#18
冒頭・芽榴視点
圭とのデートを終えた芽榴は、部屋の中に座り込んで膝に顔を埋めていた。
『俺が口出すことじゃないの分かってますけど、圭にあんまり思わせぶりなことしないでやってください。……じゃないと圭が、いつまで経っても前に進めないんです』
『……それは』
『お姉さんも、今日圭のことずっと見てたなら分かるでしょ? あいつすごくかっこいいし、男の俺から見てもいいとこだらけだし……本当、唯一の欠点が、お姉さんのことしか好きになれないとこですよ』
圭の友人の竜司が、本当に圭のことを大切に思っているのだと分かる。
同時に、圭にとって、自分の存在が最悪のものだということも。
『圭に彼女がいないのは、無理だって分かってても、お姉さんのことを今でもまだ……』
その続きは聞けなかった。そこで竜司の母が戻ってきて、芽榴にアイスココアを出してくれたから。話はそこで終わってしまった。
けれど、続きの言葉は考えなくても分かってしまう。
分かっているくせに、その言葉を、他でもない圭に確かめようとした自分に、嫌悪感が生まれる。
ずっと、圭は義弟だった。それが壊れて、でも圭がすべてを我慢して、その関係を元に戻してくれた。
だから芽榴はそれに感謝していて、アメリカから帰ってきたらまた、圭と姉弟として笑い合おうと決めていたのに。
「最低だ」
一年ぶりに会う圭は大人びていて、まるで別人のようで。
停電のあった日、芽榴を抱きしめてくれた手も、大人の男の人の手で。
圭が辛そうな顔で、気丈なふりをして自らを「弟だ」と告げる声が悲しくて、また圭のことをどんどん弟と思えなくなって。
圭が、知らない女の子と楽しげに歩いているのを、嫌だと思った。
圭に、他の子を好きになってほしいと願っていたくせに、実際そうなると心がそれを拒絶した。
本当に勝手で、最低。
ただでさえそれで自己嫌悪に陥っているのに、その自分勝手な気持ちのせいでまた圭を避けようとして、圭を困らせて。
それなのに圭は芽榴に優しくしてくれた。
(圭がモテることくらい、私が一番分かってる)
圭が服を似合ってると言ってくれたことが、お世辞でも嬉しかった。昔の思い出を圭がちゃんと覚えていることが嬉しくて。
女の子扱いしてくることが恥ずかしいのに、嬉しくて。圭に引かれた手を、もっと繋いでいたいと思ってしまって。
圭がマネージャーの子に笑いかけるのが辛かった。自分が部員の子と話していても、圭は気にかけることもなく、女の子と話すのに夢中で、それが切なくて。
そんなことを考えている自分が醜くて大嫌い。そう思っているところで、竜司から的確な指摘を受けて。
「ごめんね、圭」
芽榴のことを好きでいても、圭は幸せになれない。たとえ芽榴がその想いに返しても、仮にも姉弟の自分たちが、幸せになれるはずがない。
誰にも、祝福はされない。それじゃあ圭がかわいそう。
圭には、幸せになってほしい。圭にだけは、幸せを掴んでほしい。だって芽榴は、圭のことが大好きだから。
「私で……ごめんね」
圭から遠ざかることでしか、芽榴もこの思いを閉じ込める方法が分からなかった。
☆★☆
芽榴とのデートは、とても微妙な空気で終わってしまった。
お互いに言いたいことを言えずに、心に閉じ込めて。
「芽榴姉、おはよ」
「……おはよ」
やはり、芽榴は圭を避けるようになった。芽榴が自分を避けないようにとった行動で、結果はこうなって。
滑稽すぎて、いっそ笑いが出そうなほど。
「圭……また何かしたの?」
母の呆れ顔が、自分の心のすべてを代弁してくれているみたいに思えた。
「今回は、本当に俺は悪くないよ」
圭は悪いことをしていない。それでも芽榴は圭を避けることを選んだ。
