#19
やっと、芽榴に想いが通じた。
長く続いた初恋が一度壊れて、やっと実を結んだ。
「圭」
芽榴の声を聞くだけで、その喜びに浸ることができる。
幸せすぎて、おかしくなるくらい。
「芽榴姉。……って、さっきからいい匂いしてると思ったらクッキー焼いてたの?」
休日のお昼。真理子はお出かけをしていて、今は圭と芽榴の2人きり。
まだ両親には何も報告していないけれど、おそらく2人が今までとは少し違う関係になったことを察してくれているのだとは思う。
真理子が気を遣ってくれたのかは分からないが、せっかく芽榴と家で2人きりになれるのだからと、圭はどこへも行かず、リビングで勉強していた。
もちろん隣で芽榴も一緒に勉強していたのだが、お昼を食べた後、芽榴はそのままキッチンに残っていた。
「うん。勉強してるし、甘いもの食べたくなるんじゃないかなって」
笑いながらそう口にして、芽榴は美味しそうなクッキーの乗った皿を机の上に置いた。
「ありがとう。じゃ、遠慮なくいただきます……っと」
圭はクッキーを一枚とって、もぐもぐと美味しそうに食べる。ちゃんと「美味しい」という感想を残しながら、圭はクッキーをまた一枚手に取った。
それを、芽榴は嬉しそうに微笑んで見ている。
「勉強、はかどってる?」
「まあ、なんとか」
芽榴は自分の勉強道具が置いてあるところに座る。
適度な距離感を保って、芽榴は圭のそばにいてくれた。
芽榴に想いが伝わっても、それほど圭と芽榴の関係は大きく変化しなかった。
もともとずっと一緒にいる関係。物理的な距離は今までだって近かったから、これといってお互いに気持ちが通じあったのだなと実感する機会は少ない。
とはいえ、本当は芽榴とべったりくっついて勉強することも、もっとイチャイチャすることもできるわけで。
そういうことが許される関係になって、今まさにそういうことができる状況下にあるのに。
圭は芽榴に、ある一定距離以上近づくことも、必要以上に触ることもしない。
近づきたくないわけでも、触りたくないわけでもない。むしろその逆だ。
「芽榴姉、ここさ……」
参考書の分からないところを、芽榴に質問する。そうすると、芽榴は少しだけ身を乗り出して、内容を確認してくれた。
長い綺麗な髪がさらりと肩から落ちて、それを気にして芽榴が髪を耳にかける。
(ああ……かわいい)
「だから、これはこの公式を使って……って、聞いてる?」
ボーッと芽榴のことを見つめていると、芽榴が説明を中断して眉を寄せた。
「ごめん。このグラフがここに移るとこからお願い」
圭は素直にボーッとしていたことを謝って、ちゃんと聞いていたところからの再度の説明をお願いする。
芽榴は肩を竦めながらも、もう一度丁寧に圭に説明してくれた。
(集中しなきゃって、思うんだけど)
気づけば芽榴に視線がいく。だから今に限っては、芽榴と一緒に勉強しないほうがはかどるのだが、芽榴と過ごす時間は譲れない。
自分が集中すればいいだけの話、とは思うものの、これがなかなか集中できずにいるのだ。
「芽榴姉、ちょっとお願いしていい?」
「なに? 分からないとこ?」
「違う。そうじゃなくて……」
圭は芽榴に両手を差し出す。それだけで、芽榴には何事か伝わる。
ここ最近ずっと、圭は芽榴と勉強している最中に、突如この行動をとるのだ。
「これで集中できるの?」
「うん。ちゃんと集中できるように、幸せを噛み締める」
圭は真顔で言うと、芽榴はやれやれと困り顔をしながらシャーペンを机の上に置いて、自らの両手で圭の両手を包み込んだ。
「がんばってね、圭」
「……がんばります」
ぎゅっと手を握って、圭は目を閉じる。芽榴の感触をいっぱいに味わって、圭は「よしっ」と声を張った。
「ん、やる気出た」
「……そっか。じゃあ、続きしよ」
触りたいだけの口実かと思うかもしれないが、芽榴の手を握って心を落ち着かせると、本当に1、2時間くらいならしっかり集中できるのだ。
手を握るだけで、芽榴に触れられる幸せを感じて、心が満たされて集中できる。
ならそれ以上のことをしたら、もっと集中できるのかもしれない。そうは思ってみるけれど。
