第95話 美紗子が泣いた日その㉗ 始まる。
「えっ?」
思わず漏らした美紗子の声に、隣の幸一も気付いてはそちらを眺める。そして直ぐに太一から聞いていた話を思い出しては、美紗子の席の前に立つ根本から視線を外せなくなった。
「だからさ、みんなに迷惑掛けたじゃん」
そんな幸一の視線などまるで気付かないかの様に、相変わらず余裕な口ぶりで話す根本。
(この人は、何処まで知っているのだろう?)
根本の表情を見ながらそんな事を考えていた美紗子と幸一は、どちらも口を開かず、ただ黙って様子を窺う様に自分達より高い位置にある根本の顔を、顔を上げて見つめていた。
だからこの後に最初に口を開いたのは、意外にも副委員長の水口だった。
水口は根本が席を立ち、歩き出した時にはもう既に気付いていたのだ。
美紗子の席へと向かって一直線に向かう根本と、前の方に座るクラスの学級委員長(男子)を交互に眺める。
委員長は事態に気付いているのかいないのか、机の上に広げた教科書とノートを前に真面目に自習勉強をしている。
そんな事だから水口が口を開いたのだ。
「根本さん、席に戻りなさい。今は休み時間ではなくて自習時間。つまり授業の時間なの」
規律は大切だ。規則は大切だ。
社会には一定の守るべきルールがあって、それが安全な生活・秩序を作る。
そういった水口の基本的な考えは、彼女に厳しい口調でそんな言葉を発せさせた。
しかし当の根本にとっては、それは大した問題ではなかった。
水口は副委員長だ。学級委員長ではない。しかも委員長は男子だ。
この問題に男子はそうそう口を挟んでは来ないだろうし、つまりは水口はこのクラスで一番偉い訳ではない。
「寧ろ自習時間だから丁度良いんじゃないの? 美紗子の所為でこのクラスの女子全員が男好きだと他のクラスに誤解されているかも知れないんだよ。それってこういう時間にこそ話し合うべき問題じゃないの? 大体水口さんは一番迷惑を蒙った被害者なんでしょ。美紗子にはみんなの前で謝って貰って、分からない人もいるから放課後何処で何をしていたのかもちゃんと説明して貰うべきでしょ」
(それじゃあ…公開裁判だ…)
そんな事にでもなったら美紗子は、みんなの前で謝罪した上に、ある事ない事色々と質問されて、更にそれにちゃんと答えなければならなくなるだろう。
(それもあの根本だ。きっと悪意に満ちた下品な質問を幾つも投げかけて来るだろう。本当はただ美紗子を虐めたいだけの筈だ。それもクラス全員の目の前で…しかし…ここの所の根本はどうにもおかしい。果たして彼女はこんなタイプの女子だっただろうか。以前はもっと的外れな事を話をしたり、空気の読めない所のある変な奴だった。なのに今はこんなにも理路整然と、立派な理由まで考えて虐めを敢行しようとしている。まるで別人の様だ…)
「私の事ならもう話はついているから。それにその問題は既に解決しています。根本さんが想像する様なクラス全体の女子に関る様なデマや噂も出ていません。もうとっくに終った話なの。誰かがしつこく突っつかなければ。だから席に戻りなさい」
どうにも以前とは様子のおかしい根本の事を訝しがりながらも、やはり自分のクラスの秩序が崩されるのおもしろくはないので、水口は毅然とした態度で再び根本にそう言った。
「そんなのみんなに聞いてみないと分からないじゃない。美紗子が違うクラスの女子から借りた教科書を返すのも忘れて、放課後図書室で何をしていたのか。みんなだって知りたいと思うし、知る権利があるでしょ」
!!
その根本の発言は、内情を知る数名の表情を強張らせる。
(こいつ、#端__はな__#から自分の口で知っている事を全てみんなの前で言う気なのか)
それには思わず自分の席から座って事の成り行きを眺めていた太一すら驚いた。
(じゃあ俺はどう動けば良い? ギリギリの所で美紗子を助ける為に立ち上がるか。それともいっそボロボロになって、独りぼっちになった美紗子の前にでも現れるようにするか)
太一は根本の顔を眺めながら、まだ結論が出ずに思案し続けていた。
「あ、あの、それは…」
それから事の成り行きを理解し始めた幸一が、はっきりとは聞こえない様な小さな声で、それでも倉橋美紗子への誤解を解こうと懸命にその件について説明をしようと話し始めた時だった。
いつの間にか下唇を噛みながら根本を睨んでいた美紗子が、その幸一の声よりももっとはっきりとした口調で言葉を発しながら立ち上がったのだ。
「謝ればいいんでしょ。確かに教科書を借りていたのを忘れていたのは事実だし、その事で数人の人に迷惑を掛けた事も事実かも知れない。だからその事なら謝る。でもそれ以外には何も悪い事なんてしてないから」
そう言いながら美紗子は軽く俯く様に頭を下に下げ始めた。
しかし根本の望みはそんな事ではない。
根本は謝る為に頭を下げようとしていた美紗子の頬の側をゆるくユラユラ揺れる三つ網を掴むと、それを横に引っ張ったのだ。
「きゃっ!」
突然の痛みに横に崩れ倒れる美紗子。
その倒れ方がまたお嬢様座りの様で気に入らない根本。
「ここじゃあないよ美紗子。教壇の所の台の上で土下座してみんなに見える様に謝るんだよ」
根本は目の前に倒れている美紗子に向かってそう言うと、もう一度三つ網に手を伸ばし、それを掴むと教壇の方へと引っ張ろうとする。
「やめてよ!」
しかしその時、もうどうにも我慢が出来なくなった悠那が立ち上がり叫んだ。
つづく
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