#10
芽榴がアメリカに発つ日を、3日後に控えた土曜日。
楠原家には誰もいない。家の中は空っぽだった。
「家族旅行ってすっごく久しぶりね!」
車の中、助手席に座る真理子が楽しげに声をあげる。
芽榴との思い出づくりのために、重治が『家族旅行』を提案した。
重治と真理子からのお誘い。
もうこちらにいる時間も長くないのだから、芽榴も友人たちからお誘いがあったのかもしれない。けれど芽榴が大好きな両親からの誘いを断るわけがなかった。
(俺からの誘いだったら、断っただろうけど)
圭は隣に座る芽榴を、横目に見つめる。
芽榴は前に座る真理子と楽しげに会話をしていた。
「本当に久しぶりだね。私も楽しみだよー」
圭が隣にいる空間でも、目の前に両親がいるから安心しているのだろう。
浮かべる笑顔は穏やかだ。
けれど、後部座席のドアぎりぎりのところに座って、明らかに圭との距離はとっている。
それを確認して、圭は再び視線を正面に戻す。するとフロントミラー越しに重治と目があった。
「圭も、芽榴も、しっかり楽しもうな」
重治の目尻にシワが寄る。重治の優しい笑顔は、圭にあの夜の約束を思い出させた。
『芽榴と仲直りするなら』
この家族旅行は、芽榴と仲直りするために、重治が用意してくれた機会。
もともと芽榴と最後に家族で思い出づくりをしたいとは思っていたのだろう。
けれど、この機会を逃すわけにはいかない。
圭は重治にゆっくりと頷いて笑顔を返した。
「うん。俺も楽しむよ」
☆★☆
重治が連れてきてくれたのは、水と空気が綺麗な景色のいい田舎町。
昔、真理子と2人で旅行に来たことがある場所らしく、2人は思い出話に花を咲かせている。
丘の頂上から見る景色が綺麗らしいのだが、そこには歩きでしかいけないため、適当なところに車を停め、圭たちは車から降りた。
「懐かしい! 重治さんと昔もこうやって登ったの、覚えてるわ」
真理子のはしゃぎ声が前方から聞こえる。
なだらかな坂だから、歩きでもきつくはない。適度な運動になっていい。
重治と真理子は後ろを振り返ることなく、2人並んで頂上を目指す。
その後方を、圭と芽榴は静かに並んで歩いていた。
何か、言わなければいけない。
でも最初に口にする言葉は何がいいだろう。
今までは何も考えなくとも思いついていた会話が、今は懸命に考えても出てこない。
「……具合悪い?」
そんな圭に、遠慮がちな声が聞こえた。
芽榴のほうを見たら、芽榴が心配そうな顔で圭のことを見ていた。
「え……ううん、別に。……なんで?」
「きつそうな顔してたから。……圭なら、こんな坂どうってことないだろうし。……大丈夫なら、よかった」
本当に圭の具合を心配しただけなのだろう。
芽榴はそれだけ言うと、また前を向いて、無言で圭の隣を歩く。
たとえ圭の具合が悪くても、今の芽榴ならそれを無視することだってできるのに。
芽榴は嫌いな圭のことも、まだちゃんと心配してくれる。
(やっぱり……好きだ)
純粋に、そう思った。
ここ最近の欲だらけの汚い想いじゃなくて。
これは本当に綺麗な想い。初めて心に抱いた時と同じくらい、打算も後悔も、醜い感情のない想い。
ずっと、こんな綺麗な想いのままでいたかった。いるべきだった。
(俺には、やっぱり恋愛は向いてない)
「芽榴姉」
圭が小さな声で呼びかけると、芽榴が微かに肩を揺らす。
振り向いた芽榴の瞳は、予想通り、怯えを含んで揺れている。
でも、もうそれでいい。
「もう留学の準備済んだ?」
当たり障りのない会話に、芽榴は安堵するように強張らせた肩から力を抜いた。
「うん。……もう、ほとんど」
「そっか。寂しくなるね」
そして、芽榴はその言葉には返答しない。できないのだと思う。
下手な返答は圭の気持ちを煽るから。
もう、芽榴はそれを理解しているから。
優しい芽榴は、もう二度と圭に不用意な言葉はぶつけない。
「役員さんとお別れ会とかしたの?」
「え? ああ……まだ。でも、学園に行く最後の日にしてくれるって」
「そっか。じゃあ、最後にいっぱい楽しまなきゃだね」
お互いに、言葉を選んでいる。
ぎこちなくても、喋れないよりはいい。
芽榴に避けられたおかげで、圭には分かったことがある。
芽榴に当たり前にかけてもらっていた言葉が、当たり前ではなかったこと。それすらも大切だったこと。
芽榴との距離が近くて、当たり前に幸せをもらって、どんどん圭はその些細な幸せを幸せだと思えなくなって。
当たり前だと思うようになって。
