#06
夕飯を食べて、お風呂にも入った。
でも圭には、それらの記憶がいまいちない。
家に帰ってから今に至るまで、圭は思考をどこか遠くへと飛ばしていた。
重治と真理子と、そして芽榴と、楽しくいつも通りの会話をしていたはずなのに、それすらも自分が何を言っていたのか、いまいち思い出せない。
ただひたすら、今日このあと自分がどうすればいいのか。それだけを考えていた。
「芽榴姉、入るよ」
そうして、その答えの出ないまま、圭は芽榴の部屋をノックした。
部屋の中には、寝間着姿の芽榴がいる。
ローテーブルに自分の分の勉強道具を広げて、芽榴は圭が来るのを待ってくれていた。
「一応、あったかいお茶持ってきてるけど……炭酸がいい?」
「ううん。お茶でいいよ。ありがとう、芽榴姉」
芽榴は圭の返事を聞くと「よかったー」とのんきに笑って、圭の座る場所にお茶を置いてくれた。
「で、今日は何を教えたらいいのかなー?」
「数学、かな。もう暗号だらけ」
「暗号って……」
圭の返答に、芽榴はクスクスと笑う。
かわいらしく笑って、芽榴は「どれどれー」と圭の教科書を覗き込んだ。
圭との距離など気にせずに、芽榴は真剣な顔で問題を見ている。圭の方は、触れ合う肩に意識が集中しているというのに。
「うん。この範囲なら教えられるよ。前にクラスの男子が分からないって言ってた問題に似てる」
「……芽榴姉が、教えたんだ?」
「クラスでは一番仲良い男子なんだー。あ、その人も圭と同じサッカー部だよ」
芽榴はそんなふうに圭と結びつけて。
そしてその話をさっさと切り上げて、「どこが分からないのー?」と話を戻す。圭は静かに、芽榴に分からない問題を伝えていった。
「で、ここはこの公式を使うの。……で、答えが出るんだけど」
「あー、なるほど。うん、分かった」
芽榴の教え方は本当に分かりやすい。分からない問題がどんどん解けていく。今まで分からなかったことが嘘みたいに。
「じゃあ、次の問題は自力で解いてみてね」
「うん」
芽榴は自分の勉強に戻る。
英語の問題をすらすら解きながら、芽榴は圭がちゃんと解けているか、様子をうかがってくれていた。
圭がちゃんと問題を解いているのを見て、芽榴は安堵したように自らの参考書に視線を戻す。
それを確認して、圭は視線を芽榴へと向けた。
(……部屋に2人きりなのに、全然意識しねーんだもんな)
芽榴は真剣な顔で参考書の問題を解いている。
圭に意識などするはずがない。圭は芽榴にとって、義弟以外の何者でもないのだから。
でも少しくらい、意識してほしい。ほんの少しでいいから。
「圭? 分からないところでもあった?」
圭が自分を見つめていることに気づいて、芽榴はそんなふうに問いかけてくる。
今のところ、分からない問題はない。芽榴が教えてくれたおかげで、今開いているページの問題は全部解けそうだった。
「ううん、大丈夫」
「そっか。でも圭はすごいね」
「なんでだよ。芽榴姉のほうがすごいだろ。すらすら解けて」
圭が困り顔で告げると、芽榴はまた、無邪気に笑った。
「だって、蓮月くんなんか教えても教えても解けなかったりするんだよ? でも圭は一回教えたら全部解けちゃうから」
また、別の男子と自分を比べて、持ち上げるくせに。
「自慢の弟だね」
簡単に突き落とす。
(ああ……これは、ダメだ)
「……ごめん、やっぱ分かんない」
芽榴が真剣に勉強を教えてくれるから、想いを殺してどうにか今日もやり過ごそうと思っていたのに。
ただでさえ壊れた心の中を、芽榴のために隠してあげようと思っていたのに。
「芽榴姉は頭いいのに……なんで気づかねーのかな」
本当に、どうして芽榴はこんなにも鈍感で、ずるいのだろう。
こんなにも無邪気に、圭の心を弄んで。
「圭? え……ちょっ、圭!」
カタッと机に足がぶつかる音が響く。
