな道順で帰ろうかと二人で話し合ったり。
里に帰ってきた時の茜の表情は、それを見た雪音曰くとても晴れ晴れとしていたそうだ。