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雁瀬 茜は静かな場所に来るのが好きだった。
人が多い場所はあまり好まない、騒がしい場所にはいたくない、モノや情報がひっきりなしに行き交うような空間は苦手。端的に言うと社会に居づらい。
つまるところ俗世から離れたような空間にいるのが一番理想的であった。
それもあって高校に入った頃から始めた寺社仏閣巡りという趣味は半年以上も続いていた。
そして今訪れている山奥の深い場所にひっそりと佇んでいる小さな神社も、茜の現実逃避という欲求を満たすには十分な環境だった。
本や雑誌にはあまり取り上げられることなく、ネット上で同じような趣味をしている人たちがブログの記事にしたり、SNS上に投稿したりする程度でしか情報が得られない本当にこじんまりとした場所で、土日にもかかわらず参拝客は茜以外には見受けられない。
おおよそ女子高生と呼ばれる類の人間にはなかなか聞かないというか、はっきり言うとかなり珍しい趣味をしている自覚はあったが、それでも茜は構わなかった。
誰に何と言われようが、自分に満足をくれる趣味なのだから。
境内と呼べるほどの広さもない敷地内をゆっくりと散策する。
本殿が建っているその場所を中心にして少しの半径だけ参拝者用に道の整備がなされていたが、そこから外は山肌そのもの。建物のすぐそばまで樹木が迫っており、それを管理しようとする人影は見当たらない。
そこでスマートフォンを取り出して一枚だけぱしゃりとその自然の脅威に溢れる光景を収め、それだけ撮ったら満足してポケットにしまう。
この景色を視界に入れて十分噛み締めることこそが茜にとっての俗世からの逃避、その楽しみであった。
人の手によって造られた神社と、それを喰らい尽くさんとする自然が絶妙なバランスで共存している姿。そんな光景が静謐な空間の下に成り立っているというのは奇跡的なことだと思ったりする。
その場でぼーっと佇んでみたり、ゆっくり歩き回って横から後ろから建物を眺めてみたり、そこらへんにしゃがみ込んで空を見上げるような構図で景色を楽しんでみたり、そういう楽しみ方をしていた。
自宅の最寄り駅から電車で2時間、更にバスで30分揺られて、そこから歩いて更に30分。
それだけの距離を移動して辿り着いた場所だが、その甲斐もあったといえるだろう。
たっぷり1時間この場所を楽しんで帰路に着く茜の表情は晴れ晴れとしていた。
だから、帰り道の途中で散策路という看板を発見して、そちらにふと足が向いてしまったのは好奇心からだった。
さっきはあんなに凄い光景が見れたのだから、きっと散策路でも素敵な景色が見れるに違いないと。
そんな興味で茜は帰り道を一本逸れた山中の散策路に足を踏み入れた。
だから、その散策路の看板が実はかなり古いもので、途中で何度も出てくる分岐点の看板すら正誤が危うくなっていたことには気付けなかった。
結局のところ、今自分が遭難しかけているという事実に茜が気付いたのは散策路に入ってたっぷり30分が過ぎた後だった。
―――
「あれ、ここどこなんだろう……」
声に出してみても返事をくれる者はない。
鳥の鳴き声すらも聞こえなくなった山中で茜は途方に暮れていた。そして同時に慌ててもいた。
このままじゃわたし遭難ってことだよね。
誰にも見つけてもらえなかったら山奥で食料も水も尽きて餓死……とか?
というか遭難者の救助ってすごくお金かかるんだよね、親に迷惑掛けたらどうしよう……
慌てる方向が自分の命でありつつ、周りのことでもある辺りにこの少女の歪さが垣間見えたがそれはいい。
取り急ぎ知っている道へ戻ることこそが彼女の急務であったが、周りを見渡してもただひたすら木々が立ち並ぶだけ。どの方向へ向かえばいいのかすらわからず、足元のけもの道のような路面をゆっくりと踏みしめて歩いていく。
遭難というのはしたくてするものじゃないのだけど、いかんせん経験したことのないものだから焦る。
じわりと手から汗が噴き出して緊急事態であることを否応なく実感させられる。
背負ったリュックサックの中に入っているのはペットボトルのお茶が2本と、お菓子が少しだけ。
このままでは本当に食料が尽きてしまうので早くここを抜け出さないといけない。
その一心で茜の足は動き出す。
とりあえず目指すべきは光が多い方。
その方が開けている場所に繋がる可能性が高いと思ったから。だけど、その判断が正しいのかもよくわからない。
歩きながらふと樹海というのはこんな感じなのだろうかと朧気に思う。
辺りを自然という名の目隠しで覆われて、太陽の方向すらわからなくなって、やがて何もわからなくなって。
だから、それに引っ張られるように自分の意識もぼんやりとしてきて、何分経ったのかを確認しようとスマートフォンを取り出す動作すらしなくなり、ただふらふらと道を歩き続けていたところで。
ふと、目の前の方から光がぱぁっと差し込んだように見えて、茜はそちらへと走り出した。
木々の間から漏れ出ている光は眩く、そこには何かしらの開けた土地があることが想像できた。ならば、そこに人もいるだろうと思った。
木々の隙間を抜けて、ふと森が途切れて、光の眩さに一瞬目がくらんでその先に広がっていた光景は―
「えっ……何、ここっ……」
まるで中世の日本にタイムスリップしてしまったかのような景色だった。
平安時代の貴族が住んでいたような寝殿作りの建物がひとつ、ふたつ、みっつと立ち並び、その周囲は松の木や池といった日本庭園のような造られた自然が広がっていた。
そしてそれらの建物の奥にはひときわ目を引く大きな建物がひとつ。
神社の本殿を更に大きくしたような豪華なその建物は遠くから見ても存在感を放っていて、その側を流れる大きな滝も荘厳さを増幅させているようだった。
そして今茜が立っている場所を見上げれば、真上には真っ赤な鳥居、そしてふと前方に視界を戻せばそこを歩いている人影と目が合って―
「あっ……」
その人影がこちらにまっすぐ歩み寄ってくる。
遠くからだとわからなかったが、近付いてくるとその人影は自分と同じ年頃の少女だとわかった。
そして彼女は神社で見かける巫女装束を纏っていたから、もしかしてあの神社の関係者なのだろうかと少し思った。
だけど、茜の正面までやって来た彼女の第一声はまるでそれとは関係ないと言わんばかりで。
「迷子のお客さん、女神の国へようこそいらっしゃいました」
「えっ……迷子は、そうですけど……国ってなんのこと」
「道に迷ってらっしゃるのですよね? わたくし共がお助けします」
そこできっと茜は悟っていた。
この場所は今日訪れた神社とは関係のない、全く違う場所なのだと。
そして自分がそこに迷い込んでしまったということも。