(たぶんこれ以上は、むしろ集中できなくなる)
芽榴とはあの告白以来、キスをしていない。つまり、圭からはまだ一度も芽榴にキスをしていないのだ。
けれど、それは圭が自ら決めていること。
受験が終わるまでは、芽榴とは手を握るだけ。それ以上のことは絶対にしない。
単に、自分が勉強に集中できなくなるからとか、雑念だらけになるとか、そういう理由だけではなくて。
(これ以上幸せになったら、受からない)
自分の人生で使えるすべての幸運を、あの日芽榴に告白を受け入れてもらえたときに使い果たしてしまった。圭はそう思っている。
ただでさえ、もう残っていないかもしれない幸運を、これ以上使ってしまうわけにはいかない。
そんなことをして、もし受験に失敗して、芽榴から愛想をつかされてしまったら、元も子もない。
だから受験が終わるまでは、芽榴はお預け。といっても、今は夏で受験まであと半年もある。これだけ我慢するのだから、どうか受験は無事に終わらせてほしい。
そうしてもし、受験がうまくいったなら。
「あのさ、芽榴姉」
「今度はなにー?」
芽榴は困り顔だ。でも少しだけ嬉しそうにも見える。
(まあ、それは俺の願望だけど)
けれど芽榴はちゃんと圭の話に耳を傾けようとしてくれる。
「受験が無事に終わったら、ご褒美ください」
「え?」
圭の具体性に欠けるお願いに、芽榴は思案顔になる。「何をあげたらいいだろう」などと、芽榴が考えているのはすぐに分かった。
「いや、その……物が欲しいとかじゃなくて」
そこまで言って圭は言葉を止める。それだけで伝わってくれると嬉しいのだが、相変わらず肝心なところで芽榴は鈍い。
「……芽榴姉とイチャイチャしたいです」
腹をくくって、圭は素直にお願いした。
勉強とか、受験とか、そんなことを考えずに、芽榴と過ごせる時間が欲しい。
それがどんな物よりも嬉しい、ご褒美だ。
自分で言い出して、勝手に恥ずかしくなって。
圭は赤くなった顔を芽榴に見られないように、参考書で自分の顔を隠した。
「ごめん、嫌だったらいいから!」
「……いいよ」
圭は瞬きを繰り返す。今、芽榴は圭のお願いを承諾した。
自分の聞き間違いかと、圭は参考書から目元だけ出して、芽榴の姿を確認する。
「えっと……いいの?」
圭が問い返すと、芽榴は少し頰を染めながら「いいよ」ともう一度言ってくれた。
それが嬉しくて、圭の胸はドッドッと大きく音を鳴らしている。
あからさまに喜んでしまう圭に、芽榴は眉を下げた。
「やっぱり……私が、我慢させてる?」
「え?」
芽榴の問いかけに、圭は頓狂な声を上げる。芽榴の言葉の意味が、圭にはすぐには理解できなかった。
「あれ以来、圭は何も言わないから……まだ気を遣ってるのかなって、思って」
「ち、違う! そうじゃない!」
圭は慌てて、芽榴の考えを否定しようとする。
けれど芽榴が自分とのことを、ちゃんと考えてくれているのだと分かって、それが嬉しくて。
同時に芽榴にそんな勘違いをさせてしまっている自分が情けないとも思う。
「今、芽榴姉になんかしたら……俺、受験どころじゃなくなるから。本当は芽榴姉ともっと一緒にいたいし、いろんなことしたいけど……でも、俺は俺のために我慢してるだけだから。芽榴姉のせいとかじゃない」
これは自分のための我慢。だから芽榴からしたら、身勝手な我慢に見えてしまうだろう。
「こんなの、俺、勝手すぎるよな。……でも」
「ううん。勝手じゃないよ」
でも芽榴は、そんな圭の身勝手な気持ちにも、笑顔をくれる。優しく許してくれる。
「圭が頑張るなら、私も頑張れるから。……そしたら、受験が終わったこと、一緒に喜べるね」
とても可愛らしい顔をして、圭に嬉しい言葉をくれる。
(……好き。ほんとに好き)
恋が実っても、想いはとどまるところを知らない。
芽榴のことを、毎日好きになる。
本当に幸せすぎて、そのうち不幸のどん底に突き落とされるのではないかと不安になるくらい。
でも、もうこの笑顔を失いたくないから。
「絶対、受かるから」
運がどんなに圭の敵になっても、受かるくらい、一生懸命勉強しようと、圭は心に誓っていた。