巻き込まれたら逃れられない
ズキリという痛みが頬から顎、脳髄へと伝わった。殴った人間はそれほどガタイはよくないけど、男だった分少しだけ痛かった。
わざと少しだけよろけてみせる。自分は貧弱ですよ、というアピールだ。ここで派手に転んだり、微動打にしなかったら、ふざけていると思われて余計に殴られる。
別にこの後殴られること自体は変わらないが、殴る量が変わる。あんまり殴られると明日からの仕事に支障をきたす。
「痛つ……」
噛み殺すようにそうつぶやいた。これも処世術の一つである。こうすれば相手に高揚感を少しだけ与える。そうなれば、早く人間サンドバッグが終わる。はずだ。
味をしめた連中の一人が、俺の右脇腹に蹴りをかました。さすがに今度は演技ではなく、本当に吐瀉した。血とかではなくよだれを。
体勢を崩したところを二人の男が追い打ちをかけてくる。一人は無駄な動作が多い右ストレートを俺の額に、もう一人は腹を蹴ってきた。つーか、額とか殴んねーだろ、普通。思いっきり殴れば拳にヒビとか入るよ?
「ちょっと……待……」
少し痛めつけられたところで、抵抗のセリフを口にする。こうやって抵抗の意思を見せれば相手は図に乗って、より一層の快楽を求めて相手をなぶる。抵抗がなければ相手は面白みがないから、抵抗するまでやる。早めに抵抗すれば、なぶられる時間の短縮につながる。
セリフを言い終わる前に思いっきり腹を蹴られた。やっぱ痛い。口から唾液を吐き出す。そして、次に繰り出された右ストレートを頬に食らって、俺は地面に倒れ込んだ。
「おい、なんか言えよ!」
続けざまに何度も蹴られる。ゲホゲホと吐瀉する。少しだけ呼吸がきつくなった。多分胸とかも蹴られたな。肺に異常とかねーよな。
二十回くらい体中を蹴られたときだった。ようやく連中は蹴るのが飽きたのか、俺をおいてどこかに行ってしまった。救急車くらい呼んでよ。呼ばねーか。
しかし、随分と蹴られた。脱臼している箇所は多くてよくわからない。痣なんてさらに多いだろう。ついでを言えば左小指と右薬指の関節を外れている。
あと、口内を切っていた。唇から血が流れている。
幸い歯は抜けていなかった。ラッキーだった。この年で抜け歯はかなり困る。あと気になることと言えば、制服がかなり汚れてしまった、ということだった。
「これ汚れとか落ちるかなー」
派手に泥がついたワイシャツや、服が少しほつれている制服を見ながらため息をついた。予備はあるけど、やっぱり服がだめになるのは辛いものがある。
服についた汚れを眺めていると、他に人の気配があるのに気づいた。見ると、数人の男女が俺を見ていた。服装はどう見てもボロ。服のいたる箇所がツギハギになっていたり、穴が空いたりしていた。どう見ても、俺の制服より酷い有様だった。
一昔前のホームレス、という表現がよく似合う連中だった。
彼らは新東京において、『未登録居住者』と呼ばれる連中だ。呼んで字のごとく、彼らは都市の戸籍に名前が登録されていない。いるのにいない、という表現がよく似合う。彼らはこういった路地とかに住んでおり、ゴミ箱の腐肉とかを漁ったり、盗みをはたらいて日々生きているらしい。
彼らに対して都市内のあらゆる人権は適応されない。旧ヒンドゥー教におけるバリアとかに当ててもいい。だから、彼らを殺そうが痛めつけようが、臓器売買しようが、罪にはならない。当然のことながら、彼らを痛めつけてストレス解消を行ったりする連中いる。
彼らはやり返すことができない。なぜなら、やり返せば人権によって守られている一般市民がさらなるやり返しを行う。今度は武器とかを持ってきて、なぶり殺しだ。それがわかっているから、彼らは俺が殴られていても、止めはしないのだ。とばっちりを食らうのがいやなのだろう。
「おい、あんた」
一人の小柄な老人が声をかけてきた。剃らずに生え放題の髭のせいで、顔とかはよくわからない。
「なんですか?」
一応相手は自分よりも年上なので、敬語で話す。
「少し恵んでくれないか?」
直球だなぁ。
お恵みを、なんて金持ってる人が嫌う言葉の常套文句じゃん。
「すいません、今は持ち合わせがないので」
金をやるのも嫌だったので、ここは断る。それに持ち合わせがないのも事実だ。だから、この場から消えようとした。
「そんなこと言わずに!」
しつこい類の連中だった。こういう場合はさっさと逃げるに限る。
そう思って、路地から逃げようとする。
しかし、向こうは先回りして退路を塞いだ。要するに身ぐるみはがすということだ。少しいたんでいるとはいえ、服を売れば多少の金になる。他にも内蔵とかを売れば、彼らにとっては一財産を築ける。
