#02
芽榴が修学旅行から帰ってきて数日後の日曜日。
重治と真理子は結婚記念日のため、夫婦水入らずで外食に行った。
おかげで芽榴と圭は夜の家に2人きり。
「圭、何か飲むー?」
「芽榴姉は?」
「ココア飲むよー」
「じゃあ、俺も同じの」
圭が質問に答えると、芽榴は「了解」と言ってキッチンに消えていく。
先ほど芽榴の作ってくれた夕飯を全部平らげたところだった。
「はぁ……うまかった」
素直な感想が口からこぼれていく。
圭は満足げに息を吐きながら、ソファーに座ってテレビのチャンネルを切り替えた。
特に見たいテレビもなく、適当につけたドラマのチャンネルで手を止める。
すると、ココアの入ったコップを両手に持った芽榴が、リビングに戻ってきた。
「はい、圭」
「ありがと」
圭にコップを渡すと、芽榴は自分の分のコップをローテーブルの上に置いて、再びキッチンの方へと向かう。
そしてすぐにまた、圭のもとへ戻ってきた。片手には美味しそうなクッキーがたくさん載った皿がある。
「芽榴姉が作ったやつ?」
「うん。お昼に作ったの。ココアのおともにどーぞ」
圭は芽榴がテーブルに皿を置く前に、クッキーを1つ摘みあげる。そしてサクサクと口の中で軽やかな音を立てながら、それを食べた。
「うん、うまい」
そう答えながら、圭はまたクッキーを1つ手に取る。そんな圭の行動に芽榴は苦笑していた。
「そんなに急がなくてもお母さんいないから、圭の食べ放題だよ?」
「急いでるわけじゃないんだけど……うますぎて、手が止まらない」
「圭はお菓子好きだねー」
「芽榴姉が作るのは特にね」
「はいはい。ありがとー」
冗談なんかではない。甘いものは好きなほうだけれど、芽榴の手作りだったら毎日何度でも食べたいと思う。
でも芽榴は、そんな圭の言葉も圭のお世辞としか受け取ってはくれない。
そのことにモヤモヤしてしまうのに、芽榴が隣に腰掛けてくれただけで、圭の機嫌はすぐに治ってしまう。
単純すぎる自分に、圭は呆れてため息を吐いた。
その隣で芽榴は、テレビに視線を向け、楽しそうな声をあげた。
「あ、この人、舞子ちゃんの好きな俳優さんだー」
主人公の相手役の俳優を見て、芽榴がそう言った。舞子、というのは芽榴の高校の大親友。
友人の好きな俳優だということで、芽榴の目が少し輝いた。
「へえ、この人今人気だよな。前も別のドラマで主役だったし」
「そーなんだ。かっこいいよねー」
人気若手俳優なだけあって、顔はとてもいい。
けれど、芽榴の通っている麗龍学園には、これくらいのレベルの容姿の顔が何人かいる。
そしてそんな端正な容姿の男子たちに、芽榴は好意を寄せられているのだ。本人は全然気づいていないみたいだが。
「蓮月先輩のほうが顔はかっこいいと思うけど」
芽榴の友人の1人である蓮月風雅の名を挙げてみる。彼は麗龍学園一のイケメンで、圭も知り合いだ。
容姿だけでいえば確実に、テレビで見る芸能人と同等か、それ以上の持ち主。
「蓮月くんはー……たしかにかっこいいよ。おバカさんだけど」
かっこいい男子たちが周りを囲んでいても、芽榴の反応はこんな感じだ。
だから自分のような中の上程度の人間がどんなに頑張っても、芽榴を振り向かせられるわけがない。圭はそう思わずにはいられなかった。
「芽榴姉ってさ、好みの顔とかあんの? タイプとか」
「うーん。あんまり考えたことないかな」
圭の問いかけに答えようと、芽榴は真剣に考える。ココアを一口飲んで、芽榴は「あ」と声をあげた。
「でも、圭みたいな人がいいなって思うよ」
思考が停止する。
食べかけのクッキーを膝の上に落として、圭は我に帰った。
「……は?」
「だって圭が一番一緒にいて安心するから。そーいう人に出会えたら好きになるかもなーって」
(……出たよ。芽榴姉の天然たらし)
芽榴に他意がないことくらい、嫌というほど分かっている。分かっているけど、そんなふうに言われたら心がざわついてしまう。
本当に、何も知らない芽榴は幸せで、すべてを我慢してる圭は残酷だ。
その発言がどれだけ酷い言葉か、芽榴には到底分かるはずもない。
「好きになるわけねーじゃん。弟と同じようなやつなんて」
「そーかな。でも本当に、クラスの男子と喋るときとか、圭と比べちゃうときあるよ。圭ならこう言いそうとか、ああしそうとか」