もっともっと、高望みな幸せをねだっていた。
分不相応な願いを肥やして、大事なことを忘れてしまっていた。
芽榴と一緒にいられるだけで、幸せだったころの自分を、いつの間にか圭は忘れていた。
(だから、これでよかったんだ)
すべてをリセットして、圭は思い直すことができた。
また綺麗な心で、芽榴に向かい合える。
「芽榴姉」
「うん……」
「あのさ、今日の夜……父さんたちがいないところで、少しだけ話がしたい」
そう言えば、きっと芽榴は嫌がる。
圭の予想したとおりに、芽榴の表情は強張った。
だから圭は先手を打って、言葉を付け加えた。
「変なことはしないし、言わない。ただ、芽榴姉とこのまま気まずいのは嫌だから……ちゃんと話がしたい」
それでも芽榴が嫌だと言うなら、それだって受け止める。
「芽榴姉が俺を信じてくれるなら、ホテルで俺と2人になって。……嫌なら、この誘いも無視してくれていいから」
圭はそう告げると、前方を歩く2人に声をかけた。
「父さんたち、2人で突っ走りすぎー! 子ども置いてくなよ!」
そして圭は芽榴に笑顔を見せる。昔と同じ、弟の笑顔で。
「行こう、芽榴姉」
☆★☆
夜は更けて、圭たちは泊まる予定のホテルに来た。
この辺りではおそらくかなりいいホテル。外観からオシャレな造りで、ライトアップの仕方も凝っていた。
とっているのは2人部屋のため、重治と圭、真理子と芽榴で隣同士の部屋で泊まることになっている。
「うわーっ。すっげーいいホテル。なんか緊張するんだけど」
ふかふかのベッドに座って、圭はテンション高めの声を上げる。
すると重治は「奮発したからな!」と同じようなテンションで返してくれた。
でもこの旅行も明日の昼には終わり。
肝心なことが達成されたのか、重治はそれを視線で圭に問いかけた。
「……ありがとう、父さん」
「仲直りできたのか?」
「まだ。でも、仲直りするよ。絶対できる」
どう頑張っても、完全な仲直りにはならないけれど。
また芽榴が圭に笑いかけてくれるように。それがぎこちなくても、遠慮がちな笑顔でも。
それでもいい。それで十分だ。
「だから、もう一個わがまま。俺と芽榴姉に時間をちょうだい」
☆★☆
圭はホテルのエントランスに立っていた。
夜風は寒くて、身震いしてしまう。
このままあと何分待つことになるだろう。もしかしたら、朝まで待つことになるかもしれない。
こうして待つことが無駄になる可能性もある。
おそらく今頃、重治が真理子と芽榴の部屋に遊びに行っている。そこで重治は芽榴にこう言うのだ。
『圭は外の風を吸ってくるって言ってたぞ』と。
それだけできっと芽榴は察してくれる。昼の約束を、思い出してくれる。
そして、そのあとどうするかは、芽榴次第。
(来て……芽榴姉)
こんな願いくらいは叶えてほしい。
祈るように手を握って、額に当てる。
目を閉じて、耳を澄まして。
そうして圭は後ろを振り返った。
「……来て、くれたんだ」
振り返った先には芽榴がいた。前によく見た、困り顔で。
「中で待ってないと、風邪引くよ」
「平気。俺、丈夫だから」
現れてくれた芽榴に、感謝の気持ちが溢れる。
ほんの少しでも、自分のことを信じてくれてありがとう、と。
自分と仲直りしたいと思ってくれていたなら、ありがとう、と。
心の中でお礼を言いながら、圭は少しだけエントランスから離れた場所へ芽榴を連れて行った。
このホテルに来た時から、目を引いたライトアップの綺麗な庭園。
ロマンチックな話をするわけではないけれど、暗い夜道よりは、少しでも明るいところがいい。
「綺麗だね、このホテル。父さんが奮発したって」
「お母さんも部屋ではしゃいでたよ」
そうして、2人のあいだに沈黙が訪れる。
当たり障りのない会話は、もうこれで終わり。
仲直りのためには、どうしても苦しい想いに触れなければいけないから。
「芽榴姉」
「圭」
そうして同時に声を発してしまう。
圭はそれに驚いて、芽榴も同じくらい驚いた顔をした。
それがなんとなく面白くて、2人一緒に吹き出して笑った。
(ああ……これ嬉しい)
「なんか、すげー久々に芽榴姉の笑い声聞いた」
笑えなくしたのは圭だ。だから、自分の発言で、自分の首が締められる気分になる。
複雑な表情を浮かべる圭に、芽榴が声をかけた。
「圭。私ね……ずっと、不思議だったの」
「不思議?」
圭が眉を寄せて問い返すと、芽榴はゆっくり頷いた。
