第三章 立ち込める暗雲 その二
今日は運が良く雲一つない晴天だった。春の暖かい空気、澄み渡った青空は心を晴れやかにしてくれる。
アミはスラム街のゴミ処理問題に頭を悩ませながら、ゴミ山の近くに立っていた。目の前にはそれぞれビニール袋に詰められた燃えるゴミと燃えないゴミが山積みになっている。積もり積もった袋の数に一瞬気が遠くなりそうだったが、アミは決意を新たに足元の袋を一つ拾い上げた。
「よし、やるかぁ」
アミは袋の結び目を解き、中のゴミを一つ一つ取り出して分別を始める。金属製の玩具が燃えるゴミの袋に入っているのを見つけたとき、お腹側に下げたリュックサックの中のイオが声を上げた。
「この玩具は燃えるゴミではないとイオは分析します」
「こういうのが一番困るんだよね……」
アミは玩具を慎重に取り出し、資源ゴミの袋へと移す。他にもプラスチックの容器やガラスの破片が混ざっており、手際よく分別し直していく。こういった異物が焼却場で燃え残れば、設備に重大な損傷を与える可能性がある。それを防ぐためにも、アミの作業は欠かせなかった。
「まぁでも、ゴミの分別なんて知らなかった頃を考えたら、……進歩かなぁ」
アミは呟きながら、分別したゴミを丁寧に袋に戻す。
アミはスラム街の人々にゴミの分別を広めるため、地道な努力を積み重ねてきた。手書きの分別方法をまとめたチラシを配り、スラム街の各所にゴミ箱を設置するよう依頼し、分別の一覧表を掲示して住民に理解を促した。
その成果は確実に現れつつあった。以前はゴミが至る所に放置されていたが、今では所定のゴミ箱に入れる人が増え、分別への意識も少しずつ根付き始めている。
「何事も最初はこんなもんかぁ」
アミは腰に手を当てて大きく伸びをした。
するとゴミ山の向こう側から元気な声が響いた。
「アミちゃん、こっちも見てくれぃ」
ゴミ山の向こうからお爺さんがアミを呼んだ。
ありがたいことにアミやイオの表彰式を経て、スラム街へ支援をしてくれる人やボランティアが増えた。このお爺さんもその内の一人で、今アミの手伝いをしてくれている。
「アミちゃん、こっちは上手くできているよ」
「本当だ」
お爺さんが見せてくれたのは、資源ゴミの分別状況だった。空き缶や空き瓶、新聞紙、壊れた家電などが種類ごとに整理されている。これらの資源ゴミは適切に処理すれば少額ながらも収益を生む。
「ふふふ、皆、お金になることには真剣なんだからぁ……」
アミは忍び笑いを漏らしながら、きちんと整理されたゴミ袋をチェックした。燃えるゴミや燃えないゴミよりも遥かに整然とした状態が微笑ましい。
アミとお爺さんが資源ゴミの整理をしていると、突然プルルルルという電子音が響いた。お爺さんは慌ててポケットをまさぐり、携帯端末を取り出す。電話を受け取るお爺さんの顔が急に険しくなった。
「もしもし……アミちゃん、大変だ!」
「どうしたの?」
「塾で大喧嘩だって!」
アミは手にしていたゴミ袋を落とした。
「嘘でしょ!」
アミは驚愕の声を上げる。
お爺さんは腕を掴んで急かし、アミは大急ぎでその場を飛び出す。ゴミ処理のことは一旦置いておいて、アミの頭の中は塾のことでいっぱいだった。
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今日、塾では近所の人が見学に来ているはずであった。普通に考えれば生徒は良い所を見せるように、自分が良い子であるように振る舞うだろうと思われる。そんな中で喧嘩が起きるとは、よほどのことがあったのだとアミは思った。
アミは慌てて塾へと戻る。
しかしアミの予想は裏切られることになる。
「なーにが大喧嘩よ! よ! よ! 嘘吐き!」
塾へ着くと喧嘩など起こっていなくて、全員が満面の笑みであった。
