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「はあ、はあ……」
「茜さん、落ち着きましたか」
「え、ええ……まあ……」
円佳が心配して声を掛けてくるが、疲れた茜が返事をする元気はあまり残っていなかった。
しかし大事なことはひとつ。
目の前で不安そうに見守る彼女を冷静に分析した結果、幼馴染の穂香とは別人であることを理解した。
確かに顔は瓜二つだが、声は違うし、性格だって全然違った。
そんな彼女はいきなりのことで怖がってしまったようで、少し距離を置いて茜を見守っていた。
「じゃあ落ち着いたみたいなので改めて紹介するわね。こちらの方が八柳小春さん。今日から茜さんの同室になる方です」
「ええと……は、はじめまして。雁瀬茜といいます。よ、よろしくお願いします」
「こちらこそ、八柳小春です。どうぞよろしくお願いしますね」
とはいえ円佳に案内されたら流石に断るという選択肢もないようで、茜のことをじっくりと観察した結果、落ち着きを取り戻すとだいぶ弱気な雰囲気になった様子を見て最初の警戒心は薄れたらしい。
柔和な微笑みはどこかの良家のお嬢様のようで、そんな彼女をいきなり怖がらせてしまったことに茜の良心が痛む。
そんな二人の埋めがたい隙間を上手く橋渡しするように円佳が動いた。
「ここでの暮らしは基本的に自由ですが……最低限の家事や行事など決まっていることもあります。そういうところは小春さんから教えてもらってくださいね」
「はい、わかりました」
円佳がチラッと小春に視線を送ると、小春も頷いてそれに応える。
「茜さん、何かわからないことがあればわたくしに聞いてくださいね。この部屋も、ご自分のお部屋だと思ってくつろいでください」
「あ、ありがとうございます」
だけど、やっぱり茜はまだ慣れない。
この環境もそうだし、小春という少女が幼馴染と同じ顔をしていることも。
声が違うし、言葉遣いや仕草だって違うから別人なんだとまだ冷静でいられる。
だけど、だから緊張してしまって少しだけ視線を合わせられないのは仕方ないことなのだ。
それを詫びなければならないと思いつつ、円佳の存在もあるので中々それを切り出せない。
「それでは茜さん、まず最初に着替えましょうか」
「え、っと、はい」
「でしたらうちは失礼しますね。小春さん、後はお願いします」
「はい、承りました」
というかそうだった。自分は今この場で明らかに浮いている人間なのだ。
ここに来るまでに出会った少女たちは皆同じ格好をしていて、自分だけ洋服姿で目立ってしまっていた。
だから、円佳が出ていって、長持から装束一式を取り出してきた小春が茜に迫って来たのを断る理由もなくて。
「では茜さん、わたくしが着付けをしますので準備してくださいね」
「えっと……はい、わかりました」
同性の前で着替えることにそこまで大きな抵抗はなかった。
ましてやこんな現世とはかけ離れた知らない土地で、何か犯罪に巻き込まれる危険があるわけでもなく、目の前にいるのは温厚そうな少女ひとりだけ。
でも、その彼女が幼馴染と同じ顔をしていることだけが茜の心を戸惑わせた。
好きな人の前で裸体を晒して、着付けまでしてもらうという状況にしか思えなかった。
もちろん顔が似ているだけの別人だから、そうじゃないのだけど。でも、それでも戸惑う。
脱いだ洋服は彼女が全部綺麗に畳んでまとめてくれて、襦袢までを着け終えれば彼女がすぐ近くにやって来る。
「茜さん、今から説明しながら着付けをしますので、自分でも覚えながらやってみてくださいね」
「は、はいっ……」
そう言って彼女が小袖を着せてきたり、緋袴の紐の結び方を実践して見せてくれる。
その時々で顔が近付いたりして、その度に茜は胸が高鳴って心臓の拍動が速くなる。
覚えるのに必死で、その胸の鼓動を抑えるのにも必死で、茜はもう何が何だかよくわからない。
