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茜を助けたその少女は、不審人物でもあろう茜に動揺する気配すら見せず、ただ後に付いてくるように言って敷地を奥へと進んでいく。茜はそれに身を任せるしかなかった。
彼女に従って歩いていると、ひとまず助かったという安心と同時にここはどこなのだろうという不安がよぎる。
こんな山奥に女の子が一人で過ごしているような場所があるなんて、現代日本からすると少しも想像できなかった。
それに歩いている途中ですれ違う光景も少しおかしいと思った。
今茜を先導している子と同じような年代の少女たちと何度か遭遇したが、皆一様に彼女と同じ巫女装束を纏っており、こちらを一瞥するとそれをさほど気にしないかのように元の行動に戻り始めた。
その対応がなんだか怖かった。
まるで自分がここに来ることに何の違和感も抱いていないような仕草。
遭難した時と同じくらいの不安と緊張が全身を駆け巡る。
やがて連れていかれたのは、寝殿作りのうち一番大きな建物の中の一室。
案内の少女が襖を開けた先に待っていたのは、柔和な面持ちをした長身の少女だった。
「円佳様、迷い子の方をご案内してまいりました」
「はい、案内ありがとうね。もう戻っていいわよ」
「それでは失礼します」
そう言って案内役の少女は下がっていってしまい、茜が一人残される。
「ええと、とりあえずそちらに座ってくださいね。椅子がないのは申し訳ないのだけど……」
「あっ、はい。……ありがとうございます」
目の前に用意されていた座布団に座って荷物を置く。
そういえば正座するなんて何年振りだろうか。足がしびれそうで不安。
「先に自己紹介をしたほうがよさそうね。うちは九条円佳、この女神の国の巫女たちを取り仕切る役目を担っています」
「えっと、わたしは雁瀬茜といいます。よろしく、お願いします……?」
「茜さんね。じゃあ今茜さんが気になっているこの場所についてお話ししますね」
ごくりと息を呑む。
自分の人生の行く末が彼女の語る内容に懸かっているとしか思えなかった。
「ここは女神の国。女神様を祀り、それに奉仕する巫女の少女たちが集まる場所です」
「女神様って、あの大きな神殿にいるんですか?」
「そうです。そこにいらっしゃる女神様に日々お仕えし、共に生活しているのが我々です」
寺社仏閣を巡るのは趣味だけど、仏様や神様が本当にいるかなんて深く考えたことはなかった。
だから、今目の前で語られているその内容も何かの間違いだと切り捨てることだってできたけれど、茜はそうはしなかった。
その語り口と表情はいたって真摯なものに見えたから。
「じゃあ、ここはいわゆる俗世とは違う世界……ということですか」
「そうなりますね。茜さんは何かの理由でこの国へ迷い込んでしまったのでしょう」
そして、彼女に逆らう理由がなかったというのも、特段否定をしない理由の一つだった。
茜が直感的に感じていた通り、どうやらここは今まで茜がいた世界とは違う場所らしい。
そこに迷い込んで、助けの船を自ら手放してしまったらいよいよ本当に死んでしまう。
「でも心配なさることはありません。もし茜さんがよければ我々と共にここで暮らしましょう」
「……それは、衣食住は保証されるということですか」
「はい。衣服は準備できますし、住居もこの通りあります。食事も出ますので」
それを断る理由はなかった。
今必死に帰り道を探しに戻っても、見つけられるとも思えなかったし、正直そんな体力も残っていなかった。
だから、その言葉に甘えることにした。
ここで暮らして、どこかのタイミングで元の世界に帰るきっかけがあれば、と思った。
何より彼女が発したこんな言葉に惹かれてしまった自分がいた。
「女神の国はとても平和な場所です。諍いもありませんし、災害が起きることもありません。それに、ここにいる巫女たちは皆良い子ばかりです。茜さんのこともきっとすぐに受け入れてくれるでしょう」
人が多い場所はあまり好まない、騒がしい場所にはいたくない、モノや情報がひっきりなしに行き交うような空間は苦手。
そんな茜にとってこの場所はある意味ユートピアなのかもしれないと思った。そしてここにいる人たちも、目の前の彼女と同じように温厚で穏やかな性格の人が多いのであれば、茜にとっては都合がよかった。
そんな理由と打算もあって円佳の提案を承諾すると、茜のここでの暮らしはあっという間に動き出した。
彼女が他の巫女に声を掛ければ、新しい子がやって来るという話はすぐに広まって、受け入れるための準備が始まった。
そして茜は円佳に連れられて、これからの拠点かつ寝室となる部屋へ案内されることになる。
大きな建物を出て、改めて周りを見渡すと本当に中世の時代にタイムトラベルしたかのような感覚だった。
現代日本のインフラなんてものは一切見当たらず、水をくみ上げるのは井戸、火を起こすのは焚火、灯りを付けるのは灯台。
ふと思い出してスマートフォンを取り出せば電源はつかないし、こんな山奥は現世であってもWi-Fiも届かないだろう。ましてやこの世とは違う場所に来てしまったのだから電話が繋がるはずもない。
でも、その分五感を全部使って今いる場所を感じる。
日差しは穏やかで、風も心地よい。流れる空気は春なのか秋なのか、寒くも暑くもない適温だった。
見上げた空は澄んだ青色で塗られたようにすっきりしていて、空を眺めて静かに過ごすには適した場所に思える。
辺りからは土の匂いとでも言うべき自然界の香りが漂って来るけれど、それは強すぎなくてむしろ程良く安心する匂いだ。
そうして歩いているうちに別の建物に入って、少し入り組んだ奥へと入っていくと、円佳が一つの部屋の前で立ち止まる。
そこで襖越しに声を掛けると、中から「はーい」と返事が返ってきたので中へ踏み入れて。
その先で待っていたのは―
「茜さん、今日から茜さんと一緒に暮らすことになる子は……あら、茜さん、どうしたの?」
「……ほの、か?」
茜は息を止めて立ちすくんだ。
襖の先で茜を出迎えた少女は、幼い頃からずっと一緒にいた幼馴染だったから。
「穂香! なんでここにっ!? どうして、どうして穂香までここにいるのっ!?」
「ひゃっ、な、なんですか突然っ!?」
「茜さん、ちょっと待って!」
「穂香っ、わたしだよ、わかるよねっ!? わたし、茜だよ、ねえ!!」
どうしてここに彼女がいるのか。
茜は激しく動揺して自分が何を言っているのかもよくわからなかった。
どうしてこんな場所に大切な彼女が当たり前のように佇んでいるのか。
一刻も早く連れて帰らないといけないのに。
「あのっ、わたくし、小春といって!」
「穂香っ! 何を言ってるのっ、早く正気に戻ってっ!!」
「茜さん、落ち着いてくださいっ」
取り乱した茜は結局数分間にわたってその場で混乱を続け、それが落ち着く頃にはすっかり疲れ果てて肩で息をしていた。
そして、目の前の少女は幼馴染とは全くの別人であることを理解したのもその後だった。