4.
幸一という男がいる。俺と同じく『治安会』の『実働部隊』のメンバーで、特技はスナイピング。その腕は確かだと言える。
そろそろ日が暮れようかという時間帯に、そのハジメが訪ねてきてカウンター席に座った。一重まぶたに薄い唇といった具合に、ハジメはさっぱりとした顔立ちの男だ。短く刈った髪をツンツンにおっ立てている。大きな黒いケースにはスナイパーライフルがおさまっているのだろう。店内は非武装地帯なので、物騒なモノはできるだけ持ち込まないでもらいたいものだ。
「ハジメ、どうしたんだ?」
「ライアンさん、聞いてくれよなんだぜ、ベイベ」
「だから、どうしたんだと訊いている」
「今日、ターゲットを一人、逃がしちまったんだ。そいつは自宅待機で、裁判が行われる時だけ法廷に出勤する金持ちんちのご子息殿なんだ」
「それで?」
「俺っちは奴を消すつもりでいた。もちろん、後藤さんの許可もとった。だけど、絶好のポジショニングだったにも関わらず、ミスっちまったんだよぉぉぉ……」
「中南米で過ごした傭兵時代は、ずいぶん鳴らしていたと、ことあるごとに豪語しているのにか?」
「豪語か。実際、まあ、そうだな。スナイプが成功したら、単純に俺スゲーと思ったりもしたもんさ。それなりに気を張って生きていたし、俺っちなりに緊迫感を持って仕事をしてた。でも、国に帰ってきて、『治安会』に入れてもらって、仲間と仕事をこなすうちに、モノの見方っていうか、価値観が変わってきた。だって、ウチって俺っちよりスゴい奴しかいないんだからな。過去の経験が全部無駄だったとは言わないんだぜ。だけど、軍人時代や傭兵時代に培ったスキルを威張ることはできないって感じているんだぜ」
「そこまで卑屈になることもないと思うが」
「そう思わざるを得ないのさ。誰が強くて誰が弱いか。そこんところについて複雑でくどい理屈を並べ立てる奴がいるなら、そいつはとことん馬鹿だ。ウチという組織をまるで理解していない。要は、力こそすべてだってことなんだぜ」
「その点は正解だ。で、おまえが狙撃しようとしたターゲットはいったいなにをやらかしたんだ?」
「強盗殺人だ。被害者はじい様とばあ様の夫婦で、じい様は暴行の果てに刺殺されて、結果、ばあ様だけが残された。加害者の若い男の証言によると、いわゆるタンス貯金や通帳を拝借するつもりだったらしい。実際、立派なお屋敷なのさ」
「強盗殺人だ。それなりの刑罰は受けることになるんじゃないのか? というか、受けることになるだろう?」
「その通りだとは思うんだけど、ばあ様は体の具合があまりよくないらしくってな、裁判で最終的な結論が出るまで生きていられるかわからないんだ。そうでなくたって、情状酌量の余地アリってことで懲役刑で済んじまったら、ばあ様は胸につかえたものを抱えたまま、あの世に旅立つってことになっちまう」
「おまえはそう考えて、だから殺そうと決断したわけか」
「そうさ。俺っちの言い分、間違ってるか?」
「間違っちゃいない。そういう考え方もアリだ」
「だよなだよな? でも、しくじっちまったんだぜ。俺っちはスナイパーとしては二流、いや、三流みたいなのさ……」
ミユキ・ハジメという男も、また正義感のカタマリなのだ。悪はゆるすまじという部分については、朔夜といい勝負だと思う。が、正義感が強いというだけでは事は解決しない。ハジメがミスを犯したことは事実だ。以降はターゲットの警備も強化されることだろう。
「千載一遇の機会を逃したんだ。二度とチャンスは来ない」
「そりゃそうさ。でも、そんなんじゃあ、俺っち、ばあ様に顔向けできねーじゃんかよぉぉぉ……」
「そんなことはないだろう。考えすぎだ」
