ヘイ、アーユースレットゥンドゥ?②
タブレット端末を開いた時、菅野さんは驚いて端末を凝視していた。そして、自分の顔に近づけて、ありえない、と口にした。本当に驚いていたのか、端末が菅野さんの手からこぼれ落ちた。
それを素早く俺がキャッチする。しかし、菅野さんはそんなことに気づきもせず、夕立ちゃんへの怒りを顕にしていた。その理由はタブレット端末に映った映像にある。
「これはどういうことですか!」
菅野さんの声が事務所内に響いた。
「何って見たまんまだよー?」
そう言って夕立ちゃんは俺からタブレット端末をひったくって再び菅野さんに見せた。
映っていたのは菅野さんの家族のデータ。菅野さんの母親、結婚相手、そして一歳になったばかりの息子だ。全員の生体情報を始め、住所、現在位置、顔写真といったパーソナルデータがずらりと映されていた。
夕立ちゃんはその顔写真を見て、くすりと笑った。彼女が今見ているのは結婚相手の顔写真。町中で菅野さんと出歩いているところを撮ったものだ。実に幸せそうに見えた。
「これって奥さんだよねー」
「だからなんですか?」
んふふふー、と下卑た笑みを浮かべて、夕立ちゃんは結婚相手の顔写真にバツを引いた。バツを引いた瞬間、彼女のタブレット端末にメッセージがとんできた。
『こいつを殺すんですね』
という物騒な文面のメッセージだった。
「ていうかことらしいよー」
どうすんのー、と夕立ちゃんはとても楽しそうにおだてる。まるで悪魔のような人間だった。
夕立ちゃんが今やっていることは完全なる脅迫である。自分の言うことを聞かないとお前の家族を殺しちゃうぞー、というタイプのよくある脅しだ。
そして大抵こういうのはうまくいくのだ。なぜならヒーローは善人を傷つけることができないから。だから悪人であるこちらとしてはやりたい放題というわけだ。
「ほら、あと十秒で決めなよ。でないと殺されちゃうよ、お・く・さ・ん」
菅野さんは表情をどんどん歪めていく。そこには最初に会ったときの面影はなく、もう夕立ちゃんへの怒りしかないようだった。
「どうするのかー、菅野くんはー?」
「わかりました!」
夕立ちゃんが命令文を出す一歩手前で菅野さんは待ったをかけた。それが菅野さんに残された唯一の選択だった。悲しきかな、正道では邪道には勝てないのだ。
「貴女の要求を飲みます。私は貴女の不正については何も知らない」
絞り出すような声だった。菅野さんにとってそんなことは許されないことなのだろうが、ことこの状況では仕方のない判断だ。俺は英断だと思う。
「それじゃ、もうここにいる意味ないよね?帰っていーよー」
夕立ちゃんに」言われるがまま菅野さんは事務所から出ていった。遠巻きに見る彼の後ろ姿がとても悔しそうに見えた。
「いやー、うまくいったねー、千景も協力ありがとー」
菅野さんが完全に事務所を出たことを確認して、夕立ちゃんはとても嬉しそうに笑い転げた。この人絶対いつか地獄に落ちるんだろうなー。
俺が今回夕立ちゃんにしたことは一つだけ。メッセージをタブレット端末に送ることだ。実際夕立ちゃんも本当に菅野さんの家族を殺そうとしたわけではない。
もし菅野さんが家族の命など惜しくない、とかかっこいいセリフを吐いたら、すぐに実力行使で菅野さんに強制的に不正の隠蔽に協力させていただろう。
それを確認するためにあえて手の込んだ仕掛けを用意したのだ。とはいえ、信憑性を持たせるためにタブレット端末のデータは本物にしてある。その気になればいつだって菅野さんの家族を殺せるし、拉致して監禁することも可能だ。
「どういうことですか、社長!」
納得のいかない社員の一部が夕立ちゃんに詰め寄ってきた。仙斗を初めとして、他中堅クラスの社員が三名、浅木、近衛、辻。いずれも仙斗と同年代の男衆だ。実力はほとんど仙斗と同じくらいだ。
「なにがー?」
「あんたが不正をして豪遊していたって話だ!」
「ああそのこと」
夕立ちゃんはさも興味がなさそうにつぶやいた。
「納得のいく説明をしてくれ!」
仙斗はそれなりの剣幕で夕立ちゃんに詰め寄った。夕立ちゃんの実年齢を知らなければ、幼女を脅している不良にしか見えなかった。
「めんどくさいなー。じゃー、ちかげー説明よろぴくー」
そう言って夕立ちゃんは俺に丸投げした。しかも自分はのんきに寝てやがる。窒息死させたいこのクソ女。
「じゃー不肖ながら俺が説明します」
やっぱ知ってたのか、と仙斗は悪態をついた。他の三人も同様だ。怖いなー。
「えーと、今回の件ですが、うちの社長が会社の金を使い込んで、俺がその隠蔽をした、という筋書きです」
「はあ?何してんのお前。犯罪だろ」
それを言うならこの会社自体も合法じゃあないんだよなー。大体傭兵になってる時点で、犯罪がどうのと言われても実感ないしね。
「説明になってねーよ」
辻先輩が吠えた。
「いや、ですからね。一週間前にうちの社長から予算データの改竄を命令されて、今日の監査にその得たんですよ。で、結果がこれです」
「脈絡のないな」