芽榴は身勝手で、どうしようもない女の子。でもそれを責める気はない。そんなところも含めて全部、圭は芽榴が好きなのだ。
どんなに時を経ても、振られてみても。
この気持ちは変わらない。変えようがない。
最初から無理だったのだ。姉弟に戻ることなど。
「ねえ、母さん」
圭はバッグを首から提げて、後ろを振り返った。芽榴は圭の見送りをしてくれない。
だから圭は自分の見送りをしてくれる母に「ごめん」と謝った。
「なに? やっぱり芽榴ちゃんに何かしたの?」
「違うよ。まだ何もしてない。けど……」
同じことの繰り返し。
芽榴が自分を避けるというのなら、圭はそれを追いかける。
そうしてまた芽榴に振り返ってほしい。
その芽榴を、圭は何度でも好きになるから。
「芽榴姉のこと、また泣かせちゃうかも。だからごめん」
☆★☆
家に帰ってきて、ご飯を食べ終えると、芽榴はまた昔と同じように勉強を理由にさっさと部屋にこもってしまった。
過去に一度見たことのある光景だから、重治も困り顔。
「圭、またお前……」
「母さんと同じこと言うなよ。今回はマジで何も悪いことしてねーから」
母が「一年前はしたのね」と呟いたことは聞かなかったことにする。
あのときは両親にとても迷惑をかけてしまった。だから心配する気持ちもわかる。
「大丈夫。なんとかするから。今回は、本当に」
☆★☆
夕飯を食べて、圭はお風呂を終えて芽榴の部屋に向かう。
一年前のあの日以来、芽榴の部屋には入ったことがない。
今回も、芽榴の対応次第では、入らないつもりだ。
「芽榴姉」
ノックして、中にいる芽榴に声をかける。芽榴は「なに?」と少し慌てたような声を出した。
「お風呂、あいたよ」
「あ……うん。あとで、入る」
「そう言うと思って、お茶持ってきたよ。キリのいいとこまで勉強するつもりだろ?」
用意周到に、圭はここに来ている。さすがにお茶を持ってきているのだから、芽榴は部屋のドアを開けなければならない。
芽榴は圭の準備の良さに驚きの声を上げながら、ゆっくりとドアを開けた。
「……ありがと」
わずかにしか開けない扉。自分の顔だけ出して、芽榴は圭からお茶を受け取ろうとする。
(それは、不自然すぎでしょ)
もういっそ、笑いたくなるほどに。
圭は芽榴の部屋の扉に足をかけた。
「え、圭! 待って!」
「そんな中途半端に開けられたら、なんか中で変なことしてるんじゃないかって気になるし」
圭は思いのままを口にしながら、芽榴の部屋の中に入り込んだ。圭が部屋に進入して、芽榴は焦った顔をしている。
「お茶、机の上に置くよ」
「……うん、ありがとう」
芽榴はお礼を言いながらも部屋の扉を開けたまま離れない。まるで、もう用が済んだなら出て行けとでも言わんばかりに。
けれど圭は芽榴に話がある。このまま帰るわけにはいかないのだ。
「圭。用がないなら……」
「俺は、芽榴姉に話があるよ」
圭は壁に手をついて、部屋の扉を閉める。
そしてそのまま芽榴が身動きをとれないように、芽榴を挟み込んで両手を壁についた。
「話なら、部屋じゃなくてもいいでしょ。……リビングに行こうよ」
芽榴は動きづらそうに、体を反転させる。けれど圭が壁についた手を動かして、芽榴の手を握った。
「……圭」
「芽榴姉。俺言ったよね。避けるなら、気にするって」
圭の言葉に、芽榴は返事をしない。芽榴がどんな顔をして、圭の言葉を聞いているのか、それは圭には分からない。
芽榴は壁とにらめっこをしたまま、動けずにいる。
「なんで、俺のこと避けるの。避けないって約束だったじゃん」
「……ごめん」
「謝らなくていいから、理由を教えてくれよ」
圭がそうお願いしても、芽榴は何も答えてはくれない。
(芽榴姉の、嘘つき)
言ってはいけない。でも、もう言うしかない。
