20.
伊織が我が喫茶店に一人でやってきた。バタフライタイプのサングラスをブラウスの胸元に引っ掛けると、カウンターの向こう、俺の目の前の丸椅子にどすんと腰を下ろした。「ライアン、コーヒー。メッチャ濃いヤツ。マンデリンがいいっ!」と怒りを込めるようにして勢いよく言うあたり、ご機嫌斜めなのだろう。もう夜も近いが客がゼロというわけではない。だから彼らは伊織のほうを見て驚いたような表情を浮かべたのだった。
オーダーされた品を速やかに提供する。伊織はそれを一口飲むと、ごちゃついた心を落ち着けるように、ふーっと息を吐いた。長い前髪を掻き上げて、今度は「はぁ……」と深いため息をつく。俺はカップを丁寧に拭いている。
「聞いてよ、ライアン。アイツね、自分が一番イケたセックスは、チェリーを卒業する一発目だとか言ったんだよ? もうマジ信じらんないっ!」
「そんなことで怒っているのか?」
「空気読めって話じゃない。私を抱いてる時が幸せだ。嘘でもそう言っていいってもんじゃない」
「おまえが悪い」
「なんで? どうして?」
「だって、おまえが訊いたんだろう? 一番具合が良かったのはいつだったか。そう問い質したんだろう?」
「そうだけど……」
「おまえのことを大切に思って、信頼もしているから、なんでも正直に話すんじゃないのか? 考えてもみろ。朔夜は朔夜で嫌なはずだ。自分以外におまえを抱いた男がいるという事実を愉快には思えんだろう」
「神崎さんのことを言ってる?」
「そうだ。なあ、伊織」
「なに?」
「神崎といた時間なんて忘れてしまえ」
「客観的な意見? それとも私見?」
「後者だ。だが、それのどこが悪い?」
「……実はぶっちゃけさ、時々、わからなくなるんだよ」
「今でも神崎のことが好きかもしれない。そう考えるのか?」
「うん……」
「最終的におまえが神崎になびいた時、俺は殺さないで済ませる自信がない」
「神崎さんのことを?」
「おまえのことを、だ。ああ、そんな気がする。おまえが朔夜を、俺達を裏切った時には、俺はおまえを殺してしまうかもしれない」
「ライアンにとって私は娘みたいなものじゃなかったの?」
「娘だからこそゆるせないんだよ」
「……わかった。朔夜には、こっちから謝ってみる」
「そうするのが賢明だ」
電話は繋がった。伊織は「……ごめん」と、しおらしく素直に謝罪して見せた。そしたらだ。今度は急に会話が乱れ始めた。ケンカを再開したわけではなく、なんらかのことを朔夜は伊織に伝えたらしい。伊織は「朔夜! ちょっとアンタ、朔夜っ!」と声を大きくし、まもなくして通話は切られてしまったようだった。
「なんだ? 朔夜がどうかしたのか?」
「わかんない。でも、らしくない。変だった。切羽詰まってたみたいだから」
「行ってみたほうがいいか」
「うん」
「俺も付き合ってやる」
「いいの?」
「念のためだ」
俺は今いる客に対して速やかに退店を促し、エプロンをはずし、漆黒の上着に袖を通した。外に出る。黄色いスイフトスポーツの助手席に乗り込んだ。
「ホント、アイツってば、ちょっと目を離したら、すぐにトラブル起こすんだから」
「そう言うわりには、少し楽しそうに見える」
「飽きないから。アイツといると、退屈しないから」
「神崎はおまえになにを与えてみせたんだ?」
「安らぎ」
「じゃあ、朔夜は?」
「わかんない。わかんないけど、メチャクチャイイ感じ」
伊織は歯を見せて笑ったのだった。
繁華街。うっすらと雪が積もっている。伊織が車をコインパーキングに入れた。ともに降車する。
「で、朔夜の奴は、どこにいるんだ?」
「不明。ここだって伝えてきただけだから」
「この繁華街は広くない」
「うん。建物が密集してるだけ」
「二手に分かれるぞ」
「了解。行ってくる」
「ああ。状況開始だ」
銃声がした。連続する。ドンパチは始まったばかりというわけではないのだろう。好奇心が旺盛なニンゲンはその場に留まり、賢明な者は街から出ようとする。当然、後者のほうが評価できる。
