第四章 アミの決断 その一
アミの身の上話。
アミ、本名を『宮本亜美』という女の子は、会社を経営している裕福な家の長女として生を受けた。一見して誰もが羨む境遇にあったが、実は亜美の母親は宮本の家で働いていた家政婦であり、妻の子ではなかった。
亜美が生まれる前、宮本の家は中々子宝に恵まれずに悩んでいたため、亜美の妊娠が分かった時は大いに沸いた。そうして亜美は父である『宮本武』の意向により素性を隠された上で妻の子として育てられることとなった。
しかし宮本家の意向に逆らう者がいた。それは家政婦から愛人となり、子供を家に取られることとなった亜美の母『佐々木結花』である。
「私の可愛い子……亜美」
佐々木結花はお腹を優しく撫で、決断した。
結花は大きいお腹のままで武の下から逃げたのだった。
しかし結花は元々体が弱かったし、所持していた少ないお金ではどうしても移動や生活に制限が生じた。
そのため結花はそのまま宮本家から少ししか離れていない町に流れつき、病弱で身重の体に鞭を打ちながら、近所のスーパーで長時間レジ打ちや売り子のアルバイトをして生計を立てた。
そんな中、武は僅か二カ月で結花を探し当て、出産の直前の結花を追い詰める。
結花は少しばかり抵抗をしたようだった。だが武に「体の弱い貴様では赤ん坊を幸せにすることはもちろん、満足に育てることすら叶わない。しかし俺なら叶う」と言われ、外で生活をして厳しい現実を知った結花は観念した。
そうして結花は武の下で出産し、赤ん坊の亜美を武に捧げた。結花はそのまま亜美が溺愛される様子を、複雑な心境で遠くから眺めるだけの生活を送ることとなる。
これで武も亜美も安泰と思われた。だが風向きが変わったのは亜美が生まれてから約三年の時である。
武と妻に溺愛され、期待され、礼儀作法を教えられ教育を施された亜美だった。だが勉学の基礎となる読み書きが中々身につかなかった。
「知恵が遅いのではないか?」
家政婦の一人が陰で亜美をそう嘲笑った。
それを聞いた武は激怒し、その家政婦を大勢の前で怒鳴りつけて解雇した。
だが武はこの一件で一つの疑念を抱えることとなる。
そして亜美は三歳になり多少読み書き出来るようになったが、完璧ではなかった。武は亜美が字を間違える度に強く叱った。何度もやり直しをさせ、教育しようとした。けれどもそうして武が亜美を強く叱る度、亜美は緊張して間違えるようになった。
やがて亜美は怒られることを恐れ、誰とも話さなくなった。
そして亜美が四歳になった時、武は亜美を専門の病院に連れて行った。
「発達障害です」
亜美は医師にそう診断された。医師は成長についてはどんな子供でも個人差があるということを説明し、そして今後の子供の支えになるような助言を色々話したがそれは武の耳には入らなかった。武の頭の中には発達障害という言葉だけが反芻していた。
――障害者。
その事実は当事者である亜美以上に武を落胆させた。そして武は亜美に対し、その日を境に親として関わることを止める。
その様子に遠くから眺めているだけのはずだった結花は、怒りと勇気を持って武に詰め寄った。
「貴方のお子ですよ!」
「あんな失敗作を作りおって……。あんな者は要らん」
武はそう話して結花を突き飛ばした。
「宮本の家なら幸せになれると言っていたのに……」
武の掌を反すような態度に結花は失望した。同時に武を信じた過去の自分を呪った。
その頃の亜美は武とその正妻からは無視され、家政婦からも腫れ物に触るような扱いを受けていたため、一人で孤独に過ごすことが多かった。
「亜美様、一緒に遊びませんか?」
結花は今まで通り亜美の生みの親とは名乗らず、あくまでも武の愛人として亜美に接した。生まれたばかりの赤ん坊を捨てた結花が、今更何の面目があって親だと名乗ることが出来ようか。
「は、……はい」
亜美は始め、結花に対し緊張していた。けれども常に一人で寂しかったこともあり、結花の優しさに触れて少しずつ心を開いていった。いつも二人はままごとや塗り絵、お人形遊びなどをして過ごした。そして結花はお手紙ごっこと称して字を教えたり、簡単な算数を教えたりもした。
亜美が一人で遊んでいたある時、家にあった家宝の壺を割った。それを耳にした武は謝る亜美の言葉など聞かず、亜美の頬を何度も引っ叩いた。
「この愚図! 人間の失敗作が! 家から出て行け!」
これ以上両親に嫌われまいと努力して感情を殺してきた亜美だったが、この時ばかりは大きな声で泣いてしまった。
結花は急いで武と亜美の間に割って入り、亜美を抱き締めた。
「本当に大切なものは何か、それが分からない可哀想な人」
結花はそう言い捨てて、亜美を連れ再び宮本の家を出る。
そうして結花と亜美は二人で小さな長屋で暮らし始めた。
「貴女は私の宝ですよ、亜美様」
「ありがとう、ございます」
前回の時とは違い、今回の結花は強かった。
結花も亜美も孤独ではない。結花が親と名乗れない以上親子の関係ではないが、結花は家に帰れば守るべき子供が待ってくれているというだけで力が出る。そして亜美も最初は両親に捨てられた事実に傷心していたが、自分を愛して守ってくれる人がいるだけで心が満たされていく。
だが残酷なことにその生活が上手くいったのは最初の三年間、亜美が七歳になるまでであった。
前回の時とは違い隠れる必要のない結花は亜美が困らない出来る限りの金銭を稼ぐため、劣悪な環境の工場仕事を選んでいた。そのせいで結花は工場から出る煤煙に肺をやられ、喘息を患った。
結花は薬を肺に吸入する薬の手放せない生活を送る。亜美は咳き込む結花を見ていつも心配そうに結花の背中を撫でてやった。けれど結花は「これくらい大丈夫」と気丈に振る舞う。そしてそのまま結花は薬に頼りながら、体を壊しながら働き続けた。
「あの!」
亜美は自身も仕事をして家にお金を入れることを結花に提案する。
「貴女は心配しないで」
そう結花は話すが、無理をしていることは小さい亜美にも分かった。
そして結花の意思とは関係なく体が限界を迎えた。重労働の工場では働けなくなり、低賃金の内職の仕事しか出来なくなった。亜美は少しでも結花の力となるために新聞配達の仕事を始めた。
二人で支え合うように懸命に生きていく。
だがその一年後、亜美が八歳の時に最期は訪れた。
ほとんど呼吸が出来なくなった結花が、頬を濡らしながら小さな声で囁くように亜美に最後の言葉を話す。
「こ……こんな、私で、ごめんね。……不幸に生んで、ごめん、ね」
そして結花は力尽きた。
亜美はこの時、悟った。
亜美には詳しいことは分からない。だがこの人は確かに母だったのだ。
亜美は「生んでごめんね」という最後の言葉の重み、深い愛と悲しみを知る。
「大丈夫」
母は子に対する責任を感じていた。だから亜美は障害があっても、捨てられても、母の庇護がなくても、誰にも頼らず一人で立派に幸せに生き抜かなければならなかった。実家に帰ることもなく、児童養護施設の助けも受けず、頑張って頑張ってゴミ山で一人生きる術を身につけたのだ。
「お母さん……置いていかないで……一人にしないでよ……」
けれども本当は寂しかったのだ。




