第三章 立ち込める暗雲 その三
一週間後の約束の日、スラム街には桜を散らすような雨が降っていた。
商店街の人通りはいつもよりやや少ない程度である。それなのでスラム街に車を乗り入れるためには、人や物の障害物を避けながら狭い道を通らなければならない。それは難しいのか約束の時間を過ぎても神威の近藤という男はやってこなかった。
アミが家の前で神威の人間を待っていると、しばらくして黒塗りの高級車がゆっくりとやって来た。
その高級車から男が降りてきた。細身で背筋がピンと伸びた高身長のスーツ姿、眼鏡が似合い髪の毛を少量のワックスでしっかり整えた爽やかな壮年の男だった。
「本日はお時間をいただきありがとうございます。神威総合テクノロジーの近藤の代理で来ましたエージェントの土方です」
「お、……お待ちしておりました。あたしがアミです。……えっと、こちらへ……」
アミは手紙の返事に、今日の話し合いはアミの家で行いたいと明記していた。
アミは土方を家へと案内する。
四畳半の部屋の真ん中にちゃぶ台を置き、座布団を二枚対面するように敷いた。そしてちゃぶ台を挟んで奥へ土方を誘導し、アミは入り口側に座り込んだ。そして今回の主役となるイオはアミの膝の上にいる。
「粗茶ですが」
アミはそう言って土方に準備していたお茶を差し出した。
お茶は透明なコップに入っていた。土方は「頂戴します」と言ってコップを持ち上げた。目の前までコップを持って、じっくり時間を掛けてお茶を観察する。
「素晴らしい透明度です。私にとっては当たり前ですが、これだけ澄んだ水を用意するのはアミさんとっては大変なはずです」
そう感想を述べると土方はコップを置いた。
「あ、ありがとうございます……」
アミは自分の成果を褒められて、ただ純粋に嬉しかった。正直、アミは神威を警戒していたが、少しだけ警戒心が和らいだ。
「さて、早速本題に入らせていただきますが、イオについてです。イオは我が社、神威総合テクノロジーが開発したエーアイロボットです。正確には、イオは近藤が責任者を務めるエーアイ開発部で創られたものです」
アミは頷き、イオも少しの間静かにしている。
「イオの能力には高い価値があります。しかし、その一方でイオには非常に危険な面もあります。分かりますか?」
「そ……そんなことありません! イオはいつだってあたし達を助けてくれました。イオは優しくて、賢くて、正しくて、あたしとイオが一緒に暮らして危なかったことなんて一度もありませんでした……」
アミはイオを強く抱き締める。
イオはじっと黙っているが少し震えていた。
土方は少し怒っているような怖いくらいの真剣な面持ちを見せる。
「イオは元々高度なエーアイを搭載したロボットとして開発され、様々な任務をこなすことが期待されていました。しかしテストの過程で一度制御を失い、その結果、遺憾なことに人が傷つく事件になりました。そのため我々神威としましては安全性を考慮し、イオを廃棄するという苦渋の決断をしたのです」
土方は所持していた鞄から一冊のファイルを取り出した。土方は「ここには『社外秘、十三号事件詳細とリスク評価』と書かれています」と平仮名しか読めないアミに説明しつつ、それをちゃぶ台の上に置いた。
どうやらこのファイルには、イオが起こした事件の詳細が記載されているらしい。
「アミ様。イオに資料を見せて下さい」
アミはファイルを手に取り、イオに見えるように広げた。字が読めないアミには文面は読み取れなかったが、ファイルには写真が添付されていたため、少しだけ内容を理解することが出来た。
最初のページには頭部だけではない、胴体と細長い腕、キャタピラのような足を持つイオが普通の人達と思われる家族と共に写っていた。その写真には赤ん坊を抱いた母親を中心に、母親に寄り添う子供と母親を後ろから抱擁する父親がいた。
ファイルのページをめくると家事や、子供の遊び相手、赤ん坊の世話といった家庭の中の仕事をこなすイオの様子が写されていた。
