母と娘
「あぁ、ヒルデガルト。よくぞ無事で・・・」屋敷の中に入ったヒルデガルトを出迎えたのは、母クリスティーネだった。
高価な絹のドレスが汚れるのも気にかけず、クリスティーネは泥のついた農家の娘の格好をしたヒルデガルトを抱き締める。
「お母様、申し訳ありません。私のわがままで大変なことに・・・」消え入るような声で応えるヒルデガルトの頭をクリスティーネは何も言わずに撫でる。
「お父様の使いの者から私が王宮に召し出されたと伺いました。なのに私が王都を脱け出していたために王太后陛下の、お祖母様のお怒りに触れたのですわ。」
「もしものときはこうなることを分かった上で、お父様はあなたを旅立たせたのです。王太后陛下を甘く見ていたとの謗りを免れないかもしれませんが、それにしても母上がここまで強硬とは・・・」
自身の母親でもある王太后が娘婿に当たるヨーゼフを王宮内で捕らえるとは想像の埒外だったクリスティーネはその報せを受けた時の事を思い出して、改めて身震いした。
「お母様・・・私が王太后陛下にお目通りすることは叶いますでしょうか。」
「王太后陛下のお考えはともかく、廷臣たちはあなたの非を鳴らして謁見を拒むでしょう。王太后陛下の孫とはいえ、辺境伯爵家の娘として王都の外に出ることを禁じられた身でありながら、禁を犯して脱け出したことを問題視している貴族がいると聞いています。」
アルテンシュタット家と権勢を争うロストック辺境伯や王家の家宰を務めるデトモルト卿の顔を思い浮かべ、クリスティーネは形の良い眉を曇らせる。
「ですが、お母様、何とか王太后陛下にお目通りして此度の顛末を釈明しなければなりません。」帰宅した時の不安げな表情は影を潜め、何か決意した強い眼差しでそう言うヒルデガルトを、母であるクリスティーネは驚きを持って見つめ返した。
ふわふわと儚く頼り無い娘、社交界へのお披露目も済んでいない子どもだと思っていたヒルデガルトがほんの一月で大きく成長したことを感じ取る。薄汚れた農家の娘の格好をしていても、そこには武門の家に生まれ、王家の血を引く気高き姿があった。
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「それで、ヒルデガルト、あなたは王太后陛下にお目通りして、何を申し上げるつもりなの?」
農婦姿の泥や埃を落とし、髪粉で色を変えた髪も元に戻したヒルデガルトに向かって、クリスティーネが尋ねてきた。
決して詰問調ではなく、柔らかく言葉を引き出す口調に、ヒルデガルトは家に帰ってきた想いを新たにする。
「お母様もお聞き及びかもしれませんが、此度、北の霊峰シュピッツェに参りました。」
「まぁ、シュピッツェまで!」
急ぎの馬車であっても片道15日はかかる山の名に、クリスティーネは驚きの声を上げる。
「そんな遥か遠くの山までどうやって行ってきたの?」
「さる方にお手伝いを頂いて、行きは乗合馬車で。帰りは急ぎましたので早馬で駆けてまいりました。」
「乗合馬車!それに早馬!」
およそ貴族の令嬢に相応しくない単語にクリスティーネは額に手を当てて天を仰いだ。
あのおっとりとしたヒルデガルトが、深窓の令嬢として大切に育ててきた愛娘がよもや下賎の者たちと同じ馬車で移動し、さらには伝令兵のように早馬で駆けてくるとは!
