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エッセイ

駄洒落バンザイ!

作者: 仲山凜太郎

 石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に洒落事の種は尽きまじ


 日本はとても洒落を愛する国だ。洒落と言うより言葉遊びと言い直しても良い。

 おせち料理をはじめ、縁起物の名前などはほとんどが洒落でつけられている。観光地のお土産店に行けば、駄洒落ネームがたいてい見つかる。

 ご当地料理などもそうで、長野の「山賊焼き」など要は鶏の唐揚げで、なんで山賊焼き? と思ったら「山賊は人からものを取り上げる(から、鳥、揚げる)」だからだそうで。

 だったら山賊揚げだろうと言ったら「商売あがったりにつながって縁起が悪い」とこんな調子である。

 作家が自分のペンネームを洒落でつけているのも多い。江戸川乱歩が「エドガー・アラン・ポー」の、官能作家の蘭光生は「乱交せい」、漫画原作の牛次郎は「牛耳ろう」のもじりなのは割と有名だ。

 小説家になろうに登録している人達にも、洒落でペンネームをつけている人は多いだろう。

 作者がこうなのだから、作品世界の登場人物ではなんと語呂合わせでつけられた名前の多いことか。ギャグ作品など普通の名前が珍しいぐらいだし、シリアスな作品のキャラだって言葉遊びでつけられていることがある。

 エロ漫画のキャラも駄洒落ネームが多い。これまで「万光/満高/尾萬古」という一見女性器読みの名前の主人公を何人見ただろう。近藤むしろ(コンドームしろ)なんて名前の女キャラもいたな。


 駄洒落は場の空気をしらけさせる手段に使われることが多いが、だからといって否定的な描き方をされることはない。駄洒落もそれを言う人も、大半はくだらないけど愛すべきギャグとして描かれている。

 人はなぜここまで駄洒落を愛するのか?


 洒落の世界では、金持ちも貧乏人も、天皇もホームレスも関係ない。いや、むしろ「強い」「偉い」「金持ち」ほどネタにされるのが洒落の世界だ。

 実際、ギャグの世界では上の3つに該当すればするほどそのキャラはバカになっていく。

 これは当然の話で、自分より上の存在をネタにするからいいのであって、弱いものを相手にすると、これは洒落とか風刺ではなく、単なる悪口、弱いものいじめになってしまう。

 つまり洒落とは庶民が堂々と上の人達をネタに出来る手段、言葉の道具なのだ。上の人達に対してだから、ストレートにネタに出来ず、いろいろいじったり捻ったりする。その捻りが洒落となるのだ。

 上の人達もそれはわかっているのか「有名税」とか「ネタにされるのも仕事のうち」と割り切ったりする。もっともそれにも限度があり、最近はそれがどんどん低くなっている気もするが。

 そんな洒落の世界でも最低レベルの洒落が駄洒落である。風刺ほど世情を読まず、相手にすることすら馬鹿らしくなってくる洒落。

 ダジャレ芸術協会会長の三遊亭小遊三師匠も「正統派のダジャレはレベルが低い」「ダジャレの基本方針は、世のため、人のためにならないこと」と語っている。ある漫画の駄洒落大好きキャラも「駄洒落はくだらなさが命」と言い切っている。同感である。

 ただ、師匠の意見の中で「駄洒落の世界は底が浅いようで深く、深いようで浅い」というのは同意しかねる。

 私は断言する。駄洒落の世界は底が浅い。駄洒落のプールに飛び込めば、間違いなく床に頭をぶつけ、たんこぶ姿でぷかーっと浮くことになる。しかし横を見れば途方もなく広い、まるで遠浅の海のようなものだ。そう、駄洒落は海のように世界に広がっている。

 底が浅いからこそ皆に馬鹿にされ、幅が広いからこそ皆に愛されるのだ。


 駄洒落が愛される最大の理由は、誰でも作れることだ。

 洒落を作るのに道具はいらない。口に出しても文字にしてもいい。ただ、どっちもいい駄洒落というのは滅多にない。文字にすると面白い駄洒落の多くは、口にしてもちっとも面白くない。これは数々の駄洒落本が証明している。