先に約束を破ったのは芽榴だ。
「俺がまだ……芽榴姉のこと、好きだから?」
圭の問いかけに、芽榴の肩があからさまに揺れた。
図星だと、そう告げるみたいに、大きく反応を示して。それと同時に芽榴は圭の手を振り払って、抵抗を示した。
「部屋出るから、離して」
「嫌だよ。話終わってない」
「話すことなんて……」
「ないって言うなら、俺の質問に答えてよ!」
大きな声を出してしまう。芽榴に怒鳴る気などなかったのに。
今の声は、確実に下にも聞こえているだろう。けれど、もう重治と真理子には「何があっても上には来ないで」と告げてある。
芽榴を泣かせてしまうかもしれないけれど、最低なことはしないと約束しているから。
圭の怒鳴り声に、芽榴は震えている。顔が見えないから怯えているのか、困惑しているだけなのか、それすら圭には察することができない。
「芽榴姉、こっち向いて」
「……いや」
「お願いだから……」
「嫌だよ。……なんで、好きだって言うの。言わない約束だったじゃん」
二度と芽榴のことを好きと言わない。その約束を破って、圭はいまだに抱き続けている芽榴への思いを口にした。
「言わないつもりだったよ。でも、先に芽榴姉が約束を破ったんじゃん」
先に芽榴が「変に避けない」という圭との約束を破った。
好きと言わない。そんな自分の約束と引き換えに、芽榴に課した5つのワガママだ。
芽榴がその約束を破ったなら、圭が約束を守り続けてあげる必要はない。
「俺は、今でもずっと、芽榴姉が好きだよ。……芽榴姉のことだけが好き」
「……言わないで」
圭の告白をやはり芽榴は受け入れようとしない。圭の気持ちが変わらないように、芽榴の気持ちも変わらない。
「じゃあなんで、いまだに思わせぶりなことするんだよ」
圭の気持ちを受け入れないくせに、圭の気持ちを知っていてどうしてまだ、圭の気持ちをかき乱すようなことをするのだろう。
「俺のこと好きじゃないなら、せめて弟に戻らせてよ。それを芽榴姉も望んでたはずだろ?」
それなのにどうして、弟でいることすら許さないような態度をとるのだろう。
「なんで俺は芽榴姉に触っちゃいけないのに、他の奴らは触っていいんだよ」
終わりのない嫉妬と、答えの返らない疑問。
もう何度も繰り返して、たどりつく感情はいつも同じ。
「どうして、俺は……こんなにも芽榴姉から遠いの」
誰よりも遠い。誰よりも、芽榴のことが好きなのに。
誰よりも、芽榴のことを幸せにしたいのに。
「どうして……ただそばにいることさえ、許してくれねーの」
好きという気持ちを受け止めなくてもいい。だからせめてそばにいさせて。
弟でいい。恋愛対象外でいいから、芽榴の心に近づかせてほしいのに。
「ねえ、芽榴姉」
圭は芽榴の手を握りしめる。自分の想いが伝わってほしい。
強く強く願って、芽榴の手を握りしめて。
でもその手を、芽榴が振りほどいた。
「……圭の、バカ」
その声は涙で歪んで聞こえた。昔も聞いたセリフ。
芽榴はあの日もこの部屋で、涙を目に溜めたまま圭を拒絶した。
また、同じことの繰り返し。圭は目を伏せる。
「これ以上……私を最低にしないでよ」
そう口にして、芽榴は体ごと圭のことを振り返った。
けれど芽榴が振り返ったと、圭が認識する前に、圭の思考は奪われる。
芽榴の手が圭の頰に触れ、芽榴の唇が圭の唇に、押し当てられた。
ゆっくりと離れていく芽榴の温もり。それなのに圭はまだ、状況を飲め込めない。
「……ごめんね、圭」
芽榴は圭の頰に手を添えたまま、俯いて圭に謝った。
何に対する謝罪なのかもわからない。押し当てられた芽榴の唇の感触が、今もまだ圭の脳内を支配している。
(キス、した? 芽榴姉が……俺に?)