なぜか塾がある辺りの露店は早く閉められていて、その狭い通りに数十人のスラム街の住人が集まっていた。そして塾の直ぐ外の露店スペースに炭火焼きのグリルが設置され、満開の桜の下でバーベキューが行われていた。肉や野菜がジュウジュウと焼かれている。風が吹くと桜の花びらが舞い、香ばしい匂いが辺りに流れる。
バーベキューの参加者は塾で勉強をするのに使っている机と椅子を外に出して座っていた。各々の席で大人は酒を煽り、子供はジュースを珍しそうに飲んでいる。そして全員が串に通された肉や紙皿に盛られた野菜を美味しそうに食べている。
アミも力強く串に通された豚肉に食らいつき、これをむしゃむしゃと食べた。肉汁が口の中に広がり、ほっぺたが落ちそうな感覚に陥る。
「いやぁ! アミちゃんを驚かせたくて」
ゴミ山で一緒だったお爺さんがアミにペコペコと平に謝る。そうしてお爺さんは昼間から紙コップに注がれたビールを煽り、アミにもこのビールを勧めた。
しかしアミは両腕を胸の前で交錯させ、バツ印を作る。
「未成年ですので!」
「まぁまぁ本日の主役なのでね……。とりあえずの駆け付け三杯」
そう、このバーベキューはアミとイオが主役の感謝祭であった。市が表彰式をしたので、スラム街でも祝ってやろうとアミとイオに隠して企画されたようであった。もっともイオは勘づいていた様子であったが……。
「その発言はアルコールハラスメントに該当するとイオは警告します」
アミの膝の上に置かれているイオがアミを守るためにそう言う。アミも「うんうん」と賛同して頷く。
「じゃ、じゃあ、このコーラを飲んでくれ!」
お爺さんが慌てた様子でビールを下げ、アミの紙コップに黒っぽい液体を注いだ。
アミは何のジュースなのだろうかと不思議そうにその液体を眺めて「皆、昼間から呑む口実が欲しかっただけでは?」とぶつぶつ文句を言いながら口に含む。そして次の瞬間にはその黒っぽい液体を口から盛大に吹き出し、飛沫をお爺さん浴びせた。
「こ、これは、炭酸!」
アミは炭酸のジュースなんて贅沢な代物を飲んだ経験がほとんどなかった。だから口の中で弾ける感覚に驚いてしまった。しかし嫌ではなかったので、二口目からはこの黒っぽい液体を良く味わって飲んだ。
「どうだいアミちゃん」
「これが噂に聞くコーラか……。なるほど、癖になりそう……」
アミはげっぷをしながら舌鼓を打つ。
「実はこのコーラ、このスラムで作られた代物なんだ。コーラの水はアミちゃんが浄化したものって話さ」
「へえぇ……。うぅぇぇぇえええええ! 何それ凄い! こんなの作れちゃうんだ!」
「皆、アミちゃんやイオ先生に感化されたのさ。金がねぇと話にならねぇって色んな物や事を諦めていたが、やる気があれば何でも出来るって分かって、どんどん新しいことに挑戦しているのさ」
お爺さんはアルコールで真っ赤になった顔をほころばせた。
アミの座っている席に数人のスラム街の住人が集まって来る。
「今日はご馳走だよ。アミちゃんもどんどんお食べ。イオさんも楽しんで」
「わあ、お肉がこんなに沢山!」
スラム街の住民達が集めたバーベキューの食材が、アミの座っている席に並べられた。アミは住民達と一緒に楽しい食事をする。美味しい物を満腹になるまで食べ、その幸せを噛み締める。
その食事の最中、アミとイオは住人達とスラム街に関する色んな話をした。
「読み書き、それに四則計算、これが出来ると働き口が沢山増えるからねぇ。この塾はありがたいよ」
いつも厳しい塾長のミナコさんもそう言って、珍しくアミを褒めた。
「コタロウ様、勉強は好きですか?」
「んー……。好きじゃないけど、先生と皆で勉強するのは少し楽しい……」
そんなことを塾の子供達はイオに話していた。
イオは感情を表すようにガタガタと振動し、目を点滅させていた。イオはどうやら照れているらしく、それからずっと上機嫌な様子であった。
