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エンハンスドブレイン

作者: 転々

「早く『処理』してしまいなさい」


 まただ。

 母さんは僕に『処理』を急かす。




 人類の大多数が義体と拡張脳を使うようになってどれだけ経つのだろう。


 分子レベルで脳の活動を再現できるようになって、すでに四世紀。今ではほぼすべての人が、拡張脳を使っている。心や感情は脳の働きであり、それは化学物質と電気信号だ。それらを完全にエミュレートすることで、僕たちは脳のはたらき――意識や心を――機械に移している。そして、記憶を外部化しエミュレーションのクロックを上げることで、そのはたらきを拡張している。


 脳のはたらき――意識――を外部に移すことで、老化から無縁となり、寿命という概念から解放される。一部の宗教的価値観に縛られない限りは、永遠の命を享受できる。

 ところが、ほぼすべての人は百年から百五十年ほどで義体を使うことを止め、意識のみを残すようになる。そして、義体を失うと急速に意識自体が失われてしまう。あるいは、意識が失われてゆくから義体を捨てるのかも知れない。

 それが、人の心の寿命だという人もいるが、それでも僕たちは肉体や脳の耐用年数を超えて生きられるのだ。


 僕たちという表現は、今のところ正しくないな。僕は、拡張脳を使っているけど、自前の脳とのリンクも残している。拡張脳に意識を()してはいるけど、クロックアップの恩恵は受けられないし、通信ラグの影響も受ける。




 脳から完全に意識を拡張脳に移すプロセスは、脳と拡張脳のリンクによる。それは脳とそれに合わせた拡張脳の発達とともに密接なものとなり、その活性の相似性がある閾値を超えた段階で、拡張脳単体で活動する時間を設ける。年齢を経るごとにリンクを切る時間を長くする。

 その間、脳には疑似信号が送られ、拡張脳とのシナプス活性の差異が十分小さくなったら、拡張脳のみで生きることになる。


 僕はそのプロセスに恐怖を感じている。

 確かに、今この瞬間も脳とのリンクは絶たれ、この思考は拡張脳によって為されている。僕の、僕という自我や意識は、オリジナルの脳を離れて存在している。

 では、そのコピーの元となった脳の意識はどうなってしまうのだろうか。脳とリンクしたときにも既に違和感を覚えることは無い。実際の信号に基づく拡張脳の働きと、疑似信号による脳のはたらきとの間に差異が無いからだ。

 つまり、この意識や思考は、オリジナルの脳でも寸分違わず同じことが行われているということだろうか?


 でも、拡張脳と同一の意識を持った脳を『処理』するということは、僕の意識を持った脳の命を絶つということではないか?


 意識を持ったまま機能を停止させられる脳は、その瞬間何を想うのだろうか? その『処理』を行う瞬間はリンクを絶って行うことになっているから、拡張脳での僕にそれを知ることはできない。




『我思う、故に我あり』


 大昔の哲学者の言葉だ。拡張脳も意識を持ち、思考する。オリジナルの脳も同様だ。と言うことは、僕は同時に二人存在し、僕の意思でそのうち一人を殺すことになるのだろうか?


 それを考えると恐ろしい。




「いつになったら『処理』するの? そのままにするんだって、ただじゃないのよ。それに、クロックアップは早くするほどなじみやすいし、その方があなたの将来のためなのよ!」


 わかっている。わかっているけど、怖いんだ。これは、僕が僕の意思で僕の意識を絶つってことだよ。




 無視できない人数の人が、オリジナルの脳とのリンクを永久に絶つことに恐怖感を持っていた。だから、それは本人の自由意志に基づいて行われると法に定められている。

 確かにそうなんだけど、それを先延ばしにするということは、クロックアップの恩恵を受けられないばかりか、脳の維持にコストもかかる。そして、脳の能力が衰え始めれば、それを模して作られた拡張脳も衰えるのだ。




 延ばし延ばしにしてきたけど、ついに僕はこのボタンを押す。

 リンクを絶って既に四十八時間。それでも疑似信号によって、オリジナルの脳は、今僕が見ているものと同じものを見ているのだろうか? それとも、今こう考えている僕は、疑似信号を送られているだけの脳だろうか?




 僕はボタンを押した。


 驚くほど、何も起こらない。


『処理』プロセスは瞬時に行われるらしい。『処理』された脳にとっては、突然時間が止まったようなものなのだろうか。ただ、時間が止まったから、脳はそれを知覚することができないだけなのだろうか?

 僕はここに居て、何も感じていない。ボタンを押す前と何も変わっていない。


「良かったわね。これであなたも脳の呪縛から離れられたわ。

 まずは、クロックアップと並列思考から試してみましょう」




 拡張脳は素晴らしかった。今までは漠然としか捉えられなかったものが、細部にわたって、しかも抽象的なレベルで捉えられる。

 同時に扱える情報量も記憶も段違いだ。なぜ、もっと早くしなかたんだろう?




『我思う、故に我あり』


 これは、結論ではなく出発点だ。


 突き詰めて考えるということは、あらゆることを疑ってかかるということでもある。でも、考えている自分の存在は否定できない、それが思考の出発点なのだ。


 今、僕は考えている。それは、否定できない事実だ。その部分だけは何の疑いも無く、そこに葛藤も無い。

 いや、葛藤が存在したことを客観的に観察できるようになった。


 一年前の僕に言いたい。早く『処理』すべきだよ、と。

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