「圭は、昔からずっと私に優しくて。……面倒くさい事情ばっかり抱えてる私のこと、嫌いになってもおかしくないのに、いつも私のこと助けてくれて、私が何をしても、何を言っても怒ることをしなくて」
それが不思議だった、と芽榴は言った。けれど同時に、もうその答えは分かっているのだと、告げるみたいに眉を下げて笑った。
「私は、圭の優しさに何度も救われたよ。圭の笑顔に何度も心を慰められた。その優しさと笑顔が『私を好きだったから』っていう理由だったなら……私は、圭の『好き』って言葉に、『ありがとう』って言わなきゃいけなかったのにね」
「それは……っ」
「ひどいこと言って、ごめんね。突き放して、ごめんね」
その言葉だけで分かる。
芽榴が懸命に圭の気持ちと向き合おうとしていたこと。
簡単に圭の気持ちを捨てたわけじゃないのだと。
(それなのに、俺は……)
身勝手に、芽榴のことを責めて、傷つけて。
「なんで芽榴姉が先に謝っちゃうの。謝らなきゃいけないのは、どう考えたって……俺のほうでしょ」
声が震えて、泣き出したくなる。
それを懸命に堪えたら、圭の顔はぐちゃぐちゃに歪んでしまった。
「いい弟のままでいられなくて、ごめん。……勝手な気持ちばっかぶつけてごめん。泣かせてごめん……全部ごめんね。それなのに、俺のこと嫌いにならないでくれて……ありがとう」
芽榴の笑顔がまた見られてよかった。
芽榴とまた、話すことができてよかった。
芽榴が、自分を嫌いにならなくて、よかった。
「芽榴姉……手、握っていい?」
「え……」
「握るだけ、だから」
涙で前がよく見えない。そんな圭をかわいそうに思ったのか、芽榴のほうから圭の手を優しく包み込んでくれた。
芽榴は、どこまでも、圭に優しい。
「芽榴姉。好きになって、ごめんね。……でも俺、芽榴姉のこと好きになったことは、後悔してないんだ」
「……うん」
「本当に、本当に……芽榴姉のことが好きだから」
好きになれとは言わないから、この想いを許してほしい。
「でも、好きっていうのは……これが最後」
もう二度と芽榴に好きとは言わない。
芽榴を困らせる言葉も、芽榴の嫌がることも、もう二度と口にしないから。
「だから、代わりに俺のワガママを5つ聞いて」
これがケジメ。
圭が二度と芽榴に想いを伝えない。代わりに芽榴に、圭のワガママを聞いてほしい。
圭が考え抜いた、5つのワガママ。
「うん。聞くよ。圭が滅多に言わないワガママだもんね」
芽榴の声が震えている。きっと泣いているのだ。
(また俺が、泣かせてる)
でもきっとこれは、嫌な涙ではないはずだから。
「まずね、もう変に避けたりしないで」
「それは、ワガママじゃないでしょ? もう、避けないよ」
「ワガママだよ。ワガママだから絶対に聞いて」
芽榴が絶対に、圭を避けないように。それがまず一番のワガママ。これだけ勝手なことをした圭を、芽榴が突き放さないように。
「次は、もう無闇に俺のこと好きって言わないで。……言わないだろうけど」
弟してでも、もう二度と言わないでほしい。圭も言わないから。
芽榴は圭の手をぎゅっと握りしめて「うん」と詰まりそうな声で頷いた。
「それとね、アメリカに行っても俺に電話とか手紙とかちゃんとちょーだい」
「うん」
「あと、アメリカから帰ってきたら、一番に会うのは俺にして。父さんたちと迎えに行くから」
そう圭が言うと「もう全然ワガママじゃないじゃん」と芽榴は困ったような声を出した。
圭にとっては、それでもどうしようもなく芽榴に聞いてほしいワガママ。
けれど次こそが、芽榴にも負担をかける一番のワガママ。
「俺の告白を、なかったことにはしないで」
もう二度と好きとは言わない。けれど、好きだった事実を消さないで。忘れないで。
その願いを、芽榴は受け入れてくれた。
「うん。忘れない。……圭の、大切な気持ちだもんね」
最後の最後まで、芽榴は圭の欲しい言葉を選んで渡してくれる。
(本当に、ずるいよ。……芽榴姉)
これが、圭と芽榴の仲直り。
「仲良しの姉弟に戻ろう」
また芽榴の近くにいられるなら、心が遠く離れても、それでかまわない。
芽榴の心の中に、自分の想いがちゃんと刻まれたなら、もうそれでいい。
涙がこぼれ落ちて、芽榴の笑顔がはっきりと見えた。
(大好きだよ、芽榴姉)
言葉にできない気持ちを、心の中で繰り返す。
そうして、すべてにケリをつけて。
芽榴は笑顔でアメリカへ旅立った。
これにて、折り返し。
圭の闇落ち編終了です。
そして、時間軸は一年後へ。