一度、「朔夜!」と叫んだ。俺の声は大きい。レオナからは「ライオンみたいだね」と笑われたことがある。それくらい際立つ声なのだ。
路地に入り、狭路を進む。朔夜の姿は見当たらない。不穏さをまとったフライトジャケット姿の男の背に行き当たる。男はダッシュ、逃げる。接近したところで男が振り返った。拳銃を掌底で弾き、腹部に当て身を入れて意識を奪う。俺は「朔夜っ!」と今一度叫んだ。「オッサン、こっちだ!」と返ってきた。やっとだ。やっと返事があった。声がしたほうへと駆け、特に細い道に入るべく建物の壁に背を預ける。
「朔夜、俺だ! 撃つんじゃないぞ!」
「大丈夫だ! 出てこい!」
ごみの生臭さが鼻をつく中、陰からゆっくりと姿を現す。灯りはまばら。暗い。ニャーッと怒ったような猫の鳴き声。少し進んだ先に朔夜がいた。俺の顔を見るとほっとしたような表情を浮かべ、九ミリのマガジンを交換した。朔夜はスーツ姿だった。漆黒のトレンチコートは隣に座る女に羽織らせている。白人の女だ。こちらが英語で話し掛けたところ、「日本語が通じる」と朔夜が言った。女は白いブラウスを着ていて、その左の腹部のあたりが真っ赤に染まっている。撃たれたのだろう。息遣いも頼りなく、真っ青な顔をしているのがわかる。
「にっちもさっちもいかなくなっちまって助けが要った。まさかオッサンまで来るとは思ってなかったけどな。ありがとよ」
「礼を言うのは早いぞ」
「ああ。この場を切り抜けねーとな」
そんなふうな短い会話を終えたところで、路地に顔を覗かせたのは伊織だった。右手には拳銃。左手にはサバイバルナイフ。射撃戦と容赦のない近接戦闘をこなしてここに辿り着いたのだろう。頬から顎にかけて返り血を浴びている。「数だけは結構いるみたい」という情報を冷静に展開してくれた。
朔夜が白人の女を両手で抱え上げた。
「二人とも頼む。敵を引きつけてくれ。俺はこの女を病院に連れていく」
「私が辿ってきたルートはもう安全。多分だけど」
「ここは任せろ、朔夜。さっさと行け」
「せいぜい、やられんなよ!」
そう言って、朔夜は走り出した。
あとを追えないよう、朔夜が消えた活路を死守すべく応戦する。次から次へと増援が送られてくる。挟撃に遭う。迎撃するにあたって人員が足りないことは明白だ。それでも、耐えて凌いでやりきるしかない。伊織がやや退く格好で、俺の背中に背中をくっつけてきた。予備のマガジンも尽き、いわゆる絶体絶命。にも関わらず、「さて、殺るか」と伊織は軽い口調で言い、力強く地を蹴った。ナイフでなんとかするつもりなのだろう。俺も同様の行動に移る。伊織とは逆の方向へと駆け出す。必然的に、いずれ勝敗は決する。悪い結果にならないよう、善処するだけだ。
伊織が連絡し、朔夜が最寄りの大学病院にいることがわかった。ぱっと見ただけでしかないが、あの白人の女が瀕死だったことは間違いない。伊織に車を走らせ、病院に到着。案の定、女は手術中だった。朔夜は長椅子に座ることもなく、立っていた。ポケットに手を突っ込んだまま、つまらなさそうに、壁を下から蹴り上げていた。
「悪かったな、伊織。それにオッサンも」
「容態はどうなの?」
「五分五分ってとこらしいぜ」
「いったい、どういうことなんだ?」
朔夜いわく、伊織との口喧嘩が原因でむしゃくしゃして、街に出て一人で飲もうとしたところで、銃声を聞いたらしい。その時にはもう、問題の白人、女は、真っ赤に染まったブラウスの腹部を押さえていたとのこと。女は「助けて……」とだけ言い、朔夜はそれに応じた。だが、数の力に対抗するのは厳しいと感じ、伊織に助けを求めた、という寸法らしい。
「俺が今知ってるのは、これで全部だ。だから、他には話しようがねーよ」
「生還が望まれるね。詳細を知りたいから」
「悪かったよ」
「ん? なにが?」
「一発目が一番イケたとか言って、悪かったっつってんだ」
「へぇ。ちゃんと謝れるんじゃない」
「でもな、おまえがあそこまで妬くとは思ってなかったんだよ」
「発言には気をつけること。私だって一人の女なんだから。オーケー?」
「わかったよ。にしても、死なれちまうと、バツが悪いよなあ」
