5.
夕方、愛する娘が、我が喫茶店を訪れた。
非常に整った顔立ちにメリハリの利いた抜群の体つき。神のマスターピースと言っても過言ではないくらいの美人さんであるその女、泉伊織は、カウンターの向こうで丸椅子に座った。今日もブラウスの胸元は大きく開いていて、深い谷間が覗いている。ボタンを留めると窮屈さを通り越して息苦しさを感じてしまうらしい。
「お客さん、今日は多いね」
「これくらいが平常運転だ」
「忙しくないの? バイトでも雇ったら?」
「品が出てくるのが遅いと感じるような客なら来なくていい」
「まるで商売っ気がないね」
「男はある程度、頑固さを持つべきだ」
「あら、そ」
「それで、なんの用だ?」
「ライアンの顔を見たくなってね」
「なら、喜んでおこう」
「そうそう。素直が一番」
「朔夜はどうした?」
「今日は休みにするんだって」
「休日、奴はどんなことをして過ごすんだ?」
「基本的には寝てる。起きたら、アルコールをあおる」
「相も変わらず無趣味な奴だ」
「ジムで遊ぶくらいはしてるけどね」
「それで、見つかったのか?」
「ん? なにが?」
「新居だ」
「ああ。私と朔夜が一緒に暮らそうとしてるってこと?」
「そうだ。いい物件はあったのかと訊いている」
「今のところナッシング。とりあえず大きなベッドが置ければいいかなとも考えるんだけど」
「なんだ。朔夜が文句を言うのか?」
「天井が高くないと嫌なんだってさ」
「理解できる。天井が低いと窮屈だ」
「そっか」
「そういうことだ」
客がはけてしまうまで、伊織は居続けた。なにか相談事でもあるのだろうかと考える。だが、「ホントにここは居心地がいいね」と感想を述べるあたり、雰囲気を楽しんでいるだけなのかもしれない。
伊織のケータイが鳴った。「朔夜から」と言いつつ、それとなく嬉しそうな顔を寄越すのは、そこに愛があるからだろうか。
伊織が電話を切った。
「飲みに行くから、すぐに出てこいってさ」
「アイツは先輩への礼儀がなっちゃいない」
「ライアンも来る?」
「いや。やめておこう」
「邪魔なんかじゃないよ?」
「それでも、やめておく」
「あら、そ」
ドアベルが鳴った。現れたのは、グレーのスーツに赤いネクタイを合わせている男だった。痩せていてオールバック。能面のように白い顔。紅色の唇が目立つ。見覚えはない。男はなんの遠慮も見せずに伊織の隣に座った。二人は知り合い同士なのだろうか。
真っ先に俺が言葉を発した。「誰だ、この男は」と問い質すように言った。伊織は舌打ちをしてから「ちょっと顔を知ってるってだけ」と答えると、めんどくさそうに吐息をつき、長い前髪を掻き上げた。頬杖をついて、男から顔を背ける。どうやらこの細面の男のことをかなり嫌っているらしい。
「ライアン・ミウラさんですね?」
「それがどうかしたか?」
「以前から存じ上げております」
「まずおまえが名乗ったらどうだ?」
「これは失敬。公安のクボクラと申します」
「公安? そんな奴がウチになんの用だ?」
「『オープン・ファイア』。私どもは彼らを追っていましてね。その大元を狩ろうと意気込んでいます。神崎英雄のことを探しているというわけです」
「神崎が首魁だと睨んでいるのか?」
「現状は。ところで泉さん」
「なにかしら、クボクラさん?」
「最近、どうですか?」
「メチャクチャ健康」
「そうではなくて」
「わかってるよ。神崎? 神崎さん? ま、どっちで呼ぶかは私の気分次第なんだけど、彼と通じているか否かを聞きたいんでしょ?」
「ええ」
「連絡がついたら、私はまず自分の上司に報告する」
「そうなんですか?」
「当たり前じゃない」
「想う気持ちは?」
「ない」
「未練は?」
「ないよ」
「それは本当ですか? 間違いありませんか?」
「しつこいよ、クボクラさん。アンタに一言だけプレゼントしてあげる」
「なんでしょう?」
「くそったれ」
「わかりました。今日のところは退散しましょう」
クボクラは丸椅子から腰を上げると、速やかに立ち去った。なにせ公安のニンゲンだ。やり手にも見える。だったら、表にはいかつい黒塗りの車でも待たせていることだろう。
「無礼な奴だな」
「でしょ? だけど、今のところ、神崎さんに通じる線は私しかないんだろうね」
伊織は「はあぁ……」とため息つく。それから頭を少々後ろに傾けると、左の頬に涙を伝わせた。
「なんの涙だ? なにが悲しいんだ?」
「わかんない」
理由がなくても、あるいはどんな理由があっても、娘の涙を見るのはつらい。