そして後ろのページの方に、顔に大きな痣を作った赤ん坊と子供が写っていた。そして最後のページには気絶している母親の写真が写っていて、病院の診断書と思われる一枚の紙も添付されていた。
「我々神威はイオをある家族の元に送り、試験運転を実施しました。ただその家族には時折お母様が興奮して感情を抑えられなくなり、子供や幼児を攻撃してしまうという問題がありました。イオはお子さんを守るために、過って暴漢対策用のスタンガンでお母様を攻撃してしまったのです」
土方はアミにそう説明する。
この事件において、イオだけが完全に悪い訳ではなかったと土方は付け加える。だが、ロボットが主を傷つけたことは事実で、これはロボット倫理に反する重大な事件であると土方は説明する。
「アミ様、……イオは、イオは危険なロボットかもしれません」
一通りファイルを読み終えたイオがそう言った。イオは落ち込んでいるようだった。ほら、イオはこんなにも人間らしいとアミは思う。
「人間だって不完全で沢山間違えるのに……何でロボットに完全を求めるんですか……? 完璧でなくたって良い。あ、あたしは、……ただイオに寄り添いたいです」
土方は深く溜息を吐き、アミを憐れむような視線を投げかけた。
「アミさん、お気持ちは分かります。ですがイオを今のままにしておくことがイオにとって、そして社会にとっても最良の選択とは限りません」
アミは何も言わずに黙り込んでしまう。そして抱き締めたイオを優しく撫でる。
「……結局、イオをどうしたいんですか?」
遂に、アミはそう尋ねた。
土方は優しく微笑み、諭すようにアミに話しかける。
「アミさん、……貴女はイオの可能性を復活させてくれました。一度はイオを廃棄した我々ですが、イオが安定したまま大きな事件もなく運用され、功績を挙げたことが社内でも評価されました。今回、私達はイオを回収した後、改良してより安全で有益な存在にしたいと思っています」
アミは再びイオの頭部を見つめたまま、土方の言葉を考え続ける。
「でも、もしイオがまた制御を失ったら……それは怖いことですよね。でも、今度は廃棄しないって信じて良いんですか?」
土方は力強く頷いた。
「はい、約束します。今度こそイオを正しく安全に運用出来るように、社会に貢献出来るようにします。そしてイオが再び制御を失わないように、総力を挙げて徹底的に改良を行います。アミさん、イオが貴女達に与えた知恵を更に多くの人々にもたらすために、どうか協力していただけませんか?」
アミは目を閉じて深呼吸をした。
そしてアミはイオに問う。
「……イオ、どう思う?」
イオの目が淡く光り、応答した。まずイオは「アミ様やスラム街の色んな人と過ごした日々を大切に思います。だから別れは心苦しいです」と告げた。その上でイオは静かに自身の考えを述べた。
「イオの存在が危険を伴うのであれば、回収されるのもやむを得ません。イオはどんなことがあってもアミ様を傷つけたくありません。安全が確保された上で、イオは人々の生活のために尽力したいと考えます」
「『安全が確保された上で、人々の生活のために尽力したい』か……。とってもイオらしいと思う……」
イオの言うことは正しい。土方の言うことも正しい。だから今自分が望んでいる『イオの独占』は単なる子供のわがままだ。それがアミには分かった。しかし頭では分かっていても心までは偽れない。
「少し、考えさせて下さい……」
アミは喉から絞り出すように、そう答える。
「正しい決断をお願いします」
こうしてアミと土方のイオについての話し合いは終わった。
ちゃぶ台に置かれたファイルを片付ける時に、ふとアミは気付いた。アミが土方に出したコップに注がれたお茶は一口も飲まれていなかった。
アミはイオを抱えたまま土方と共に部屋を出る。雨の中、外に待たせてある黒塗りの高級車に土方が乗り込むところを見送る。その時、車の暗い窓ガラスではっきりとは見えなかったが、ぼんやりと土方が鞄の中からペットボトルを取り出して何かを飲んでいる様子が見えた気がした。
「あたし、あの人のこと信じて良いのかな……」
アミはゆっくり徐行しながら去る高級車を見送りながら、そんな独り言をぼやいた。