「ニンゲン、そんなに簡単には死なんようにできている」
「オッサンが言うと、妙な説得力があるな」
三日後、女は目を覚ました。術後の経過は思いのほか良好だという旨も、病院に問い合わせた朔夜からあわせて聞かされた。もうしゃべることもできるらしい。そこで俺達は病室を訪れた。女は朔夜の顔を見ると、ベッドの上でぺこりと頭を下げた。安堵したような表情を浮かべ、にわかに微笑んでみせた。命の恩人の来訪を喜んでいるのだろうと予測される。
パイプ椅子に座った朔夜が「改めて、名前から教えてもらっていいか?」と訊くと、「ヤマダ・リンといいます」という返答があった。「ヤマダか。平々凡々としてんな」と、つまらない感想を述べた朔夜の頭を小突いた伊織は、「なにをしたの? どうして追われてたわけ?」と訊ねた。ヤマダは「それは……」と答えにくそうだ。
「全部話しなよ。悪いようにはしないから」
「あの……」
「うん」
「『アンノウン・クローラー』と言って、わかりますか?」
伊織がちらと俺のほうを見て、また目線をヤマダに戻した。
「知ってるか知らないかで言うと、よく知ってるよ」
「私、彼らの命令で偽札の製作に携わっていたんです」
「偽札、か。なるほど。潤沢と言える『UC』の財源には、そんな秘密があったんだね」
「だけど、偽札なんて、そう簡単に作れんのか?」
そんな朔夜の疑問に対して、ヤマダは「作れます」と冷静な顔で答えた。「まずバレません。そこまで精度を高めることができるんです」と続けた。
「でも、奴さんらの資金源を知ったってだけじゃ、あんまり意味はねーわな」
「すみません、ごめんなさい……」
目を伏せて謝罪したヤマダの反応を見て、伊織が朔夜の頭のてっぺんを、ぽかっと殴った。
俺は「どういう経緯があれ、偽札作りなんかに関わっていたのなら、罪はまぬかれない。お嬢さん。それは理解できるな?」と言い聞かせた。「はい。わかっています」とヤマダはうなずいた。「もう罪を重ねたくないから逃げたんです」と強い意志の感じられる真剣な眼差しを向けてきた。
「だけどよ、なにやるにしたって、退院してからだ。ちげーか? オッサン」
「違わない。ケガを治すことが先決だ」
「つーか、ヤマダさんよ、なんであんなとこに逃げ込んだんだ?」
「あの繁華街に『UC』のお店があります。裏カジノです。私の仕事場はそこの地下でした」
「その店、教えてくれるよな?」
「もちろんです」
朔夜がヤマダの顔に顔を近づけ、「俺に出くわしたのはラッキーだったな」と口元を緩めて見せた。「心からそう思います」と言い、ヤマダは笑顔を見せたのだった。
帰りの車中、伊織が運転する黄色いスイフトスポーツ。
「偽札ねぇ。んなもん、一発で見破れるご時世だと思ってたんだけどな」
「要点だけ押さえれば、作成は案外簡単だって聞いた覚えがあるよ」
「そうなんか」
「うん」
「原版作らせて終わりってわけにゃ、いかなかったのかね」
「重要な秘密を知ってるニンゲンを自由にするわけないでしょ」
「ま、そうだわな」
「あるいは、男どもの性の捌け口だったのかもね。綺麗な女だったし」
「言うなよ、それは」
「ごめんごめん。それにしても、『OF』も『UC』も、馬鹿みたいにはしゃぎっぱなしだね」
「首根っこを押さえねー限り、どうにもなんねーだろ」
「そういうこと。連中に対する従来のステータスに変わりはなし」
「だな」
「ライアン、今日はこれからどうする?」
「平常運転だ。自宅に戻って店を開ける」
「じゃあ、ウチらはパトロール。相棒、それでいいよね?」
「パトロールという名の、ただのドライブだけどな」
「ねぇ」
「あん?」
「帰りにさ、家具屋さんに寄ろうよ」
「はあ? なんでよ?」
「私達の暮らしを、もう少し華やかにするためだよ」
「俺はでけーベッドさえあれば、それでいい」
「ダメ。付き合いな」
「ちっ。わかったよ」
二人がソファに並んで座って、たとえば恋愛映画なんかを鑑賞している様子を想像すると、微笑ましい気分になる。朔夜はのっけから寝てしまいそうな気もするのだが。




