2
目を覚ますと清潔なベッドの上だった。僕の一人暮らししているような狭いワンルームではなく、広い部屋の真ん中に置いてあるベッドに寝かせられていた。砂っぽくベタベタしている体で申し訳なく感じるほど、現実的でない平和な空気だ。
体を起こすとベッドサイドテーブルに僕の着ていた上着が商品みたいに綺麗に畳まれて置かれている。
きょろきょろと辺りを確認していると廊下からひょっこりと小学生くらいだろうか女の子がのぞいていた。ショートカットの好奇心旺盛な表情が愛らしい少女だ。
「起きたのね、ちょっと待っててね。お兄ちゃん呼んでくる!」
ぱたぱたと軽い足音が遠ざかる。黒目がちなところもあり元気で野兎みたいな子だなと笑みを漏らす。つい避難所にもいた子供たちを思い出してしまい壊れてしまった日々に溜息を吐く。
「僕は助かったんだな」
ぽつりと呟く。思っているよりもその響きは悲しみよりも安堵の色のほうが強く出ていた。
―トントン
開きっぱなしのドアを律儀にノックしてから入ってきたのは僕を助けてくれた少年だった。
「おはようございます。勝手に荷物を触ってしまいすみません。」
少年は第一印象よりも幼く見えた。若さが溢れているような艶のある黒髪が謝罪とあわせて下げられ、さらりと流れる。
顔を上げれば、はっきりとした目鼻立ちで近寄りがたさを感じさせそうなところを、垂目がちな目元によって人好きする顔立ちに仕上げた不思議な魅力を感じる子だった。
「いえ、とんでもない。こちらこそ助けてくれてありがとうございました。」
「笹川仁です。さっきの小さいのが妹の咲姫です。」
「僕は目駒福文です。桜ヶ丘小学校の避難所から逃げて来ました。」
笹川くんは僕の言葉に逡巡し、何か言いかけて悲しそうに眉をひそめた。彼から伝わる気遣いに、大丈夫だと微笑んで頷いた。
多分、彼が考えているより僕はずっと危険とは離れた生活を過ごしていたし、悲劇というものにも主体として経験してなかった。ただ周りの人たちの嘆きから悲劇が現実のすぐ傍に佇むものになってしまっているのは理解できているし、彼も悲劇を経験したんだろう。だから僕もそうだと思い気遣ってくれている。
「聞きたいことがあるなら聞いてくれて構わないよ。笹川くんの質問が僕を傷つけるかもしれないのと同じように、僕だって笹川くんを傷つける答えをするかもしれないからね。」
「その、下の名前は分からないんですが、緑川さんという人を知っていますか?」
僕は避難所では検品を担当していた。物資の目録を作るのとあわせて、支給品に偏りがないように名簿も合わせて記録していたので避難所に百二十六人がいたのを知っている。もちろん全員の顔と名前を憶えているわけではない。
苗字が同じだけの他人かもしれない。ただ心当たりが一人いた。
「桜ヶ丘小学校で皆のために物資を調達していた人なんですけど、子供達だけでいる俺らを心配してくれてたんです。損にしかならないのに探索の仕方とか教えてくれて。」
「……残念だけど、噛まれたまま帰ってきてしまってね。探索を終えた二日後に避難所内で発症したよ。」
恋人たちと避難所を崩壊させたよとはさすがに言えず、言葉を濁す。
「なに、あの偉そうにしてたオッサンが結局避難所つぶしたの?」
場違いな台詞とともに部屋に入ってきたのは、ショートパンツに半袖Tシャツとひどく無防備な服装の少女だった。黒地に英語でオレンジ色の走り書きがされたTシャツ、肩上で外ハネした焦げ茶の髪の毛と優等生そうな笹川くんとは真逆の印象だ。
「立浪っ!」
笹川君の怒鳴る声に驚いて、肩が跳ねる。それは立浪と呼ばれた少女も同じだが、すぐに拗ねたようにそっぽを向く。
「緑川さんがいなかったら俺らなんかとっくに死んでたかもしれないんだぞ!」
「そりゃ少しは世話にはなったけど、でも噛まれたら絶対に隠さないことってあんだけうちらに言っといてさ。」
少女の反論にぐっと黙る笹川くんは本当に緑川くんを慕っていたのだろう。
緑川くんの最後は残念だったが、避難所では頼れる男性として男女問わず人気だった。子供たちからはヒーローのような扱いを受けていたし、笹川くんも身近な頼れる大人として信じていたのだろう。
笹川くんが気の毒になり、僕は優しい嘘をつくことにした。
「緑川くんも自分で気づいてなかったと思うよ。だって帰ってきてから2日も経ってゾンビになったんだし」
ゾンビ化するスピードは速くて十分ほどで遅くて二日とかなりの差がある。その違いは汚染具合による。全身傷だらけの体でゾンビたちの体液をフォンデュすればすぐにゾンビになるが、緑川くんみたいに大きい体格で血が滲む程度に少し噛まれたくらいだと二日かかったということだ。
「彼も感染したと気づいていれば避難所へ帰ろうとはしなかったはずだよ。僕も彼を出迎えたとき話したけどいつも通りだったからね。」
正しくは土下座をして黙っていてくれと頼みこまれたが。
怖くて外へ行けず内勤しかできなかった僕だって食料調達チームで頑張ってくれていた緑川くんに感謝しているのだ。
笹川くんだって本来ならまだ保護者がいるはずの年齢だ。子供だけで暮らしていると言った彼の心をこれ以上傷つけなくてもいいだろう。
「目駒さん、ありがとうございます。」
笹川くんの少し垂れた目じりに涙が滲んできたのを見て、立浪さんが気まずそうな表情を浮かべる。
「あの、これも緑川さんが繋いでくれた縁かもしれないですし、行く当てがないならしばらく俺らといますか?」
主人公は悪意がないです。