1.
そう遠くはない昔のこと。
客の注文に応えるためのバケットを買い、ひいきにしている八百屋からは色とりどりの野菜を仕入れ、最後に二人で食べる肉を選んでから帰路を辿った。女房の好物は牛肉だった。いつも「牛さん、ありがとうございます。今日も感謝いたします」と手を合わせてから、レアのステーキを頬張った。熱そうに、はふはふと口を動かす姿はとても愛らしかった。うまそうに食べる様子は、本当に微笑ましかったのだ。
翌日も女房に言われた通りの品を買った。バケットは六つ。一つはウチ用。愛車の黒いハマーを駆って家路についた。そして、十数分後。自宅であり、また喫茶店でもあるログハウスに到着し、いつも通りドアベルを鳴らして中へと足を踏み入れた。誰も見当たらなかった。静かな空間にあって確かな違和感を覚え、カウンターの向こうを覗いた。
女房のレオナが、食器棚を背にして、へたり込んでいた。血の匂いを強く感じた。抱えていた荷物を放り出し、一枚板のテーブルを回り込んで彼女に寄り添った。カウンターの隅のレジには無理やりこじ開けた形跡があった。強盗に遭ったことは一目瞭然だった。
レオナは腹部を撃たれていた。もう助からない。一目でそうわかった。
俺とレオナは二十近くも歳が違う。しかし、彼女にかしこまった接し方をされたことはない。いつも、「ライアン君、ライアン君」と呼んだのだ。抱いてやるたびに漏らした、悦に満ちた官能的な甘いささやきの数々は、いつまでも耳に焼きついたまま残ることだろう。
今わの際にレオナは言った。弱々しく。
「私、幸せだったよ?」
「レオナ、俺は……」
「ライアン君、五十もなかばなんだからって、遠慮することはないんだからね?」
「馬鹿を言うな。俺はおまえが相手だからプロポーズしたんだぞ」
「うん。知ってる」
「だったら」
「バイバイ、ライアン君。次、生まれ変わっても、また貴方と結ばれますように……」
がくりと首を前にもたげ、遺体となってしまった女房のことをぐっと抱き締め、「ありがとう」と呟いた。それが精一杯の手向けの言葉だった。
葬儀を終え、一息ついた日の夜、街のバーを訪れた。レオナとしばしば訪れた店だ。ボックス席に一人座り、サングラスを外して目頭を押さえた。涙が出そうになったわけではない。ただなんとなく、疲れを感じていた。
その男は静かに現れた。「失礼するよ」と断ってから、向かいの席に腰を下ろした。彫りの深い顔立ちと痩躯の長身を見て真っ先に想起したのは晩年のクリント・イーストウッド。真っ黒なスーツをまとっている様は、紳士然とした容姿と言えた。
当時、交わした会話はよく覚えている。
「ライアン・ミウラさんだね?」
「貴方は?」
「僕はゴトウ・タイゾウという。ゴトウはよくある後藤、タイゾウはよくある泰造だ。金髪のクルーカット、聞きしに勝る巨躯。目立つこと目立つこと」
「貴方も充分に目立つと思いますが。どうして、俺のことを?」
「悪いけど、いろいろと調べさせてもらった」
「調べた?」
「うん。経歴とその詳細を調査した。軍属時代、前線にて、君はいわゆる”非正規業務”に従事する部隊を率いていたそうだね。”非正規業務”。すなわち、対基地攻撃や拠点制圧等を主目的とする能動的な軍事行動だ。平たく言えば、人殺しもオッケーだということだ。だから、当然、おおっぴらにはならないし、大っぴらにすることもできない。我が国の法律では先制攻撃の権利すら認められていないんだからね」
「驚きましたな。くだんの業務を知る立場にあるニンゲンは多くないはずだ」
「僕の二つ名を教えてあげよう。”情報倉庫”だ」
「失礼ですが、どちらの組織のかたですか?」
「『治安会』という」
「聞いた覚えがない」
「奥さんは残念だったね」
「急に話が飛びましたな」
「僕にとってはシーケンシャルだ。君は奥さんの復讐を果たしたいと思わないかい?」
「したいと言えば、叶うんですか?」
「叶う。超法規的措置というヤツだよ。僕には力がある。どうだい? やるかい?」
「……いえ。やめておきます」
「どうしてだい? 殺したくないわけはないだろう?」
「怒りはあります。憎悪もしている。しかし、そういった負の感情をよしとはできない。そこにあるのは俺のプライドです。そうでなくたって、女房との思い出を復讐劇で終わらせたくはありません」
「なるほど。こだわりのヒトだね。見た目通りの堅物だ。さて、そんな君だからこそ、お願いがある」
「伺いましょう」
「蒸し返すようでなんだけれど、『治安会』は今、構築の最中でね。君にはメンバーに加わってもらいたい」
「仕事の内容は?」
「なんでもやる。犯罪に対して攻撃的であり、また試行的な集まりだとでも言っておこう」
「俺はドンパチの現場から離れて久しいですが」
