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女神の国という場所での暮らしは、最初に伝えられた通りとても穏やかなものだった。
朝は太陽が昇ってくる日差しで目を覚ませば、同じ部屋で既に起床していた小春と目が合う。
その最初の一瞬は幻覚のように穂香と間違いそうになってしまうけれど、その瞬間を過ぎれば靄が掛かった思考は消え去り、自分が俗世からかけ離れた場所にいることを実感する。少し怖くもなるけど、程良い日差しの下に動き出せばその気持ちは薄れていく。
「茜さん、おはようございます」
「おはようございます、小春さん」
「よく眠れましたか? 新しい環境は慣れるまでが大変といいますが」
「えっと、だいぶ慣れてきました。ちゃんと眠れています」
寝間着の襦袢にも慣れてきて、布団の中で寝にくいという感じもしなくなってきた。
この場所へ迷い込んでからおおよそ一週間が過ぎ、現代日本のモノもサービスも存在しない生活に苦を感じることはほぼなくなっている。ベッドじゃなくて敷き布団でも落ち着いて眠れるというのもそのひとつ。
おおよそ一週間、というのは、この場所には日付の感覚があまり存在しないからだ。
季節の移り変わりは植物の様子や気温でわかるものがある。だけど、細かい日付というものは特に考慮されない。
そういう暮らしをこの国の人たちは送っている。
でも、それが茜には肌に合う部分もあった。
日頃の暮らしは時間に追われて、たくさんの人の波を掻き分けて、無数に飛び交う情報を受け取ったり眺めたりして、気疲れしてしまう面が多々ある。
だから、こうしてインターネットもなく、人の数だって少なく、ただ静かな生活を送っているこの場所にすぐ慣れることができたのかもしれない。
そうして装束に着替えれば朝食を摂るために食事処へ向かう。着付けをするのだって今やもう慣れたもの。
昔はお正月に初詣に行って、そこで見た巫女のお姉さんたちを綺麗だなあと思うくらいしかなかった茜なので、今こうして自分が同じ立場になっているというのも不思議なものだ。
食事処は三つ並んでいる寝殿から少し離れた場所にあって、厨房が併設されているその場所で当番の少女たちが朝餉を振舞っていた。
お米に野菜、果物と質素な並びの食事はどんな風に作られているのかはまだ詳しく聞いていないが、恐らく作物が採れるところがあって、そこから素材を持ってきて作っているのだろうと予想していた。
果物が採れる果樹園のようなところは案内してもらったことがあるから、他も同様なのだろう。
一緒に付いてきた小春と並んでそれらをいただく。
食事処は三十人くらいが座れるだけの席が用意されていて、結構大きいんだなと思っていたら近くに座っていた別の人が「ここに暮らしている巫女が大体三十人くらいだからだよ」と教えてくれた。
やっぱりこの場所にいる人たちは優しいんだな、と思いながらお礼をする。
歳もやっぱり自分と近そうで、それも話しやすい空気を作っていた。
「小春さんって、ここで暮らしている人とみんな知り合いなんですか」
「みんなではありませんね。顔を合わせたり、挨拶したりはしますが、きちんと話したことのある人は3分の2くらいではないかと思います」
「そうなんですね。小春さん、すごく落ち着いてお話ししてるので、みんな知り合いなのかと思っていました」
「そうでしょうか? わたくし、あまり人付き合いは得意ではないのですが……」
そんな風に話をしていると他の少女たちも次々と集まってきて、食事処は活気を増す。
けれど決してうるさいわけではない。和やかな活気とでも言うべきだろうか。やはり話に聞いていた通り、この場所の巫女たちは皆一様に穏やかな性格をしているらしい。
そうして食事を終えたら日課に入る。
といってもすべきことは多くない。自分の衣服の洗濯、寝殿の簡単な掃除、そして女神がいるという神殿へのお参り。
洗濯は井戸から汲んだ水で洗ってもよいし、この近くを流れる川まで行って洗ってもよい。
茜は教育係の小春のやり方に則って川まで洗いに行くことにしていた。洗うものも精々襦袢くらいしかないし荷物も重くない。
そして散歩にもなるし、冷えた水に触れるのも心地が良い。
現代日本の河川水はとても洗濯に使えたものじゃないけど、この地を流れる川の水はとても澄んでいてそのまま飲めそうなくらい。
そうやって洗濯を済ませると、自室まで戻って寝殿の掃除をする。
そして、ここで登場するのがこの国の暮らしにおける生活班と呼ばれるものだった。
今暮らしている少女たちがおおよそ3~5人程度の班に分かれて、持ち回りで様々な仕事を分担していた。
女神のいるという神殿の掃除、朝餉や夕餉を作る当番、この地の周縁部の見回り、果樹園での果物の収穫など。
そんな生活班で一緒になっているのが小春ともう二人、こちらも二人組の同室である少女たちだった。
「あっ、茜さん、小春さん、おはようございます」
「茜っ、小春ちゃんっ、おはよう!」
丁寧なお辞儀と共に朝の挨拶を先に述べた少女が天羽 雪音といった。
この班の中ではリーダー的な役回りの少女で、茜や小春を見守ってくれる頼もしい存在だ。
そしてもう一人、この国では珍しく元気いっぱいの挨拶を投げてきた少女が鬼頭 蓮華。
茜よりは少し年下に見える子で、周りの巫女たちよりも明るさも調子の良さも一段階上に思える。
「お二人とも、おはようございます」
「えっと、おはようございます」
こうして今構成されている4人組で寝殿の掃除を進める。
ひとつひとつの寝殿は広いけれど、それをいくつかの班で分担すれば大体半分かそれ以下になる。
「ねえ茜、あたし今日も茜の話が聞きたいな」
「蓮華さんはわたしの話が好きですね……じゃあ、わたしの趣味の話をします」
「わーい! ちゃんと掃除するから茜もちゃんと話してね!」
そうして他愛もない話をしながら、だけど掃除も真面目にする。
蓮華は何故かここに来る前の茜の話に興味を示し、それをふんふんと頷いて聞く姿は物語を楽しむ小さい子供のようだった。
「蓮華、茜さんにあんまり迷惑を掛けては駄目よ」
「うー、ごめんなさい」
「雪音さん、わたしはいやじゃないので大丈夫です。掃除もちゃんとできてますし」
「あらそう、ごめんなさいね。この子、ちょっと元気が良いから相手するのも大変かと思ってしまったの」
雪音はそんな蓮華のお姉さんという表現が一番近いような気がした。
元気いっぱいの妹を優しく見守って、時に叱ったりする姉のような。そういう関係に見えた。
「茜は、あたしと話をして楽しいかな……?」
「うん、楽しいよ。蓮華さん、嬉しそうに聞いてくれるから、わたしも話し甲斐があるなって思うよ」
「そっかー、よかった!」
そこで話していてふと思う。
こんな時、相手が穂香だったら自分はどうしていたのだろう。
こんなに楽しく話をできていたのだろうかと疑問に思う。
そうやって、時折頭の中に幼馴染の存在がちらつくのが、茜の生活で少し困っていることだった。