(ほんと……もうやめて)
「……ずっと一緒にいるから、無意識に圭が私の中の男子の見本になっちゃってるんだよね」
芽榴はそう言って困ったように笑った。
(ああ……最悪だ)
話を振ったのは自分だけれど、圭自身ここまでダメージを食らうとは思っていなかった。
芽榴の笑顔も言葉も喜ばなければいけないのに、心の中は黒い霧で満たされていく。
「そーいう圭は? どんな子が好きなの?」
「……芽榴姉」
仕返しのつもりで、圭は即答した。
冗談でも嘘でもない。それが事実だから、口にしても罰は当たらない。
本当は言ってはいけないことだけど、どうせ芽榴は真に受けてはくれないから。
「私はちゃんと答えたんだから、圭もちゃんと答える」
「真面目に答えてるよ。俺、芽榴姉が好きだし。つーか、芽榴姉だって俺みたいなやつとか言ったんだから、一緒だろ」
「……うーん、そう言われると言い返せなくなるけど。でもそうだとしたら、圭は趣味悪いよ」
「どこが」
「……もっと愛想がいい子とか、かわいい子とか美人な子とか、清楚な子とか、そういう子をあげるでしょ、普通」
芽榴が提案するように、圭の理想の女の子を生み出そうとしてくれる。けれど圭はそんな芽榴の言葉にため息しか出てこない。
(だから、それが芽榴姉じゃん)
「圭はそういう子から告白されてるのに、彼女作らないからお姉さんは心配です」
「……芽榴姉だって彼氏作らねーじゃん。作らなくていいけど」
付け加えた言葉が重要だ。軽はずみの言葉で芽榴を煽って、彼氏を作られたらたまったものじゃない。
芽榴ならすぐにでも彼氏くらい作れるのだから。
「まあ、圭に彼女ができちゃったら、こんなふうにクッキーおいしそうに食べてくれなくなっちゃうかもだし。これはこれで私としては、嬉しいのかな」
芽榴はそう言って小さく笑った。
圭の心を知らないのに、どうしてここまで圭の欲しい言葉をくれるのだろう。
いっそ知っていて口にしてくるほうが、挑発されてると理解できてマシなのに。
視線を下げる圭の耳には、ドラマのセリフが聞こえてくる。
『もう、幼なじみでいるの、やめたいんだ』
どうやらこのドラマは幼なじみの2人の恋愛を描いたものらしい。主人公の女は、相手の男のことを幼なじみとしか思っていなくて、けれど男のほうはそうではない。
そういう、お話。圭にはそれがどこか、自分のことのようにも思えて。その一方で、自分よりも恵まれた関係性であると羨ましくも思えて。
『好きだ』
その男は、思いの末に関係を壊した。
その壊し方は、ただ『好き』と伝えるだけ。
「芽榴姉」
「ん、なにー?」
圭との話に一区切りつけて、クッキーを食べる芽榴に声をかける。安心しきった様子で、自分の隣に座る芽榴に、圭は告げてみた。
「……好きだよ、ほんとに」
ドラマの中の男と同じように、自分も関係を壊すための言葉を告げてみる。
この言葉は、もう何度も告げたことがある。
(だってこんな言葉、芽榴姉は喜んで捨ててくれるんだから)
「うん、ありがと。私も圭が好きだよ」
おそらく、芽榴の中では「本当に俺の理想のタイプは芽榴姉だよ」という意味で変換されたのだろう。
もう、芽榴が自分の言葉をどう捉えるのかも、分かってしまう。
圭が本気で芽榴との関係を変えるなら、もうこんな言葉だけではどうしようもできないのだ。
本当に、元に戻れなくなるくらい、すべてを壊さないと、前には進めない。その代わり、後ろにも引き返せない。
その勇気が、圭にはまだ振り絞れない。
「芽榴姉……おかわり」
圭が芽榴にコップを差し出すと、芽榴は笑ってココアを作りに行ってくれる。
圭はキッチンに向かっていく、芽榴の背中を見つめた。
芽榴は事あるごとに「私なんか」と言う。自分よりいい子はたくさんいると口にする。
それを信じて、周りを見てみても、圭には芽榴よりもいい子がどこにも見つからない。
芽榴と比べなければ、いい子はたくさんいる。でも芽榴と比べた瞬間に、いいと思っていたことがすべて、普通に見えてしまう。
「全部……芽榴姉のせいなんだよ」
彼女を作らないのではなく、作れないのだと。
芽榴のせいだと。
彼女を傷つける覚悟で口にできたら、どれだけ楽なのだろう。
「嫌われて、嫌いになれたら……終われるのかな」
この恋が苦しすぎて、どうすれば逃れられるのか。
そればかり、圭は考えていた。