19.
九時五分前。そろそろ店を開けるべくエプロンをつけていたタイミングで、インターホンが鳴った。玄関におり、木製のドアを開けると、そこには黒いスーツを着た伊織の姿があった。「ハーイ」と言って、顔の横で手をひらひらと振る。それから、「ライアン、行くよ」と続けた。いきなりどこへ連れていこうというのか。まあ、どこであろうと、伊織からの誘いとあれば、断る術などないのだが。
「お嬢さん、朝っぱらから、どちらまで付き合えばいいのかな?」
「ジムだよ、ジム。早いとこ着替え取ってきて」
「おまえ以外には誰がいるんだ?」
「朔夜とハジメ」
「朔夜は当然と言えるが、ハジメは珍しいな」
「最近は結構、筋トレやってるよ。ボルダリングもやるし。へたっぴだけど」
「そうなのか」
「ヒトの生き死にを左右する組織にいる以上、その力を行使するニンゲンには、よりタフさが求められる。そんな信念に打たれたみたい」
「誰の信念だ?」
「朔夜」
「時には立派なことも吐くんだな」
「ねぇ、早く」
「止むを得んな。了解した」
俺は一旦表に出て、店側の出入り口へと回った。開店を心待ちにしていたであろう客が二人ほどいたからだ。「すまない」と頭を下げ、明日は一杯タダで振る舞うと約束した上で帰ってもらった。心遣いや心配りを忘れては、商売はやっていけないのである。
ジムに入って、軽い準備体操ののち、朔夜が「リングに上がれ」とでも言わんばかりに、顎をしゃくって見せた。揃ってリングに近づく。
「壊されたって文句を言うんじゃないぞ」
「アホ抜かせ。間違っても俺が壊れっかよ」
「おまえのその鼻、へし折ってやる」
「楽しみだぜ」
四角いリング上で向かい合った。互いにグローブはつけていない。
朔夜は一つパンと手を打つと、広げた両手をこちらに向けた。プロレスで言うところの”手四つ”だ。まずは純粋な腕力勝負をしようというわけらしい。
指を絡ませ合う。それから互いに手に力を込める。朔夜もデカいが俺のほうが巨大だ。それでも果敢に挑んでくるあたり、勇気があると言える。少々、向こう見ずな感は否めないが、そこもまあ、朔夜らしいところだ。
俺達は両手で力比べをしながら、胸をどんっとぶつけ合った。
「おぅ、小僧。その程度か?」
「この馬鹿力のクソオヤジがあああっ!」
キリのいいところで俺は手をはなして、朔夜の胸をドンと押して向こうに突き飛ばした。
「ほら、来い。口だけじゃないところを見せてみろ。男のコだろう?」
「がああああっ!」
朔夜が腰にタックルをしてきた。俺は動かない。動かないようにするための力の加減、足の置き場所、バランスのとり方は心得ている。朔夜の髪を掴んで、腹部に膝を入れてやった。分厚いタイヤを蹴ったような感触。筋肉の質はいい。まだ崩れないので、背中にハンマーブローを叩き込む。朔夜はうつ伏せに、べちゃっと、カエルみたいに潰れた。しかし、腕立て伏せの要領で体を起こし、力強く立ち上がって見せる。
「今日はここまでだ。また相手になってやる」
朔夜は「ちっ」と舌を打ち、「お付き合いいただき、ありがとうございましたですよ、クソオヤジ」と毒づいた。両手の中指までおっ立てて見せる。本当に幼稚な男だ。
リングの外でトップロープに上半身を預けて観戦していた伊織が、「朔夜。次は私とやろうよ」と言い出した。「とっとと上がってきやがれ」と応じた朔夜である。
朔夜が顔面への打撃を防ぐべく、まずガードを上げた瞬間、伊織がムエタイの構えから左のミドルキックを放った。二発、三発、四発と速射できるのは優れた筋力の賜物だ。だが、食らったところで、朔夜の体はビクともしない。むしろ間合いに飛び込んで右ストレートを突き出す。伊織は首を傾けるだけでやり過ごし反撃、顎にピンポイントで右の肘を入れた。急所だ。なのに朔夜は素知らぬ顔で立ち続ける。
「やーん、ゾンビみたいで気持ち悪いー。助けてよぅ、ライアーン」