「まあ、そうですね。えーと、そんでもって結果としてうちは今月給料が払えません」
「はあ?」、という声が事務所中から聞こえてきた。無論寝ている夕立ちゃん、俺、灯以外が発している。それまで我関せず、とばかりに平静を保っていた他の社員まで俺に詰め寄ってきた。
「どういうことだ!」
「今月タダ働きか!」
「おい、ざけんなよ」
「うちらだって生活かかってるのに」
口にしていることは様々だったけれど、一貫すればこういうことだ。
ふざけるなよ、だ。
当然と言えば当然だが、反応は予想以上でもう俺の手には負えそうになかった。わりとマジな方面で。
「あの、夕立ちゃん?そろそろ限界なんですけど!」
どうすることもできずに、夕立ちゃんに助けを求めた。しかし、夕立ちゃんは本当に熟睡しているのか、全く反応を示さない。
「大体、うちの会社で給料もらえないなんてよくあることじゃん。何興奮してんの」
「その理由がわかったからだよ」
まったくもってその通りだ。これまでは夕立ちゃんがわざと、うちは予算が少ない上に実績があまりないから給料が払えないの、ということを言っていたが、その謎が解けてしまえば嫌でもこうなる。
自分たちの報奨金が社長の豪遊の足しにされていたなんて、聞いていて腹立たしく思わないわけがない。それに加担していた俺も同罪なわけだが。とはいえ、俺はおこぼれとか預かってないけどね。それなのに避難されるのは理不尽だ。
「じゃあ別の会社移ればいいじゃないの?そっちのほうが高待遇かもよ、本社とか」
それを聞いて少しだけ連中が押し黙った。辞表書いて飛び出しちまえば、夕立ちゃんは手出しができない。もともと本社の信用がない夕立ちゃんがいくら再就職の先を潰しにかかろうと、無駄だからだ。つまり、これは彼らにとって千載一遇のチャンスということだ。
「そんなことはさせないけどねー」
不意に夕立ちゃんが目を覚ました。その直後の悪人らしいセリフだった
「あたしがあんたらの辞表なんて受け取るわけ無いじゃん。つーか、金の卵を生む鶏を捨てる阿呆なんていないでしょ」
うわ、この人本気でそう思ってんの?だとしたら相当に性根が腐ってんなー。
「あんたね……」
攻撃的な目線を仙斗が向けていた。これは手を出すかなと思ってコインで傷をつける準備をする。
しかし、それより先に夕立ちゃんが動いた。
「あんたらがうちの会社止めたら、あんたらの家族ごとぶち壊すよ?」
珍しく夕立ちゃんは少しだけ身震いするような声音で語りかけた。それだけ自分の所有物である仙斗らを逃したくない、ということか。
こう言われては仙斗らは何も言えない。自分の家族にまでこのブラック社長の手が伸びるのは避けたいのだ。この人おっかないから。
「わか……った」
「わかりましたでしょ?」
「わかりました……」
夕立ちゃんに気圧されて、仙斗らはすごすごと退社していった。あとに俺と灯だけが残った。
「随分と強引でしたね」
俺が夕立ちゃんに向けてポツリとつぶやく。
「そうかもね。でもさ、自分の所有物件がひとりでに歩くのは嫌でしょ?」
それって言ってることが古代の王様とか皇帝様なんですけど。社員はそりゃあ社長の駒でしょうけど、権利くらいはあるよね。我が社は奴隷制はないわけですし。
「それにさ、あそこでごっそり社員が止められるのはかーなり困るんだよねー」
いつの間にか夕立ちゃんの喋り方がいつもの調子に戻っていた。それはそうとして、ひどく自分勝手な理由だった。経営者として社員が減るのは嫌なのだろうが、それを止めるやり方が強引に過ぎた。
「そういえば千景さー、けっこう払いがいい依頼がきてるんだけど受ける?」
「何の依頼ですか?」
「東の防壁の監視任務。基本は座って地平線眺めてればいいだけのかんたん任務だよー」
夕立ちゃんが緊張感なく口にすると、部屋の隅で灯が笑った。
「ウケる。怠け者が監視任務とかマジウケなんだけど」
「あーそれねー」
相変わらず俺への評価低いなーこの二人。灯はともかくとして、夕立ちゃんは俺への評価を改める義理があるんじゃないの?
「それってあたしも受けられる?」
「ん、監視任務?受けられるけど、なんで?」
思わぬ灯の意欲的な問いに夕立ちゃんは少しだけびっくりしていた。俺自信驚いていた。基本的にそこのやさぐれ女子高校生は金欠の時以外働かない。つい先日も高レベルのホムンクルスを倒して、それなりの量の報奨金をもらっていた。
それだというのに彼女が監視任務に就く理由がわからなかった。
「ちょっとね……」
言えない理由があるのか、彼女ははぐらかした。
「まーいーけどさー。礼金の九割はあたしのもんだからね。残り一割を二人で山分けしてねー」
このちんちくりんブラック社長は今日の一件をまるで懲りておらず、また俺達から金をむしり取る宣言をした。これでは会社の理念はどこへやらだ。
こんなことならこの人を菅野さんに売ってしまえばよかった、と後悔をせざるを得なかった。
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