彼らはジリジリと距離を詰めてきた。いくら向こうが『未登録居住者』とはいえ、殴って強行突破はかえって逆効果だ。こっちがサンドバッグになりかねない。
「おい、学生さんよ」
「いいから、恵んでくれよ」
恵んでくれよ、じゃなくて身ぐるみ置いて行け、の間違いじゃないの、などと言うべきではない。絶対に神経を逆なでして、病院直行だ。最悪死ぬかもしれない。
「わかった。今の俺はこれくらいしか持っていないんだ」
そう言って、財布から千円札を二枚と小銭を百二十九円分地面に吐き捨てる。そんな端金でも彼らには大金だ。ハイエナのように俺が落とした金に殺到する。
その間に俺はその場から離脱した。
*
路地を出てしばらくすると、電話がかかってきた。誰だろうと思って画面を見ると、灯からだった。
「なんだよ」
『あー。いやさ、今日殺したホムンクルスいたじゃん?』
ああ、お前が手柄総取りしたあれね。それがどうしたのだろう。
『あれ倒したときの報奨金が多くてさ。今日鍋パーティーしない?』
「どういう風の吹き回しだよ」
灯が誰かを誘うなんて滅多なことではない。それこそ三月に一回あるかないかだ。つまりあのホムンクルスがそれ相応の価値をだしたのだな、と結論付ける。
『別に嫌ならいいんだけどね』
多分この口調だと、他にも鍋パーティーに誘ったが、ことごとく断られた口だろう。それで仕方なく俺を誘った、というところだろう。
「わかった。それでどこでやるんだ?」
『あんたの部屋』
「は?」
なんで、という疑問符が脳内に浮かんだ。それはそうだろう。普通こういうのは客を招くものだろう。なんで俺の部屋でやらなきゃならないんだ。
『あんた料理得意でしょ』
そんな理由かよ。
「で、何作るんだよ」
『すきやき』
定番だなー。嫌いではないけど。
それじゃー、と言って灯は電話を切った。この分だと部屋のドアをこじ開けて入ってきそうだな。そう思って急いで寮に帰ることにした。
俺が使っている寮は第三高校のもので、男子寮と女子寮がセットになっている。未成年のことを理解してか、寮間の行き来は自由だが、男子が女子寮に行くと、変質者扱いされる。
俺の部屋はその寮の三階にあり、一番端だ。広さもそれほどはない。部屋に入り、風呂、トイレの横を通ると、もうリビングだ。一応リビングにはキッチンがあるが、これだってかなり小さい。そのリビングを寝室兼リビング扱いにしている。高級アパートとかに引っ越したい。
部屋の前に立ち鍵を差し込むと、何の抵抗もなく解錠した。ああ、これは……
ドアノブに手をかけると、すんなり開いた。鍵が開けられていた。
「千景おそーい」
中から自分勝手な声がした。このやろう、勝手に合鍵作りやがった。
「人の家に勝手に入るなよ、こっちにだって、プライバシーの権利くらいあんだぞ」
「は?行くって言ったじゃん」
えー、何それ。それってそういう意味だったの?押し入るって意味だったの?
今時の女子高生のよくわからない言語に頭を悩ませていると、灯が無言でビニール袋を突き出してきた。見ると中には牛肉が三パック、その他野菜類などなどが入っていた。
これらは都市の中心部で人工的に育てられている家畜や農作物からとったものだ。詳しくは知らないが、都市の地下に大規模な地下空間をつくり、そこで生産しているらしい。とはいえ、数に限りがあるので、野菜や穀類はともかく肉は希少だ。
決して一度に三パックも買える代物ではない。値段が高すぎるから。
「随分買ってきたな」
「ちょうどこれだけ売れ残っててね」
よく見れば半額シールが貼られていた。肉が半額セールなんて珍しいこともあったものだ。主婦様からすればこの機会は逃さずに、半額セール戦争をするところだろう。
「わかった。少し待ってろ」
そう言って、俺はキッチンに入る。
やることと言っても大きめの鍋に醤油と砂糖を入れるくらいなんだよなぁ。
ビニール袋から肉パックと野菜を取り出して、先にテーブルに並べる。テーブル自体が小さいから多くは床に置く羽目になった。
そしてガスコンロの上に鍋を乗せて肉を入れれば完成だ。
鍋から香り高い醤油の匂いと仄かな砂糖が混ざりあった匂いが沸き立ってくる。俺が鍋奉行をしている間、灯は容赦なく肉とかしらたきを喰っていく。
「野菜も食えよ」
「野菜食いたかったら、すきやきじゃなくて野菜焼きするよ」
「食いたくないのね」
何が悲しくて野菜しか食えないすきやきを食べなければ行けないのだろうか?肉は入れて、取ろうとする瞬間灯が横から掠め取っていった。