後藤は微笑し、「君ほどの男ならすぐに感覚を取り戻すだろう」と言い、「組織の屋台骨を支えられるのは君しかいない」と続けた。彼一流の殺し文句だったのだろう。実際、胸に響くものがあった。
現在。
窓から差し込む夕日が少し眩しく感じられる。店内に自分しかいない。そこを狙い撃つようにして同僚が訪れた。挨拶もそこそこに二人して丸椅子に腰掛ける。一人は女。浅黒い肌がいかにもセクシーで、セミロングの黒髪はエナメルでも塗ったかのように艶やかだ。神様の傑作と表現してもなんら差し支えのないその美女の名は泉伊織という。もう一人は重めのマッシュにニュアンスパーマの男。「俺は坊主でもかまわねーんだよ」と、しきりに訴えているらしいのだが、バディである伊織から「ダメ」とNGを出されているらしい。名は本庄朔夜という。
俺は伊織のことを娘のように思っている。朔夜はまあ、朔夜だ。朔夜は基本的に利口ではない。ただ、評価できる部分もあって、それは肉体的にも精神的にもタフなところだ。一本、筋が通った性格であり、目標を定めたらなりふりかまわず突っ込むだけの度胸と行動力がある。男として買うだけの価値はあるのだ。だが、無礼な点はマイナスだ。こちらのほうがずっと年長者なのに、今日も「オッサン、早いとこコーヒー出せよ」だなんて偉そうな口を聞く。
「朔夜、俺はおまえにタダでコーヒーをくれてやる義理はないんだぞ」
「金なら払ってやる。とっとと出しやがれ」
伊織が朔夜の側頭部をぽかっと小突いた。
「いてーよ、馬鹿。なにしやがる」
「ごめんね、ライアン。我が相棒はいつまで経っても子供なんだ」
「知っている。朔夜は成長とは無縁だ」
「んなこと言うなよ。仲間だろ、仲間」
「おまえは違う」
「ひっでぇ」
「あんまり突き放したりしないでやってよ」
「伊織がそう言うなら、そうしてやる」
「オッサンは伊織に優しすぎんぞ」
「娘に優しくしてなにが悪い」
「またそれかよ。つーか、オッサンの女房と伊織って、大して歳は変わらねーんじゃねーのか?」
「女房は女房。伊織は伊織だ。おまえにあれこれ言われる筋合いはない」
「わぁった。わぁったよ」
ともすればぼさぼさに見える頭を、朔夜はぼりぼりと掻いた。
コーヒーを振る舞ってやる。お上品にカップに口をつける伊織だ。朔夜はなっちゃいない。片手間にすすり、ぷかぷかと煙草を吹かす。今時、禁煙ではない喫茶店なんて珍しいだろう。喫煙をゆるすことは、レオナのヤツが決めたのだ。「喫茶店は大人の社交場なんだから」ということらしかった。
不意に朔夜が、「ここっていい場所だよな」だなんて言い出した。俺は白いカップを拭きながら「どこがだ?」と訊いた。「どうせログハウスが好きだとか、そんなつまらん理由じゃないのか?」と問い掛けた。
「ちげーよ。オッサンの女房に対する愛が感じられるからだ」
「愛? おまえが愛を語るのか?」
「マズいかよ」
「いいや。マズくはない」
俺は苦笑を漏らした。その表情を目ざとく見ていたらしい伊織は頬を緩めつつパーラメントの切っ先に火を灯した。
「朔夜もたまにはいいこと言うでしょ?」
「だからと言って、おまえを簡単にくれてやるつもりはないぞ」
「そのへんは自由にさせてよ」
「朔夜は賢くない」
「そのあたりも大目に見てやって」
一服つけ終えると、伊織が「さ、行くよ」と言って椅子から腰を上げた。朔夜も煙草の火を灰皿で消して、彼女に続く。
「オッサン、また来るぜ。つーか、仕事で顔合わせるほうが先かもな」
「おまえとは組みたくない。伊織となら歓迎するがな」
「冷たいこった」
朔夜は「じゃあな」と言い、ドアベルを鳴らして出ていった。
ライアン・ミウラ。その名の通り、俺は日系だ。レオナとは軍人が足繁く通う小さなレストランで知り合った。一目惚れだった。そこに偏見みたいな解釈があったのかどうかは定かではないが、彼女の両親は俺に娘をくれてやることに難色を示した。しかし、当の本人が強引に押し切った。「私はレオナ・ミウラになるの。そう決めたの」と強く宣言してくれた時、大げさな話でもなんでもなく、涙しそうになるくらいの嬉しさを覚えたものだ。
レオナには一つだけ、彼女自身が残念に思っていたことがあった。先天的に子を孕めない体だったのだ。それを告白をした時、彼女は泣いた。「ごめんね、ライアン君、ごめんね……」と絞り出しながら。そんなことは俺にとって、取るに足らない事実だった。レオナさえいてくれればよかった。レオナと過ごした時間は、けして長くなかったように思う。それでもかけがえのない存在であったことは間違いない。
レオナ。おまえが愛した裏庭、イングリッシュガーデンの手入れは、毎日朝一で欠かさずやっている。おまえは、「大きなライアン君に庭仕事はやっぱり似合わないね」って、天国で笑っているんだろうな。