「吹っ掛けたのはおまえだろう? 最後まで戦え、伊織」
「あたぼー」
伊織が右のロー、左のボディ、右のフックをテンポ良く決める。よけるなんて真似は滅多にしない朔夜だ。馬鹿みたいに強靭な体ですべて受け止める。
リングの外から二人の戦闘を見守る、俺、それにハジメ。
「み、見てるだけで怖くなっちまうぜ。震えちまう。俺っちはダメだ。近接戦闘は、やっぱダメだ。親父殿達のガチンコを目の当たりにすると、そう思わされるんだぜ」
「あんなの、全然、ガチンコじゃない」
「ま、まあ、そんな気もするんだけどよ」
「朔夜の筋肉の付き方はちょっと異常だな。絵に描いたようなトレンディな体をしている。あれは天性のものだ。伊織の奴の豹のようなしなやかさだって、ギフトとしか言いようがない」
「でも、親父殿の力量は、二人よりさらに上に見えるんだぜ」
「今のところはな。二人に後れを取るようになったら、俺も引退を考えなきゃならん」
「寂しいこと言うなよぅ。ってか」
「なんだ?」
「単純な疑問だ。本庄君もなにか格闘技を学べばいいのにな。そしたら、もうちょっとスマートに戦えるだろ?」
「奴には泥臭いケンカ殺法がお似合いだ。とことん不器用で単細胞な男だからな」
「本庄君って、本庁勤めの刑事だったんだよな?」
「経歴としては自慢できるものじゃないと言いたいのか? なら訊くが、自衛軍を退役して、中南米辺りのゲリラに加わっていたという過去は、そこまで威張れるものなのかね」
「威張れねーんだぜ、ベイベ。俺っちが好きな言葉がある」
「それはなんだ?」
「”信奉するは剛力のみ”だ。本庄君は見事にそれを体現してる」
「それでも、おまえだって無力じゃないはずだ。後輩に頼られた時は、きちんとアドバイスしてやれ」
「あいよっ」
伊織が戻ってきた。玉の汗が頬から首筋へ、首筋から胸元へと続く。俺がプラスティックの容器に入ったドリンクを渡すと、美味そうにごくごくと飲んだ。リングの中央では朔夜が大の字で倒れている。
「間違っても思い上がるなよ、伊織。どうせ朔夜は――」
「わかってまーす。本気で私とはやり合えないよね」
「女であることを悔しく思うか?」
「逆。女で良かったなって思う」
「そこにあるのは愛なのかい、ベイベ」
「そうに決まってるじゃない、ハジメ君?」
食事をとってから帰ろうという話になった。朔夜には伝説がある。マクドナルドのバーガーを三十個たいらげたという伝説だ。「ホントに食べちゃったんだよ?」と当時、目を丸くして、伊織はころころと笑っていた。その三十個を食べ終えた朔夜は言ったそうだ。「ヤベー、食いすぎた。ぜってぇ筋肉にはよくねーよな」と。だから、「ホントに筋肉バカ」と言って、また笑って見せた伊織だったのだ。
今日は二人の行きつけだというステーキハウスへ。朔夜は牛肉を五キロ食べるらしい。オーダーの瞬間、俺は驚いたりしなかったが、ハジメは「どひゃっ」とでも言わんばかりに両手を上げ、伊織は「そうでなくちゃ」とでも言わんばかりに、うんうんと、うなずいた。
俺達三人がきちんと肉を切ってそれなりに上品に口へと運ぶ中、朔夜はフォークを刺してむさぼるようにして食べる。隣に座っている伊織が紙ナプキンを使って、頃合いを見計らっては朔夜の口の端を拭う。二人は、いわゆるラブラブにしか見えない。だからこそ、本当に馬鹿みたいな話だから、やめてほしい。二人には神崎の”か”の字すら意識しないでもらいたい。それは俺だけの思いではない。『治安会』の総意であるはずだ。
「オッサン、それにハジメ先輩、肉、残ってっけど」
「じ、実に美味い肉だから、俺はゆっくりと味わっているんだぜ、ベイベ」
「オッサンは?」
「食いたいなら、また頼め」
すると、三キロ、追加オーダーした朔夜。運ばれてきた肉を、やはりフォークに刺して、がつがつとかじって見せるのだった。