 駄洒落でもっとも大事なものはリズムである。駄洒落の大半が短く、同じ音の連続で出来ているのはそのせいだ。

 これは駄洒落の基本みたいなもので、「猫が寝込んだ」「ワニが輪になる」などいくらでも例がある。某人気漫画の主人公が使ったことで一気に知名度が上がった「ふとんがふっとんだ」もこの類いだ。だからこそ、駄洒落作りはまずネタにする単語をつなげて、後者を軽く捻ってみるのだ。

 他には、最後の単語を音感の似た別の単語につなげてしまうものがある。古くからある「恐れ入谷の鬼子母神」などはこの類いだ。このサイト名を使えば「小説投稿斉藤さん 饒舌家になめろう」であろうか。

 そうして作られた駄洒落だが、地域限定のものがかなりある。その土地にいる人にしか通じない駄洒落。先に述べた「恐れ入谷の鬼子母神」だって、入谷の真源寺に鬼子母神像が祀られていることから出来たものだ。実際、青森の「恐山のイイダコ」、千葉の「落下政治家」など、当地駄洒落はかなりあるのではなかろうか。


 そして忘れていけない、駄洒落作り最強の味方。

「日本語入力ソフト」

 パソコンで小説を書く人ならば誰もが経験のある誤変換。これこそ駄洒落作りにおける最高のパートナーである。推敲時に誤変換を見つけるとやっちまった感にがっかりするが、実はソフトが駄洒落で張り詰めた私たちの気持ちをほぐそうとしているのかも知れない。そういうことにしておこう。

 駄洒落作りで詰まった時は、わざと変なところで区切って変換すれば、わざと一文字違えて変換すれば、素敵な駄洒落を作ってくれる。欠点は、ソフトの方でそれが正しい変換だと勘違いしてしまうことだが。

 だが、このような作り方ではすぐに飽きてしまう。

 もっともそれは仕方がない。洒落というのは力を入れて作るものではない。ふっと気が抜けた時、勢い込んで言い間違えた時、茶目っ気の神様がひょいと下りて出来るものなのだ。

 駄洒落作りに大切なことは「考えるな、感じろ」である。考えれば考えるほど作れなくなるのが駄洒落である。追いかければ追いかけるほど逃げていく恋に似ている。そうか、私は駄洒落に恋しているのか……。

 駄洒落は俳句や短歌と違って誰が作ったものかはわからない。だからこそ、みんな肩に力を入れずに受け入れられるのだ。

 そう、駄洒落は人類の共通財産なのだ。駄洒落に著作権はいらない。

 底の深い海にはプロのダイバーしか潜れないが、底の浅いプールはみんなが泳げるのだ。


 そんな底の浅い駄洒落であるが、私は小説家志望が駄洒落作りに勤しむのは悪いことではないと思っている。

 先述したが、駄洒落はリズムが大事である。

 読みやすい文章はテンポが良い。リズムがある。つまり、駄洒落をよく作る人は無意識のうちにリズムの良い文章を書くようになる。読者にとって気持ちの良い文章だ。

 私はそう思っている。だから文章の勉強の一環としてたまに駄洒落を作る。もっとも、それが実になっているかは自信がないが。

 作れば作るほど駄洒落がいかに馬鹿馬鹿しいか、くだらないか、そして楽しい存在なのかがわかる。

 ただし発表はしない。恥ずかしいから。

 昔、私がアニメのシナリオを学んだ時、講師が「笑いのセンスの磨き方」というのを教えてくれた。

「何でも良い。ギャグを思いついたら、その場で誰かに言え。単に思いついただけで、練りもせずに口にするんだから10回に1回、いや、20回に1回ウケれば良い方だろう。

 しかし、他人に聞かせることによってそれがウケるかウケないかがわかる。それを繰り返しているうちに、20回に1回ウケるのが15回に1回、10回に1回になっていく。それは、人は何に笑うのかを知り、それに基づいたネタ作りを自然に行えるようになっていくと言うことだ」

 是非はともかく、私はなるほどと思ったものだ。しかし、このやり方には

「この方法には一つだけ欠点がある。やればやるほど友達がいなくなるんだ」

 という大きすぎる副作用があり、私は未だ実践していない。


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