15
巫女舞を終えた翌朝、茜はこの国の人たちへの挨拶回りをしていた。
茜がこの国を去ることは女神と話をした後にすぐに国全体に知られることになり、特に小春には直接そのことを伝えた。
あなたの気持ちには応えられないということ。
でも、あなたのことを好いている気持ちは変わらないこと。
小春はそれに黙って頷いて、茜の気持ちを尊重してくれた。
最初は辛そうに寂しそうにしていたけど、その後には笑ってくれて。
また、落ち着いたら話をしようと思って、だけど中々それを切り出せないまま翌日になってしまった。
そんな茜は食事処に朝早くからやって来て、朝餉を摂りに来る巫女たちに順番に挨拶をしていた。あまり話したことのない人、少しだけ距離が縮まっていた人、頻繁に会話をしていた人、分け隔てなくお礼を伝える。
この国で穏やかに暮らすことができたのは周りの人たちが優しかったから。
そして、その言葉を受け取った少女たちも温かく見送ってくれた。
特に共に行動をすることが多かった雪音と蓮華は一段と寂しそうにしていた。
「茜さん、本当にここから出ていってしまうのね。ああ、寂しくて私泣いてしまいそうなのだけど……」
「茜っ、向こうに戻っても元気でやるんだぞっ! いっぱいお話ししたこと、あたし絶対忘れないからなっ!」
蓮華に至っては話をする前から瞳いっぱいに涙を浮かべて泣き始めていた。
そんな蓮華には優しく頭を撫でてあげて、雪音とは手を取ってお別れをする。
ここで楽しく暮らせた大きな理由でもある二人との別れには茜も思わず涙が溢れそうになるのを堪えた。
そうして挨拶を終えた後、部屋に戻ると見慣れない人影がひとり。
それは女神が遣わした使いだった。薄く霧のように消えてしまいそうな面影はここに暮らす少女たちと異なる存在であることを示しているようで。
それじゃあ出ていく時間だ、と思って最後に部屋の中を見渡す。
家具もほとんどない静かな部屋、だけど落ち着く空間。そして―
「茜さん、出ていく前に着替えていってくださいね。向こうの世界に戻った時、和装だとびっくりされてしまいますよ」
小春は普段通りの様子で佇んでいる。
そうして長持ちから取り出してくれたのは茜がここに迷い込んだときに着ていた洋服一式だった。小春はそれらを丁寧に保管してくれていた。
「茜さん、わたくしも帰り道に付いていきますね。一人にさせてしまうのは不安ですから」
そう告げた小春は表面だけはすっきりしたような表情に見えて、その奥に茜への想いをまだ押し殺しているように感じた。
それを指摘していいのかわからなくて、茜はその言葉に頷いて一緒に部屋を出ていく。
寝殿を出て、住み慣れた里の建物や木々をひとつ通り過ぎる度に、もう二度とここには戻ってこれないことを感じる。
一歩一歩の足取りにこれまで過ごしていた期間の重みが乗る。
里を抜けて、森の入口へと向かう砂利道に入る。
景色は徐々に人里から山の光景へと移り変わっていき、それでも隣を歩く小春は何も言わない。
どれだけ歩いただろうかと振り返ると、毎日を過ごした里はすっかり遠くに見え、色々な思い出が走馬灯のように蘇ってくる。
迷い込んだ時のこと、小春と一緒に過ごした静かな暮らしのこと、他の少女たちと共有した時間のこと、巫女舞の練習に励んだ時のこと。次々に脳裏を駆け巡ってはひらめいて消えていく。
だけど、それを止めたのは女神の遣いが告げた声と、それを聞いて茜の手を握り締めた小春の手のひらだった。
気付けば目の前には赤い鳥居。
その先は淡い光に包まれた山道。
「こちらが現世への帰り道になります。それでは私はここまでで」
女神の遣いはそれだけ言い残してすっと消えていく。
後はこの鳥居をくぐって、その先へ歩いていくだけだった。
でも、最後に。
小春とちゃんと話をしたい。しないといけない。
「小春さん」
「はい、茜さん」
「改めて、小春さんの気持ちには応えられなくてごめんなさい。ちゃんとその理由を伝えさせてほしいんです」
「はい……聞かせてください」
小春はうつむきがちに、でもしっかりその言葉を聞こうと耳を傾ける。
「わたし、この場所に来て気付いたんです。今までずっと一人で生きていたくて、色んなことから逃げていました。でも小春さんやこの国の人たちを関わるうちに、わたしは本当はもっと頑張れるんじゃないかって。……だから、それを試してみたいんです」
一つ目の理由。元の世界で自分を試してみたい。
「それと……わたしの幼馴染のことがやっぱり忘れられなくて。彼女とちゃんと向き合わないとわたしは後悔する。でも、それを乗り越えればきっといい未来だってあるはず、そう思うんです」
二つ目の理由。元の世界に置いていた幼馴染のこと。
それを聞き届けた小春は、もう一度両の手で茜の手を取って。
涙で瞳を潤ませながら、それでも笑ってみせた。
「茜さんが、たくさん悩んで考えて決めたことですから、わたくしはそれを応援します。で、でもっ、わたくしが茜さんの一番になれなかったのは、少し寂しい、ですっ……」
涙がこぼれそうになるのをぐっと堪えて、それでも言葉を紡ぐ。
「茜さんはとても優しくて、とてもいい人です。だから、元の世界では辛いこともたくさんあるかもしれませんっ……でも、それを乗り越えて、大切な人の力を借りて、そうやって生きていけば、きっとこの国にはない楽しいこと、幸せなこともたくさんあるはずです」
それでも涙を振り切って、小春は最後に伝えたい言葉を口にする。
「茜さん、どうか、強く生きてくださいっ……大好きです」
そうして茜の頬に口付けをひとつ落とす。
小春から茜へ、いっぱいの想いが詰まった最後の贈り物だった。
「小春さんっ……」
「えへへ……唇への口付けは、大切な人のために取っておいてください」
そう言ってにっこりと笑ってみせた小春。
茜もその気持ちをまっすぐに受け取った。
「小春さん、わたしも大好きです。……どうか幸せに暮らしてください」
「はい、茜さんっ!」
さようなら、わたしに大切を教えてくれた人。
その言葉を最後に二人の手が離れる。
もう一度だけ互いの瞳を見つめ合って、こくりと頷き合って。
茜は背を向けた。
もう二度と会えない人、もう二度と戻ってこれない場所に。
だけど振り向かずに鳥居をくぐって、その先へ歩み出す。
淡い光に包まれた道の先へ、一歩一歩確かに踏み出して―