10.
「ごちそうさん」
コーヒーカップを空にすると、朔夜は席を立ち、身を翻した。「外で煙草吸ってんぜ」と言い残して、とっとと我が喫茶店から出ていった。いつもなら「灰皿寄越せ」と要求してくるところだが、以前、奴は「煙草は寒いところで吸うのがうまかったりするんだよ」などと意味不明なことをのたまっていた。特に愛煙家というわけではない俺にとって、その理屈は理解しがたい。外で吸いたい気分の時もあるのだろうくらいの解釈に留めておくことにする。
俺の向かい、カウンターを挟んだ先には伊織の姿。ただカップを傾けただけなのに、もうそれだけでセクシーだ。皿を拭いている俺と目が合うと、目を細めて見せた。そして、カップをソーサーに置くと、適度な厚さ、適度な大きさの実に魅力的な唇を開いた。
「ライアン」
「なんだ?」
「最近の私はどう映ってる?」
「色気がありすぎるから、親としては心配してる」
「あはは、そっか」
「ああ」
「ねぇ」
「なんだ?」
「私が知らない朔夜って、いるのかな」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味。ひょっとしたら、私はアイツのことを全部わかってるって、勘違いしているのかもしれないな、って」
「もしそうなら、どうだというんだ?」
「ライアンだけが知ってるアイツがいるんじゃないかって思ってね」
「データベースにある通り、俺と朔夜が仕事をともにしたケースは多くない」
「その数少ないケースの中から、なにか私の知らない話をしてよ」
「そうだな……。じゃあ、少しだけ話してやろう」
「うん。聞かせて?」
身を乗り出すようにして、伊織は両腕をカウンターに置いた。微笑んで見せる。興味津々といった様子だ。
「もう二年も前になるか。ちょうど今時期に起きた事件だ。おまえはアメリカで一か月間の研修中、いっぽうで朔夜はまだまだぺーぺーだった」
「報告書は読んだよ。ざっくり言うと、住宅街の公園で幼児を殺害した若い男がいた。被害者はまだ三つの女のコ。そんな事件にまつわる対応案件」
「そうだ。被害者は祖父母と一緒に散歩中だった」
「おじいちゃんとおばあちゃんには目もくれなかったって、加害者は言ったそうだね」
「その通りだ。孫を目の前で殺された祖父母の顔を見たかっただけだったと供述した」
「その情報を仕入れたボスが、ウチで処理することを決めた」
「ああ。要は消せという指示だった」
「勧善懲悪がウチのならわしだもんね」
「後藤さんの居室で事件のあらましを聞かされた時の朔夜の顔は忘れられん」
「相当、怖い顔してた?」
「あそこまであからさまにキレた男を見たのは初めてだった」
「それで?」
「拘置所に移送されるところを襲った。俺の役割は運転手だ。朔夜が一人でやると言って聞かなかったからだ。対象を始末するには警護のニンゲンを無力化する必要があった。当然、殺すことなく、だ。朔夜はペーペーなりに上手くやった。ワンボックスカーの後部座席に乗っていたターゲットを仕留めるまでの動きは見事と言えた。俺はその様子を古いセダンのバックミラー越しに見ていたわけだ。なにせ拘置所の近くだからな。人通りもなく、目撃者もいなかった。だが、朔夜が車に戻ってこようとしたところで、問題が発生した」
「どんな問題?」
「警護のうちの一人が立ち上がって、決死の一撃を放ったんだよ。予期せぬ反撃を受けたんだ。誰でも咄嗟に反応する。朔夜も振り返りざまに撃った。弾丸は頭に直撃した。当然、意図せぬかたちで、だ」
「その後のアイツの行動は?」
「助手席に座るなり、アイツは煙草に火をつけた。ミスったぜ。そうとだけつぶやいた」
「ふぅん。でも、朔夜が書いた報告書には、対象を速やかに処理、っていう結論しか記されていなかったよ?」
「事後、担当部署から問い合わせがあった。犯人移送中の車両が襲われ、身内が殺された。おたくらの仕業なんじゃないのか、とな。無論、後藤さんは知らぬ存ぜぬで押し通した」
「外部に対しては事件にまったく関わっていないとうたって、内部的には履歴だけ残すことにした。その結果が、あの報告書だってこと?」
「そういうことだ」
「でも、そんなクローズの仕方、朔夜は嫌がったでしょ?」
「独断で相手方の遺族に謝罪に行こうとする。後藤さんにそう見抜かれて、待ったをかけられた。そしたら、辞表を持ってきたらしい」
「ボスにうまくなだめられたんだろうけれど」
「そうだな。だが、今でも申し訳なく思っていることだろう」
「つらいって言ってくれたら、いつでも慰めてあげるんだけどなあ」
「青臭すぎるのが、本庄朔夜という男だ」
「男って、つくづく馬鹿だよね」
「それは否定せんさ」
「興味深いお話、ごちそうさまでした」
伊織はそう言って微笑むと、黒スーツの内ポケットから長財布を取り出し、紙幣をつまんだ。一万円札だ。それをカウンターに置く。要らんとは言わない。こうして支払われた金は手をつけることなく取ってある。俺はちょっとした貯金箱というわけだ。
立ち上がった伊織は、丸椅子に畳んで置いてあったトレンチコートを右肩にかついだ。身を翻すとひらひらと左手を振って、「じゃあね」と言った。だが、出入り口へと向かう途中で足を止め、ふとこちらを振り返った。
「私ね? どんどん朔夜に惹かれてる。どこまで愛しちゃうのか、底が見えないんだ」
「なにか心配事でもあるのか?」
「それはね、やっぱり浮気。ないとは思うんだけどね」
「念のために、アイツの背中に”予約済み”とでも書いた紙を貼っておいたらどうだ?」
伊織は「ライアンが冗談を言うなんてね」と言い、クスクスと笑ったのだった。




