3.
レオナが逝って以来、一度も女を抱いていない。もう一生、抱くことはない。他の女と体を重ね合うことで、柔らかだったレオナの感触が濁ってしまうことが一番怖い、最も恐ろしい。天国のレオナは「ライアン君は、やっぱり律儀だね」と笑うだろうか。「でも、嬉しいっ」と語尾を跳ねさせ、喜んでくれるようにも思える。それは希望的観測でしかないかもしれないが。
ドアベルを鳴らして入ってきたのは、大きなヘッドホンを首にさげた小柄な男。少年のような顔立ちに茶色いくせっ毛の忍足悠だ。うしろにもう一人いる。女だ。名は黒峰曜子。薄いピンクのルージュを引いていて、長い黒髪をポニーテールに結っている。美男美女のコンビだという評価は一般的と言えるだろう。
ぼーっとした顔の悠は小さく頭を下げ、曜子は生真面目な感じでお辞儀をしてから、それぞれカウンター席の丸椅子についた。
「悠、なにか用か?」
「貴方の顔が見たくなって」
「つまらん冗談だ」
「そんなつもりはないです」
「わかっているさ。曜子はどうだ? 最近、変わりはないか?」
「業務をうまくこなすにはまだまだですけれど、最低限はやれていると考えています」
「情報を共有させてもらうつもりで、たまに報告書を閲覧しているが、曜子のはいつもよく書けている。理路整然としている」
「ありがとうございます。でも、書き始めから提出まで、少し時間を要してしまっているんです」
「遅い仕事は誰にでもできると言いたいのか?」
「はい」
「あまり気にしないほうがいい」
「それでも、これからもっと精進します」
「おまえの向上心は、間違いなく買える」
「また褒めていただきました。ありがとうございます」
じゃっかん、口元を緩めて見せた曜子である。元々、表情の変化に乏しい女だが、口角を少し上げるだけで魅力的に映るのは事実だ。コーヒーを出してやると、基本的に無口な悠は黙って飲む。曜子は一口飲むと「いつもおいしいです」と称えてくれたのだった。
「質問だ。悠、曜子、どちらが答えてくれてもかまわんぞ」
「私がお答えします」
「それじゃあ曜子、おまえ達は付き合っているのか?」
「付き合っていません」
「きっぱりと即答か」
「忍足さんはとても尊敬できる先輩です。見習う部分は多いです」
「恋愛感情はまるでないのか?」
「ありません。正直に言ってしまうと、『治安会』の、特に『実行部隊』のメンバーは、仕事だけに忠実であるべきだと考えます」
「伊織と朔夜みたいな例もあるぞ?」
「お二人にはお二人の考え方があるのだと思います。それは尊重すべきですし、されるべきです」
「なあ、曜子」
「なんですか?」
「男とつきあったことはあるのか?」
「そ、その問いに答える必要はありますか?」
「おや。どうしてどもるんだ?」
「こ、この話題はもうやめにしましょう」
「いや、最後に聞かせてくれ。曜子、おまえ、実はヴァージンなんじゃないのか?」
曜子が顔をかあっと赤くして下を向いた。恋愛観は雄弁かつ立派に語るくせに、セックスという単語、概念を持ち出されると急に恥ずかしくなるらしい。うぶな女だ。実に可愛らしい。
胸に手を当て、ふーっと吐息をつくと、曜子は「もう話を変えてもいいですか?」と問うてきた。俺は「かまわんよ」と返した。あまりいじめてやるのもかわいそうだ。
「奥様を亡くされた時、どう感じられましたか?」
「またいきなりだな。どうしてそんなことを訊く?」
「伺いたいからです。いけませんか?」
「いいや。そんなことはないが」
「絶望感は? ありましたか?」
「絶望はした」
「犯人を殺してやりたいとは思いませんでしたか?」
「それくらい憎みもした」
「あるいは後藤さんの力をもってすれば、なんらかのかたちで犯人らを殺害することも可能なのではありませんか?」
「結論だけ言うと、可能だ」
「でも、殺さない?」
「なぜだかわかるか?」
「なぜなんですか?」
「今、俺の魂は、俺の胸の中にあるからだ」
「それだけですか?」
「ああ。それだけだ」
「すみません。よくわかりません。もっと詳しい説明を――」
ここで悠が「黒峰さん」と口を挟んだ。
「なんですか?」
「ミウラさんが説いているのは男の論理だ」
「だから、女の私にはわからない、と?」
「そうじゃなくて、多くの言葉を費やす必要なんてないってことだよ」
「やっぱり、よくわかりません」
「曜子」
「はい」
「男は、魂やプライドといったものに、えらくこだわるんだ。裏を返せば、こだわらん奴は男とは言えないということだ。俺の中ではそうなんだよ」
「なんだか煙に巻かれたような気分です」
「はっはっは。まあ、そうかもしれんな」
悠が「まだ訊きたいことはあるかい?」と曜子に訊いた。曜子は「いえ、もうなにも」と答えると、カップに口をつけた。そのうち、二人は揃って立ち上がった。
「あのな、曜子。幸せがいつまでも続くだなんて保証はない。大切なヒトがいつ不意に奪われてしまうかわからない。だからこそ、今を大切にして生きたほうがいい」
「今を、ですか」
「悠。もう行っていいぞ」
「はい」
悠が出入り口のドアへと向かう中、曜子はふかぶかと頭をたれた。「貴重なお話、ありがとうございました」と言って、身を翻した。
二人が姿を消したところで、俺は窓のほうに目をやった。曇天。雪になるかもしれない。もうすっかり師走だ。