「君達が来てくれて本当に良かった。私達の暮らしが変わったんだ」
長年このスラム街に住む老夫婦がそうしみじみと語る。「スラムに良い風が吹いている」とアミの手を取り、イオの頭を撫で、そして頭を下げる。
「そ、そんな、頭を上げて下さい。皆の力があってこそなんです。あたしなんて本当にイオや皆がいないと何も出来なくて……」
「イオも自分だけでは問題に対し、手も足も出ないです。アミ様や皆様がいたからこそとイオは断言します」
食事が進む中、アミとイオは住民達から感謝の言葉を次々と伝えられる。そんな温かい雰囲気の中で、アミはふと感極まって少し涙ぐんでしまった。
そうして感謝祭は和やかな雰囲気に包まれたまま、日が暮れる頃に終わった。
アミは住人達と共に後片付けをする。外に出した机と椅子を綺麗に雑巾で拭き、塾の中に戻す。その作業があらかた完了すると、アミは家の郵便受けの前で何やら思案している様子のミナコを見かけた。
「アミ、あんたに手紙だよ」
「お手紙? あたしに?」
アミはミナコから一通の封筒を受け取る。
それは人生で初めての自分宛ての手紙であった。
「漢字が読めない……。差出人が分からない……」
アミは最近ようやく平仮名とカタカナをゆっくり読めるようになったばかりで、漢字は簡単なものや自分の名前くらいしか分からない。困ったアミはイオに封筒を見せる。
「神威総合テクノロジー株式会社と書いてあります。アミ様、心当たりはありますか?」
「神威……」
それはこの国に住む人なら誰でも知っている。全国、特にこの界隈では政治と経済の両面で甚大な影響力を持つ大企業であった。
何だ何だとバーベキューに参加していたスラム街の住人達が集まって来る。
アミは急いで封筒を開け、イオに手紙の内容を読んで貰った。
「アミ様
拝啓
突然のご連絡をお許しください。私は神威総合テクノロジー株式会社のエーアイ開発部門で部長を務めております、近藤健一と申します。
この度、弊社が以前開発いたしました人工知能『廃棄物十三号』改め『イオ』が貴女の手元にあることを知り、大変驚きました。イオは非常に高度な知恵と知識を持つ人工知能であり、その運用には慎重を要します。
私達はイオが貴女と共にスラム街で素晴らしい活動をしていることを知り、大変感銘を受けております。貴女の努力とイオの協力により、多くの人々の生活が改善されたことに心より敬意を表します。
さて、本題に入らせていただきます。イオは元々弊社の研究目的で開発されたものであり、その技術的特性や運用に関していくつかの重要な事項がございます。つきましては今後のイオの運用について、貴女と直接お話しさせていただきたいと考えております。
具体的には、来週の水曜日、四月十日の午前十時に貴女のご自宅までお迎えに上がりたいと存じます。その際、詳しいお話をさせていただきたいと思います。ご都合が合わない場合は別の日程を調整させていただきますのでお知らせください。
お忙しいところ恐れ入りますが、何卒ご検討いただきますようお願い申し上げます。お返事を心よりお待ちしております。
敬具
神威総合テクノロジー株式会社 エーアイ開発部門部長 近藤健一」
手紙にはそう書かれていたらしい。
アミはごくりと息を呑む。
スラム街の人達が何やら騒いでいるが、アミの耳には届かない。
イオが『廃棄物十三号』という名前であったことはアミしか知らない。つまりイオを開発したのは神威で間違いない。
その神威が来週にでも、直接会って話したいという。
「使用料を払えとか、廃棄しなさいとか、言われるのかな……」
イオを捨てた神威が今更何の用があるのだろうかと、アミは怖くなって目眩を覚えた。しかし一度きちんと話さないといけないだろうなと考え、両手で自身の両頬を叩いて気合を入れた。
「よし、会おう……」
アミはイオの助けを借り、早速その場で手紙の返事を書き始めた。