「ライアンさん。ばあ様、言うんだ。遠い昔に亡くした息子と俺っちは似てるって。だったら、だったら尚更よぉぉぉ……」
ハジメはカウンターに突っ伏して、いよいよおいおい泣き出してしまった。事件、あるいは事件の被害者に深入りしてしまうということが、この男の性格を如実に表している。イイ奴なのだ。そうであるがゆえに苦労する。凹みもする。だが、ヒト一人にできることなんてたかが知れている。その客観的な理を、ハジメはもう少し肝に銘じるべきだ。
「ハジメ」
「なんだよぅ」
「いいから、こっちを見ろ」
顔を上げたハジメである。
「明日、そのご老人のところに、俺を連れていけ」
「えっ、ど、どうしてだ?」
「同僚がつらい思いをしているんだ。ほうってはおけんさ」
「なんとかしてくれるのか? ばあ様の無念を取り除いてくれるのか?」
「そんな大それた真似ができるかはわからん。だが、とりあえず案内しろ」
「お、親父ぃぃぃ」
「もう泣くな。男のコだろう?」
翌日。立派な和の庭がある屋敷の地下駐車場へと黒いハマーを滑り込ませた。事前にハジメが許可を取りつけたらしい。迎えてくれた家政婦の女性も、見たところ七十くらいだ。「どうぞ、どうぞ」と先導され、ホームエレベーターで二階へと上がった。
畳部屋。木製の本棚、タンス。どれも手入れがよく行き届いている。
八十過ぎであろう老婆は、縁側に置かれたノッキングチェアに腰掛け、ガラス戸の向こうを眺めていた。ベージュのカーディガンを着て、膝の上には毛布をのせている。
「ばあちゃん、ごめん……」
ハジメがそう謝罪の弁を述べると、白髪の老婆は「ハジメちゃん、どうしたんだい? なにかしんどいことでもあったのい?」と問い掛けた。その一言で、もう耐えられなくなったらしい。ハジメは俯き、下唇を噛んだ。
「そっちのヒトはなんていうの? ずいぶんと大きいねぇ」
「俺っちの尊敬する先輩なんだ。とってもカッコいい先輩なんだ」
「綺麗な金髪だねぇ。青い瞳も素敵だねぇ。外人さんかい?」
俺は「ミウラといいます」と名乗って、老婆に深々と頭を下げた。「ラ、ライアンさん……」とハジメは少なからず驚いたようだった。そしていよいよ感極まったのか、ぐすぐすと鼻を鳴らし出した。
「ミウラさんかい」
「はい」
「大きいねぇ」
「二メートルありますから」
「二メートル。まあ、スゴいこと」
「しかし、どれだけ体が大きくても、できないことというのはあります」
「ハジメちゃんから、全部、聞かされたんだね?」
「はい」
「運がなかったの。ええ。運がなかったのよ」
「そんなことないんだぜ、ばあちゃん。運がどうこうの話じゃないんだぜ」
「ハジメちゃんは本当に優しいねぇ」
「そんなこと、そんなことないんだぜ……」
「もう老い先短いんだ。おじいさんも充分に長生きした。それでいいじゃないか」
「だから、だからそんなの、いけないんだぜ……」
俺はしゃがみ込み、老婆が膝の上で上品に重ねている両手を両手で包んだ。小さく、骨ばった手だ。歳を重ねた手だ。苦労もあったであろう手だ。人生の重みを知る手だ。
「おやまあ。若いヒトに手を握られちゃったねぇ。なんだか嬉しいねぇ」
「貴女はご立派だと思います」
「そうかい?」
「ええ。そうです」
「でもね、なんだかんだ言っても、やっぱりね? つらいんだ……」
老婆はそう言うと笑顔を見せ、それからぽろぽろと涙を流した。
「ばあちゃん、俺、呼ばれたらいつだって来るから。約束するから」
「いいんだよ、ハジメちゃん。気が向いた時にでも寄ってくれれば」
「ばあちゃん……」
本当にハジメは悔しげだ。もう自分にできることはない、できることがない。そこに無力感を覚えたのだろう。
俺もまたここを訪れようと思う。ハマーの助手席に、ハジメを乗せてやって。