けれどそんな些細な音が、たとえ下にいる両親に聞こえていたとしても、気にとめないだろう。
「なに?」
「なにって……それはこっちの台詞だよ」
芽榴が眉を寄せて、圭に抗議している。
圭は芽榴を押し倒していた。
ここまでしてもやはり、芽榴は優しい声で抗議するだけ。
芽榴の力は強いから、本気で押さえ込まないと、簡単に突き飛ばされてしまう。
だから圭は、掴んだ芽榴の腕に力を入れた。
「痛いよ、圭。本当にどうしたの?」
「……芽榴姉。ごめんね」
圭の謝罪に、芽榴の瞳は困惑の色を濃くした。
言葉とは裏腹に、さらに力強く芽榴を押さえ込む圭のことを、芽榴は理解できない顔で見つめている。
「ごめん。でも……俺もさ、限界なんだよ」
自分でもびっくりするくらい情けない声が出て行った。
尚も芽榴は理解できていない様子で。
けれど圭の歪んだ顔を、芽榴は心配そうに見つめてくる。
(俺なんか、芽榴姉に心配される資格ないのに)
こんな状況なのに、芽榴は暴れることをしない。
圭は何もしない、という信頼からくる行動なのか。それとも、こういうことが頻繁にあるからなのか。
それは、圭には分からない。
「俺がどんなに芽榴姉のチョコを喜んだって、芽榴姉にはその半分も伝わらない」
「圭、何言って……」
「俺がたくさんチョコをもらっても、芽榴姉は何も思わないし」
圭がたくさんチョコをもらって帰ってきても、芽榴は「すごいね」と笑って褒めるだけ。
嫉妬なんて、絶対にしてくれない。
「どんなに俺が好きだって言っても、全部かわして……」
芽榴のせいではない。芽榴は悪くない。何も悪くない。取り巻く環境に恵まれなかっただけ。
そう思うのに、大好きな芽榴を憎まずにはいられない。
好きの感情が、憎悪に変わる。それすらも苦しくて、嫌なのに。
「俺だって、男なんだって……分かってる?」
部屋の中に2人きり。押し倒されている状況。
それなのにまだ、圭が弟だからと余裕な態度を見せて。
圭の心が壊れるくらいに、圭を男として見ていないと、言葉以上に態度で伝えてくる。
「……やめてよ、圭。だって、圭は……っ」
続きの言葉が聞きたくなくて、圭は芽榴との距離を詰める。
そうすると、芽榴の抵抗がいよいよ激しくなった。
「やだっ、圭、やめ……っ」
「そんなに騒いだら、父さんたちに聞こえるよ」
芽榴の抵抗を弱くする、一番の言葉を圭は無感情の声で告げる。
「聞こえて困るのは、圭だって一緒でしょ。こんなところ見られたら……」
「俺が怒られるね。でもかまわないよ。……俺はね」
芽榴の手が震えている。
自分のせいで、芽榴が怖がっている。
それが、圭を男と意識した芽榴の態度なのだと知って、心がどんどん虚しさで埋まっていく。
「……芽榴姉」
鼻の先が当たるほどに顔は近づいて、それ以上は近づかない。
臆病な圭は、ここまで壊しておいて、それでも最後の一歩には踏み切れなかった。
キスをしたら、本当に芽榴を傷つける。
芽榴の大切なものを奪うみたいで、それはどうしてもできない。
「……なーんて、冗談」
圭は芽榴の手を離して、起き上がる。
明るい声音で言ってみても、自分の声はひどく震えていた。
「芽榴姉があんまり無防備だから……そんなんじゃ危ないよって教えたかっただけ」
中途半端に壊して、また嘘で塗り潰そうとして。
ヒビの入ったガラスは、もう元には戻らないのに。
その場に起き上がった芽榴を見て、圭の心がえぐられた。
「バカ……圭のバカ」
目に涙を溜めた芽榴にそう言われた。
芽榴を泣かせたくなどなかったのに。
「……ごめん。今日はもう、部屋に戻るね」
圭は勉強道具をまとめて、芽榴の部屋を出て行った。
(……最悪)
圭は自分のベッドに倒れこんで、盛大なため息を吐く。
「ほんと、俺はバカすぎ」
涙が出るくらい、自分は最低な弟。男にすらなりきれない、中途半端な自分に嫌気がさして、圭は枕に顔を埋めた。