だけど、自分に優しくしてくれるこの少女に少しだけ好意を抱く自分がいることはわかって。
それを確かめる頃にはいつの間にか着付けを終えていた。
「はい、完成です。茜さん、とてもよくお似合いですよ」
「あ、ありがとうございます……」
立ち鏡に映った自分の姿は和装のせいか自分じゃないようで、それでいて隣に映り込んだ小春の姿が目に入る。
好きな人と二人きりで、お揃いの姿でいるかのような錯覚に陥りそうになる。これが本当だったらどれだけ良かっただろう。
そんな気持ちを抑えながら茜は小春によるこの地の案内を受けた。
普段生活を送る寝殿、巫女たちが集まる食事処や厨房、行事向けの祭具が仕舞われている保管庫。
建物の周りを流れる川に、果物が取れる小さな果樹園のような森。
そして女神を祀っているという神殿と、そこに連なる建物の数々。
小春に手を引かれて見て回る世界はとても穏やかで、それでいて優しい空気が流れていた。
ところどころですれ違う他の少女たちも茜のことを既に知っていたようで、喋らずとも会釈してくれたり、微笑みかけられるようになっていた。
思ったよりも広いこの地をぐるりと一周して、居室に戻ってきたのはすっかり夕暮れの頃だった。
森の中を遭難していたはずの茜だったが、疲労はそこまで溜まっていないように感じて不思議な気分になる。
「あの、小春さん。少し伺いたいことがあるのですが」
「はい、どうぞ。それと、わたくしには敬語は無しでも構いませんよ」
「ええと……それじゃあ、わたし、こんなにたくさん歩いても全然疲れていないように感じるのだけど、どうしてなのか知ってたり、しますか」
敬語はやっぱり抜け切らなかったけど、少し柔らかい口調にできたかもしれない。
「それは女神様の力です。お仕えしている巫女は皆、病気や怪我とは無縁なのですよ。それは茜さんも同じです」
「……そう、なんですね」
そんなに優しい女神なら元の世界にすぐ返してくれたっていいだろうに、とも思う。
ただ、そう簡単にはいかなそうということはわかった。
そうやって思考している茜を少し気にしながら、それでも話を進める小春。
「さてと、最後にこの部屋についてですね。真ん中で区切ってこちら側がわたくしの、そちら側が茜さんの好きに使える空間ですので、自由に使ってくださいね。布団は奥の押し入れの中に仕舞ってありますので、毎晩寝る時に取り出してください」
「は、はい」
「基本的にこの国では二人一組で部屋を共有している場合がほとんどです。茜さんも、何かあったらわたくしに声を掛けてくださいね、助け合っての生活ですから」
これでわたくしから今日お伝えすることは以上です、と言って微笑む小春。
その様子はここに来たばかりの茜を気遣っているように見えた。
「あの、小春さん」
「はい、なんでしょうか」
言いたいことがあって呼びかけてみれば、穏やかな笑みが茜を見つめ返す。
「わたし、最初、小春さんに変なことを言ってしまってすいませんでした。怖がらせてしまったみたいで、ごめんなさい」
「いえいえ、わたくしも少しびっくりしましたが……何かご事情がおありなのですよね」
「そう、です。小春さんが、わたしの幼馴染とそっくりな顔をしていて、それで」
初対面の相手にこんなことを言ってしまっていいのかと悩みながら、言わないままでいるのも良くないと思って謝罪の言葉と共に事実を告げる。
一体何と返ってくるか少し恐れて、顔を上げると彼女はまだ笑みを浮かべたままで。
「じゃあ、わたくしがその方の代わりになれるように、茜さんを安心させられるように頑張らないといけませんね」
「小春さん……」
ひとまず、目の前の少女に嫌われるという未来だけは避けられたようだった。
ただ、この先自分がどんな風にこの場所で暮らしていくのか、その想像は茜には全くできていなかった。