こんなときでなければ、クリスティーネは驚きのあまり卒倒していたかもしれない。
「お披露目も済んでいない娘がそのような・・・」言葉が継げないクリスティーネの心を知ってか知らずか、ヒルデガルトは旅の様子を簡単に説明する。
「王都の北の荒野ではとっても大きな狼の群に出会ったり、シュピッツェでは空を飛ぶ大きな翼竜にも出会いましたのよ。」
「狼、翼竜・・・そ、それで襲われたりしなかったの?」
「狼や翼竜が飛びかかってきた時は、それはそれは恐ろしかったですわ。でも、デルマ先生が、一緒に旅について来てくださった方ですけれど、霊薬や炎の魔法で守ってくださいましたの。」
「ああ・・・」狼や翼竜が牙を剥いて襲いかかってくるのを想像して、クリスティーネは両手で顔を覆う。
小卓に置いた茶碗を震える手で取り上げ、口に運ぶクリスティーネ。中に入った茶を一口飲んで、心を落ち着かせる。
「それで、シュピッツェでは何を?」
「これをご覧くださいませ、お母様。」
そう言って、ヒルデガルトは『収納』の魔法がかかった背負い鞄の中から白銀色に美しく輝く大きな鱗と長く鋭い爪そして丈夫でしなやかな皮革を取り出した。
「これは・・・?」目の前に置かれた龍の素材と自身の娘を交互に見やりながらクリスティーネが呟く。
「シュピッツェで手に入れた龍の素材ですわ。」
「龍の素材・・・」
何気無く娘の言葉を繰り返したクリスティーネだったが、はっとして、真剣な目でヒルデガルトに向き直った。
「まさか、白銀の古龍の爪と鱗!」クリスティーネが驚きの声を上げた。
白銀の古龍アデルハイトの爪を使った槍と鱗を使った盾はシュタイン王家の至宝として王宮の宝物庫で厳重に保管され、年に一度、騎士団と魔導師団の観兵式で王国軍の大元帥である国王が正装として装備することとされており、クリスティーネは先々代の父王カール2世、先代の兄王フリードリヒ4世が観兵式に臨んだ際にそれらを目にしたことがあった。
今、目の前に置かれた爪と鱗はまさにその槍と盾に使われている物と同じ輝きを放っている。
「ヒルデガルト。あ、あなた、一体これをどこで?・・・いえ、シュピッツェでしたね・・・王国の至宝と同じ物を一体どうやって?」
恐る恐る鱗を取り上げたクリスティーネは動揺を隠せない。いや、クリスティーネでなくとも伝説の古龍の爪と鱗を前にして、平静を保てる者はいないだろう。
「お母様、実は・・・」
ヒルデガルトはごく簡潔に、聖フリューゲルの日に白銀の古龍か夢枕に立ち、自身の龍鱗などの素材を手に入れるよう告げられたこと、王宮の図書館で古龍について調べたこと、霊峰シュピッツェで白銀の古龍に出会ったことなどを説明した。
さすがに伝説のアデルハイトの生まれ変わりであるエオストレと契約したことなど話せるはずも無いので、黙っている部分やぼやかした部分、さらには若干の誤魔化しも入れてはいたが。
「そうだったのですね。あなたが突然王宮の図書館に行ったり、魔術の勉強を始めたのには、そういう理由があったのですね。」
愛娘が急に屋敷の外に出て色々な事をし始めるようになり、ついには王都を脱け出すに至った理由がようやく腑に落ちたようにクリスティーネ。
「この龍鱗の一枚であっても献上すれば大きな功績として認められるでしょう。これをどうやって王太后陛下にお届けするか・・・」
「釈明のために参内することは叶わないでしょうか?」
「先日、お目にかかった際には孫であるあなたに会いたいとおっしゃっていたけれど、果たして周りの廷臣たちがどう動くか。必ずしも当家に好意的な者ばかりではありませんからね。」
そう言って、クリスティーネはしばらく思案していたが、結局正攻法で行くしかないと思いを定めたようだ。
「あなたがこの屋敷に帰ってきたことはすぐにでも王太后陛下のお耳に入ることでしょう。それで陛下からお召しがあるかもしれませんし、あとは娘である私から改めてお手紙を差し上げましょう。」
そう言うとクリスティーネは鈴を鳴らして侍女を呼び、紙と筆記具を用意させた。
光沢のある青い石を削り出した筆軸に金でできた筆先を着けた万年筆のようなペンを優雅に動かして書状をしたためるクリスティーネ。
「『王家の送達』」書き上げた書状に封をするとクリスティーネは封書の端を摘まんで唱えた。
その途端、封書が光に包まれ、白い鳥の姿になって王宮に向かって飛び立っていった。
「さあ、ヒルデガルト。準備なさい。お祖母様はともかく、取り巻きの貴族たちに侮られては、辺境伯爵家の名折れですよ。」