何も理解できない。芽榴の行動の理由も、言葉の意味も。
「芽榴、姉……なんで」
自分の声は掠れて、ひどく頼りない。情けない姿を晒したくないのに、動揺を抑えることができない。
圭の声を聞いた芽榴は俯いたまま。圭と目を合わさずに、口を開いた。
「……私を好きでいても、圭は幸せになれないよ」
芽榴は圭を好きではないのだから。いつもならそう解釈する。
けれど今は、それが違う意味の言葉な気がして、圭は芽榴の言葉を待った。
「圭には幸せになってほしい。……みんなに、『よかったね』って笑顔で言ってもらえるような恋をしてほしい」
芽榴との恋は、芽榴への想いは、圭が簡単に誰かに言えるようなものではない。
血の繋がりがなくても芽榴と圭は姉弟。その事実は変わらない。
2人の恋はたとえ実っても、みんながみんな、両手をあげて喜んで、祝ってくれるようなものにはならない。
「私には、圭を幸せには……」
「幸せだよ、俺は」
圭は、芽榴の声を遮って、自分の答えを示した。
まだ頭の中は芽榴のキスの余韻に浸っている。いまいちまだ、状況を理解しきれていない。
でも、芽榴の言いたいことは理解できる。理解した上で、圭は自分の答えを伝えた。
「俺は今までもずっと幸せだったから。……芽榴姉がそばにいたから、俺は幸せだった。ずっと、それだけが俺の幸せ」
芽榴の言葉は間違っている。
芽榴以外の誰かに与えられる幸せは、圭にとってかりそめのものでしかない。
芽榴以外の誰にも、圭を幸せにはできない。
「でも、それは……っ」
「俺は誰に何て言われてもかまわない。姉に恋してることを『気持ち悪い』とか『ありえない』とか、そういうふうに言われても、俺はそんなの気にしない」
誰かに揶揄される恋は苦しいかもしれない。辛いかもしれない。それでも。
「俺は、世間の声と恋してるわけじゃないから。俺はただ、芽榴姉に恋をしてるだけだから。……誰に何て言われても、芽榴姉がそばにいてくれるなら、俺はそれだけで自信持って幸せだって言えるよ」
絶対叶わないと思っていた恋。それが叶うなら、これ以上に幸せなことなどない。
「芽榴姉は、俺と一緒じゃ幸せにならない?」
芽榴が圭にそんな不安を感じるなら、逆もそう。
でも芽榴は、圭と同じように、首を横に振った。
「私は今までもずっと……圭にたくさん幸せもらったんだよ。いつだって圭が幸せにしてくれるから……私はその分、圭に幸せになってほしくて……」
「じゃあ、何も問題ないじゃん」
圭は芽榴の背中に腕を回す。抱きしめようとして、少しためらって、でも止めることはできなくて、圭は芽榴のことを抱きしめた。
「……圭」
「もう、何も考えないで。余計なこと全部忘れて。……ただ俺のことだけ見て」
そうして、ちゃんと考えて。
「芽榴姉は、俺のこと好き?」
絶対大切にする。絶対幸せにする。
誰になんと言われても、この手を絶対に離さない。
今度こそ、圭が芽榴を笑顔にして、ちゃんと守るから。
芽榴がやっと顔を上げてくれた。まっすぐに圭のことを見てくれた。
たったそれだけのことでも、圭はやっぱり芽榴のことが好きだと実感する。
「圭のことが、好きだよ。……私は、圭が好き」
言いながら、芽榴は涙をこぼしていた。
この想いの先が不安なのだと思う。芽榴は優しいから、いろんなことを考えてくれているのだと思う。
それでも好きだと言ってくれた。それくらい自分のことを好きになってくれたのだと、それが圭の心を満たしてくれる。
「嬉しい。……俺、やっぱり幸せだよ。芽榴姉の言葉だけで、俺はこんなにも笑顔になれる」
芽榴からもらえる「好き」は特別すぎて、頭の中が真っ白になるくらい嬉しくて。
余計なことを考えることもできなくなるくらい幸せだった。
こんな想いは、他の誰相手にも宿すことはできない。
「嘘みたい……本当に、芽榴姉がここにいる」
芽榴の香りが腕の中にある。
これから先も得ることのないと思っていた喜びを、圭は噛み締めて涙を流した。